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第5章 留学生
透明な姫
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薄暗い森の中。
暗澹と雲が動き、時折得体の知れぬ獣の声が轟く。
木の葉の隙間から射し込む光を頼りに、ひとりの少女が森を歩いていた。
厚手の黒いローブに身を包み、長い青髪をなびかせる。
彼女は両の瞳でまっすぐに前途を見つめて進み続けていた。
「……!」
瞬間、少女のそばで茂みが揺れ動く。
彼女は茂みから視線を逸らすことなく、その場に立ち止まった。
一拍置いて茂みから飛び出したのは巨大な狼。
しかし獰猛な狼は少女に向かうことなく、まるで鬼でも見たかのように尻尾を巻いて一目散に逃げ出した。
「ザコめが」
呪われ姫……ノーラは悪態を吐いて歩みを再開した。
懐からメモ帳を取り出し、さらさらとペンを走らせる。
「狼、効果あり……と」
呪眼の効果検証実験。
人間と魔物、一部の動物に効果があることは確認済み。
もしかしたら呪いが効かない動物がいるかもしれない……と思い立ち、こうして呪眼を向ける種族を細分化しているわけだ。
今のところ、すべての動物に有効。
これ以上検証を続ける意義があるのか……怪しくなってきた。
そろそろ引き上げるべきだろうか。
「うおっ」
振り向いた瞬間、すぐ後ろにいた熊と目が合った。
熊もノーラを視認して驚いたのか、慌てて彼方へ逃げていった。
ノーラは右目を見られなければ恐怖を与えられない。
ゆえに背後を突かれて獣に襲われる……なんて可能性も今まではあったが、今は違う。
幻影魔術の応用により、ノーラの側部と背後は動物から見えないようになっているのだ。
つまり、ノーラが振り向くまで熊は彼女を視認できていなかった。
不意を突いて襲われる心配もない。
そういうわけでノーラは単身で調査に来ていた。
「でもまあ、心臓に悪いよね。呪いのおかげで襲われないのがわかってても、野生動物は怖えよ。いちばん動物たちを怖がらせてるのはわたしだけど」
自嘲気味にノーラは笑い、後方と側方に展開していた魔力を前方に押し広げた。
「幻影装」
前方からの視認も防ぐ幻影を展開。
これで透明人間のできあがり。
……しかし、ノーラの魔術の腕は稚拙で。
よく見れば空間が不自然に歪んでいるし、魔力がダダ洩れである。
人間が感知しようとすればすぐに見抜けるレベル。
獣を騙すくらいの効果だ。
そのうち完璧に偽装できるようになるかもしれないが、今はまだ未熟。
とりあえず過剰に動物たちを怖がらせないように全身を隠した。
下手に脅かして、動物が人里に出たりしたら大変だ。
「今日はこれで終わりにする。てか暑いし……もう歩くのきつい」
季節は夏。
夏にも拘わらず、森に入るので厚手の服を着ている。
魔力の流れを促進するローブはありがたいのだが、どうしても夏場は苦しくなってしまう。
ノーラは息苦しさを我慢しながら森を抜けた。
◇◇◇◇
「えー……そういうわけでありまして。哺乳類、爬虫類、魚類等々……色々な種族に右目を見せてみましたが、効果は一様でありました」
「つまり、意味のない検証だったというわけだ」
「ぐへ」
マインラートの鋭いひとことに、ノーラは口ごもる。
クラスNの講義にて研究の成果を報告したが……これは成果と言っていいものか。
学園に入学してからずっと呪いについて研究しているが、芳しい結果は出ていない。
「いえ、意味はあったでしょう。ほぼすべての種族に対して例外なく呪いが効く……という事実がわかったのですから」
フリッツがマインラートに異を唱える。
彼の淡泊な言葉に、マインラートはいつものニヤニヤした笑みを張りつけて鼻を鳴らした。
「へぇ。フリッツのことだから厳しい指摘が飛ぶと思ったのにな。あんたも甘くなったもんだな」
「事実を述べたまで。研究とは地道な積み重ねです。些細な事象でも役に立つことはあるでしょう」
「俺が細かい成果を報告したときは、そのくらい報告するまでもないって一蹴したくせによ」
マインラートは不服そうに肩をすくめた。
言い合いをする二人の様子を見かねたのか、ヴェルナーが口を挟む。
「話が逸れている。意見や質問が出せないのならば黙っていろ」
先輩の叱責に後輩たちは閉口した。
クラスNの講義には雑談が混じることも多いが、あまりに話が逸れたら軌道修正は必要だ。
流れの停滞を感じ取ったペートルスが話を本筋に戻しつつ、ノーラに質問する。
「僕が気になるのは……人間の中には呪いが効かない人もいるってことかな。僕やレディ・エルメンヒルデには呪いが効かない。同じ種族の動物にも、呪いが効く個体と効かない個体がいるかもしれないね」
「な、なるほど……つまり、ペートルス様は恐怖するのがお好きな変態だから効かない。エルンは……なんだろう、巫女だから効かないのかな? 呪いを弾くてきな」
「エルンはね……うん、たぶんそうかな。呪いの類には強いよ。ノーラちゃんの右目を見ると、すっげぇ邪悪な気配を感じるんだよね。……でもペートルス先輩からも、」
「たしかに僕は昂る相手を求めている節があるけれど、変態という言葉は慎んでいただきたいね。わかったかい、ノーラ?」
「は、ははは、はいっ!」
ペートルスの圧の籠った笑顔に、ノーラはおずおずとうなずく。
そもそもペートルスに呪いが効かない原因が、彼の性癖にあるとも限らない。
偏見には気をつけよう。
「……おっと、時間だね。今日の講義はここまでにしよう。来週の発表はヴェルナーと僕。そろそろ夏休みも近づいてきたから、休暇中に行う研究の予定を立てておくように」
◇◇◇◇
講義を終え、ノーラはエルメンヒルデと共に寮へ向かっていた。
明日と明後日は休日。
ノーラも今宵は夜更かしして小説を読みふけるつもりだった。
「あー楽しみ! 今日は新刊の小説を読む予定なんだ。休日全部潰しちゃうかもなー」
「ノーラちゃん。もうすぐ期末試験なの忘れてない?」
「あっ、試験ね……まあまあ、ほどほどに。ほどほどにがんばろうや。エルンもわたしと一緒に赤点狙っちゃおうぜ?」
「エルンは一応学級委員だからねぇ。それなりの成績は維持しないと」
勉強は嫌いじゃないが、試験は嫌いだ。
自分の好きなことならとことん突き詰められるのに、興味のない科目になった途端にやる気が失せてしまう。
他の生徒と比べてまともな教育を受けてこなかったぶん、ノーラの試験はとりわけハードなものになる。
「そういえば聞いた? もうすぐ交換留学生が一年生にくるらしいんだけど……ノーラちゃんのクラスにくるってさ」
「交換留学生ねー。ニルフック学園しか知らねぇや」
「交換留学生は『ロドゥラグ騎士学校』ってとこからくるらしいよ。帝国騎士を志す人たちが入っていく学校。めーちゃくちゃ校則が厳しいらしくてね、嫌だねぇ」
グラン帝国は広大だ。
広大な土地に住む人々を教育するためには、もちろんニルフック学園だけでは事足りない。
実質貴族の遊び場と化しているニルフック以外にも、ちゃんと教育機関としての役割を果たしている学校はたくさんある。
「なんかこう……封建派な留学生が来そうで嫌だな。静かで和を乱さない人が来てくれますように」
ノーラはささやかな祈りを捧げる。
自分を虐めそうな人とか来ないでほしい。
だが、彼女の祈りは届かず。
最悪な留学生がやってきたのだった。
暗澹と雲が動き、時折得体の知れぬ獣の声が轟く。
木の葉の隙間から射し込む光を頼りに、ひとりの少女が森を歩いていた。
厚手の黒いローブに身を包み、長い青髪をなびかせる。
彼女は両の瞳でまっすぐに前途を見つめて進み続けていた。
「……!」
瞬間、少女のそばで茂みが揺れ動く。
彼女は茂みから視線を逸らすことなく、その場に立ち止まった。
一拍置いて茂みから飛び出したのは巨大な狼。
しかし獰猛な狼は少女に向かうことなく、まるで鬼でも見たかのように尻尾を巻いて一目散に逃げ出した。
「ザコめが」
呪われ姫……ノーラは悪態を吐いて歩みを再開した。
懐からメモ帳を取り出し、さらさらとペンを走らせる。
「狼、効果あり……と」
呪眼の効果検証実験。
人間と魔物、一部の動物に効果があることは確認済み。
もしかしたら呪いが効かない動物がいるかもしれない……と思い立ち、こうして呪眼を向ける種族を細分化しているわけだ。
今のところ、すべての動物に有効。
これ以上検証を続ける意義があるのか……怪しくなってきた。
そろそろ引き上げるべきだろうか。
「うおっ」
振り向いた瞬間、すぐ後ろにいた熊と目が合った。
熊もノーラを視認して驚いたのか、慌てて彼方へ逃げていった。
ノーラは右目を見られなければ恐怖を与えられない。
ゆえに背後を突かれて獣に襲われる……なんて可能性も今まではあったが、今は違う。
幻影魔術の応用により、ノーラの側部と背後は動物から見えないようになっているのだ。
つまり、ノーラが振り向くまで熊は彼女を視認できていなかった。
不意を突いて襲われる心配もない。
そういうわけでノーラは単身で調査に来ていた。
「でもまあ、心臓に悪いよね。呪いのおかげで襲われないのがわかってても、野生動物は怖えよ。いちばん動物たちを怖がらせてるのはわたしだけど」
自嘲気味にノーラは笑い、後方と側方に展開していた魔力を前方に押し広げた。
「幻影装」
前方からの視認も防ぐ幻影を展開。
これで透明人間のできあがり。
……しかし、ノーラの魔術の腕は稚拙で。
よく見れば空間が不自然に歪んでいるし、魔力がダダ洩れである。
人間が感知しようとすればすぐに見抜けるレベル。
獣を騙すくらいの効果だ。
そのうち完璧に偽装できるようになるかもしれないが、今はまだ未熟。
とりあえず過剰に動物たちを怖がらせないように全身を隠した。
下手に脅かして、動物が人里に出たりしたら大変だ。
「今日はこれで終わりにする。てか暑いし……もう歩くのきつい」
季節は夏。
夏にも拘わらず、森に入るので厚手の服を着ている。
魔力の流れを促進するローブはありがたいのだが、どうしても夏場は苦しくなってしまう。
ノーラは息苦しさを我慢しながら森を抜けた。
◇◇◇◇
「えー……そういうわけでありまして。哺乳類、爬虫類、魚類等々……色々な種族に右目を見せてみましたが、効果は一様でありました」
「つまり、意味のない検証だったというわけだ」
「ぐへ」
マインラートの鋭いひとことに、ノーラは口ごもる。
クラスNの講義にて研究の成果を報告したが……これは成果と言っていいものか。
学園に入学してからずっと呪いについて研究しているが、芳しい結果は出ていない。
「いえ、意味はあったでしょう。ほぼすべての種族に対して例外なく呪いが効く……という事実がわかったのですから」
フリッツがマインラートに異を唱える。
彼の淡泊な言葉に、マインラートはいつものニヤニヤした笑みを張りつけて鼻を鳴らした。
「へぇ。フリッツのことだから厳しい指摘が飛ぶと思ったのにな。あんたも甘くなったもんだな」
「事実を述べたまで。研究とは地道な積み重ねです。些細な事象でも役に立つことはあるでしょう」
「俺が細かい成果を報告したときは、そのくらい報告するまでもないって一蹴したくせによ」
マインラートは不服そうに肩をすくめた。
言い合いをする二人の様子を見かねたのか、ヴェルナーが口を挟む。
「話が逸れている。意見や質問が出せないのならば黙っていろ」
先輩の叱責に後輩たちは閉口した。
クラスNの講義には雑談が混じることも多いが、あまりに話が逸れたら軌道修正は必要だ。
流れの停滞を感じ取ったペートルスが話を本筋に戻しつつ、ノーラに質問する。
「僕が気になるのは……人間の中には呪いが効かない人もいるってことかな。僕やレディ・エルメンヒルデには呪いが効かない。同じ種族の動物にも、呪いが効く個体と効かない個体がいるかもしれないね」
「な、なるほど……つまり、ペートルス様は恐怖するのがお好きな変態だから効かない。エルンは……なんだろう、巫女だから効かないのかな? 呪いを弾くてきな」
「エルンはね……うん、たぶんそうかな。呪いの類には強いよ。ノーラちゃんの右目を見ると、すっげぇ邪悪な気配を感じるんだよね。……でもペートルス先輩からも、」
「たしかに僕は昂る相手を求めている節があるけれど、変態という言葉は慎んでいただきたいね。わかったかい、ノーラ?」
「は、ははは、はいっ!」
ペートルスの圧の籠った笑顔に、ノーラはおずおずとうなずく。
そもそもペートルスに呪いが効かない原因が、彼の性癖にあるとも限らない。
偏見には気をつけよう。
「……おっと、時間だね。今日の講義はここまでにしよう。来週の発表はヴェルナーと僕。そろそろ夏休みも近づいてきたから、休暇中に行う研究の予定を立てておくように」
◇◇◇◇
講義を終え、ノーラはエルメンヒルデと共に寮へ向かっていた。
明日と明後日は休日。
ノーラも今宵は夜更かしして小説を読みふけるつもりだった。
「あー楽しみ! 今日は新刊の小説を読む予定なんだ。休日全部潰しちゃうかもなー」
「ノーラちゃん。もうすぐ期末試験なの忘れてない?」
「あっ、試験ね……まあまあ、ほどほどに。ほどほどにがんばろうや。エルンもわたしと一緒に赤点狙っちゃおうぜ?」
「エルンは一応学級委員だからねぇ。それなりの成績は維持しないと」
勉強は嫌いじゃないが、試験は嫌いだ。
自分の好きなことならとことん突き詰められるのに、興味のない科目になった途端にやる気が失せてしまう。
他の生徒と比べてまともな教育を受けてこなかったぶん、ノーラの試験はとりわけハードなものになる。
「そういえば聞いた? もうすぐ交換留学生が一年生にくるらしいんだけど……ノーラちゃんのクラスにくるってさ」
「交換留学生ねー。ニルフック学園しか知らねぇや」
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グラン帝国は広大だ。
広大な土地に住む人々を教育するためには、もちろんニルフック学園だけでは事足りない。
実質貴族の遊び場と化しているニルフック以外にも、ちゃんと教育機関としての役割を果たしている学校はたくさんある。
「なんかこう……封建派な留学生が来そうで嫌だな。静かで和を乱さない人が来てくれますように」
ノーラはささやかな祈りを捧げる。
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