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第三話
性への嫌悪感
しおりを挟むハンドルを握るマサトシがため息をつきながら、「水曜日が定休日だってことぐらい、ちゃんと調べといてくれよな」と言うと、助手席のキョウコは前を向いたまま「はいはい、すみませんでした」といかにもふてくされた口調で返してきた。
「何だよ、その言い方。自分がチェックを怠っておいて、逆ギレかよ」
「行くことが決まったのって、出発する直前だったよね。マサトシも、おう行こう行こうって賛成したよね。だから私はてっきり、今日は営業してるってマサトシは知ってるんだって思ったのよっ」
「何年も前に一度行ったことがあるだけの洋食屋の定休日なんか知るわけないだろう。スマホでちょっと調べりゃ済んだことだろうに」
「それはマサトシもね」キョウコは相変わらずこちらを見ることなく、前を向いたまま続けた。「二人で行こうってことになったんだから、定休日のチェックを怠ったことについては、お互い様でしょ」
「へいへい、左様ですね、悪うござんした」
マサトシは医療機器メーカーで営業の仕事をしており、キョウコは生命保険の外交員をしている。子どもはもう少しおカネを貯めてから、という合意のもと、共働き生活が続いている。
普段は互いの休日が合わないことが多く、また帰宅時間もバラバラなため、今ではすれ違いの生活が常態化していた。また、互いに仕事のストレスが蓄積して、最近はしなくてもいい八つ当たり的な口論が増えていた。
これではよくない、ということで昨夜二人で話し合い、翌日にどちらも有給休暇を取ってどこかに出かけようということになった。そして今朝、会社に電話をかけて休暇取得の了解が取れたところでキョウコが「ねえ、あそこに行かない? ほら、前に行ったことがある老舗の洋食屋さん。あそこのプレーンオムレツ、すっごく美味しかったのよね」と提案し、マサトシも賛成したのだった。自宅の賃貸マンションからだと四十キロほど離れた場所にあることも、ちょうどドライブも兼ねることができていいと思った。
洋食店に到着するまでは、久しぶりに会話が弾んだ。マサトシは以前行ったときはオムライスを頼んだのだが、チキンライスの上に乗った卵はまさにふわふわとろとろで、卵もバターも、ものが違うことは明らかだった。あのとき、テーブルの向かいにいたキョウコはプレーンオムレツとミニパスタを食べていたのだが、それも旨そうで、次に来たときはそっちを頼もうと思ったものである。
そう、あのときは数週間後にでも再訪するつもりだったのだ。ところが休日が食い違うことが多くなり、そのうちに、と思っていたら五年近くが経ってしまっていたのだ。
マサトシはさきほど見た、シャッターが下りて〔定休日〕のプレートがかけられていた老舗洋食店を思い出し、小さく舌打ちした。せっかくの休日なのに。
ノープランの状態で、来た道を戻っているところだった。この後、どうするか……。
キョウコはスマホを出していじり始めた。その態度はあからさまに、話しかけてくるな、と言わんばかりだった。
新婚当初は、こんなに悪い空気になったりはしなかった。どちらもトゲのあるもの言いをしないよう気をつけていたし、口論になったときも互いに謝ってすぐに仲直りができた。いつからこんな感じになってしまったのだろうか。
キョウコがあの老舗洋食店に行こうと提案したのは、今よりもずっと仲がよかったあの頃の思い出の場所だったからなのかも。そのことに思い至ったマサトシは、なのにさっきのようなきつい言い方をしてしまったことを後悔した。
早めに仲直りをするきっかけを作らないと……。
突然、キョウコが「あっ」と言ったので「どうした?」と尋ねた。
「右の方に山が見えるでしょ。その山道を上がっていったら、だし巻き卵専門の人気料理店があるみたい」
「何ていう店?」
「だし巻き本舗だって」キョウコはスマホ画面を見ながら言った。「えーと、ここからだと七キロぐらい。お店の外観の写真もあるけど、古民家風の感じ」
「定休日は?」
「木曜日。つまり、今日は営業してるってこと」
「だし巻き卵専門って、どういうことよ」
「メニューがだし巻き卵定食しかないんだって。ご飯に豚汁と野菜のおひたしがついてて、メインは、結構な大きさのだし巻き卵。今、そのだし巻き卵定食の写真を見てるんだけど、お寿司とかを載せる板みたいなの、何て言うんだっけ?」
「寿司げた?」
「あ、そうそう。その寿司げたの上にだし巻き卵がでんと載ってる。お客さんのコメントを見る限り、ハズレじゃなさそうだよ。ふわふわで口の中でほろりと崩れて、だしがじゅわっと出てきて、一般家庭ではまず作れない柔らかさだってさ。だし汁も作り方も秘伝とされてて、近郊でたっぷり運動させて育ててる地鶏の卵を使ってるって」
聞いただけでつばが湧いてきた。
マサトシは「よし、じゃあそこに行こう」とうなずきながら、これで険悪な雰囲気も解消できそうだなと、ほっと胸をなで下ろした。
だし巻き卵本舗を後にして山道を下りながら、マサトシは余計なことは言わないでおくことにした。どんな言葉も今はさらなる負のループを招く。キョウコも同じ感覚らしく、車を発進させたときに「残念だったね。仕方ないよ、こればっかりは」と言っただけで、怒りよりもなぐさめるような言葉を口にした。
今日は確かに営業していた。だが、マサトシたちが到着したときには、既に売り切れによる閉店作業中だった。
――すみません。平日にしては今日は早い時間からお客さんが多くて。
頭に手ぬぐいを巻いた調理服姿の店主らしきおじさんと、女将さんらしき女性はそんな言葉と共に丁寧に謝っていた。直後にキョウコがスマホで確認したところ、売り切れたら店じまい、というのがこの店のルールだということが判った。
最初からここに来ていれば食べられた。
だが、それを口にしたところで仕方がない。最初はあの老舗洋食店に行くことが決まっていたのだから。
運転しながら「また行けばいい。早い時間に行けば大丈夫」と言うと、キョウコは感情がこもらない声で「うん」と答えた。その後、マサトシが「なんとなく卵料理という前提でここまで来たけど、こだわらないでどこか目についた店に入ってもいいんじゃないか?」と言ってみると、キョウコは「そうだね」と同意した。だがその言い方には、怒りを静めようと我慢している雰囲気が感じられた。
「何ならコンビニのおでんコーナーで味卵を多めに買って帰るか?」とも提案してみたが、キョウコは「それはいつでも食べられるでしょ」とけだるそうに言った。
「じゃあどうしようか?」と聞くと、しばらく無言の間があってから、「ふわふわ卵の親子丼はどうかな。駅前の」と言った。
「それは半年前に行ったんじゃなかった?」
「じゃあいいよ、別に」
キョウコは明らかにキレかけていた。マサトシは、余計なことを言ってしまったことに気づいて、心の中で舌打ちした。
山道を下りる途中で、山菜料理店の小さな案内看板を見つけた。停止して確かめると、少し先の分かれ道を右折してしばらく進むだけ。ヤマメの塩焼きと山菜おこわの定食を出してくれるらしい。キョウコもそれでいいと言ったので、マサトシはハンドルを切って右の山道を進んだ。
結果、道に迷った。進んでも進んでもそれらしい店はなく、左は川が流れる谷、右は木々が茂る斜面が延々と続いた。キョウコがスマホを取り出して調べ、怒りを殺した機械的な声で「その店、だいぶ前になくなっちゃってるみたいよ」と教えてくれた。
来た道を引き返そうにも車を切り返すようなスペースが見つからず、このまま進むしかなかった。カーナビがないので、キョウコにスマホで道を調べてもらったところ、もう少しで国道に出られることが判った。
と、そんなときに、傾斜が緩くなった道沿いに古い民家が一軒だけ、ぽつんとあった。
「あそこでトイレ借りたい」とキョウコがぶっきらぼうに言った。
八十前後と思われるおばあさんが一人で暮らしている家だった。快くトイレを貸してくれ、マサトシたちが礼の言葉と共に頭を下げると、おばあさんは「せっかくのご縁だし、よかったらちょっと休憩していかんかね」と愛想よく言ってくれ、それに甘える形で、テレビや座卓がある和室でお茶を飲ませてもらった。
そんなときにマサトシのおなかがぐーっと鳴り、おばあさんから「あら、おなかがすいとるんかね。うちにあるもんでよかったら食べていかんかね」と言われた。
マサトシは「いえいえ、とんでもない」と手を振ったが、キョウコが「せっかくだからいただいちゃおうよ」と妙な笑顔で言い、おばあさんも「そうそう、年寄りの申し出を遠慮するもんやないよ」とたたみかけられた。キョウコはどうやら、半ばやけっぱち状態で、居直って流れに身を任せることにしたようだった。
おばあさんから「じゃあ、ちょっとついて来てくれるかね」と言われ、三人で家の裏に回った。そこには畑だけでなく、納屋を改造して作ったらしい鶏小屋もあって、数羽の赤鳥がコッコッコッと小さく鳴きながらエサをついばんでいた。
おばあさんから「卵、自分で取ってみるかね?」と笑って言われた。
キョウコは「えーっ、怖いよ」と言うので、マサトシが鶏小屋に入って卵を探した。敷かれたわらやもみの上のあちこちに卵が産み落とされていて、探すのに苦労はしなかった。おばあさんは、好きなだけ取っていいと言ってくれたが、四個を手にして鶏小屋を出た。
産みたての卵を目にした瞬間から、マサトシは決めていた。これは卵かけご飯だと。キョウコも「私も卵かけご飯がいい」と言い、おばあさんは「そんなもんでええのかね」と苦笑しながら、ご飯と、自家製だというキュウリの浅漬けを出してくれた。
座卓に着いて二人して「いただきます」と手を合わせると、おばあさんが「卵かけご飯やったら、しょうゆをご飯にかけて混ぜてから卵を割り入れるとええよ」と言った。おばあさん自身がいろいろ試した結果だという。
言われたとおり、しょうゆ飯を作ってから、卵を割り入れた。
キョウコが「わあ、宝石みたい」と目を丸くした。確かにその生卵は、黄身がぷっくりと膨らんでいて、つやつやしていて、その周りを取り囲む透明な白身も立体感があって、その辺のただの生卵ではないことは明らかだった。
箸を伸ばして黄身を潰そうとしたが、その前にあれをやってみたくなった。
箸で黄身をそっとつまんで、ゆっくりと持ち上げると、黄身は潰れることなく浮いた。箸を通じて黄身の弾力が手に伝わった。
それを見たキョウコが「わっ、すごい」と目を丸くし、それから「あーっ、私もそれやりたかったー」と悔しそうに言った。彼女は早々に端の先で黄身を潰してしまっていた。
黄身をそっとしょうゆ飯の上に戻し、ごくんとつばを飲み込みながらかき混ぜた。卵の黄身としょうゆが混ざり合った、いい匂いが鼻腔に届いた。
そして、できあがった卵かけご飯を口にかき込んだ。
おおーっ。卵かけご飯って、こんなに旨かったのか。
熱々すぎでないご飯のお陰で、新鮮な卵の味がよく判る。しょうゆを後でかけると、しょうゆの味しかしない部分があったりして味にむらができてしまうが、先にしょうゆ飯を作っておくと、確かにずっと卵の風味を損なうことなく食べることができる。キュウリのぬか漬けの味と食感がこれまた、卵かけご飯と相性のいいこと。
キョウコが天井に向かって「あー、幸せ」とつぶやいた。
あれほど不機嫌で、いつキレるか判らない状態だったキョウコの、この緩んだ表情。
このおばあさんは魔法使いなのか。半ば本気でそんなことを思った。
今日、洋食店やだし巻き卵の店が空振りに終わったのは、実はここに至るためのお膳立てだったのではないか――マサトシはそんなことを半ば本気で思いながら、漬物をポリポリと咀嚼し、さらに卵かけご飯をかき込んだ。
あー、空腹だったせいで旨さ倍増。
そして、さっきまで沸点に近づいていたイライラ感が、きれいに消えた。
マサトシが「ふう」と息をついて茶碗を座卓の上に戻すと、おばあさんがすかさず「はい」と笑って手を差し出した。「お代わり、するんでしょ」
「あ、すみません、お願いします」
マサトシは苦笑しつつ、茶碗をおばあさんに渡した。
キョウコと目が合い、自然と笑ってうなずき合った。
帰りの車中、キョウコが興奮してしゃべりまくる様子が浮かんだ。
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