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1巻

1-2

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 ――さて、ちょこちょこと小さな発作を起こしながらも、最推しの存在と義父の素晴らしい財力による高級薬のお陰で、無事俺は五歳になった。
 最推しは来月九歳になる。九歳。まだ一桁だ。相変わらずの美ショタで、最推し美ショタ萌えという俺の後天的な性癖を刺激しまくっている。
 あれから義父と兄様の関係は、ちょっとずつ改善されていった。
 俺が兄様を褒める。そしてじっと義父を見る。すると義父もぎこちなく兄様を褒める。すると今度は、兄がぎこちなく義父に礼を言う。
 二人とも同じような顔で同じようなぎこちなさで萌えが天元突破中だ。思わずそこで「ちゃんと褒められる父様偉い! ちゃんとお礼を言える兄様も偉い!」とまだガキンチョの俺が喜ぶと、二人とも笑顔になった。それからはそのサイクルが続いている。
 今では二人ともぎこちなさも減って、互いに自然に接しているように見える。フワッと喜ぶ美ショタ最推しの笑顔プライスレス。心のアルバムに焼き付けては宝物にしている俺だった。
 義父からの溺愛に戸惑っていた母も義父に押されまくり、そして献身的な俺への看病にほだされて、今では義父とラブラブしている。まあね。俺を産んだ歳が十七歳で、ただいま二十二歳の女ざかり。義父のような美青年にとろける笑顔で毎日口説かれまくったら、心動かされても何もおかしくない。顔の造作は言うまでもないし、人柄だって悪いわけじゃない。
 義父はまだ二十八歳で若い。お互い再婚同士とはいえ仲も良好ということで、俺の義理の祖父母は母を歓迎しているようだ。
 もう一人くらい息子を作りなさいとか俺と兄様の前でも言っているくらいだ。再婚に全然乗り気じゃなかった義父がようやく再婚したことを喜んだらしい。なんで再婚させたかったのかはわからないけど。
 でもその義祖父母に、俺はどうやら嫌われているようだ。薬代のかかるお荷物だと思っているようなのは雰囲気でわかる。普段は一緒の館で住んでいないし、顔を見るのも月一くらいだから、気にはしないけれど。最推しの笑顔が横にあるから他はもうどうでもいいのだ。
 ……そんな俺ですが。兄様の九歳の誕生パーティーでやらかしました。
 この国では三歳と九歳になると、他家の人を呼んで盛大にお祝いをする。
 まずは三歳まで無事生き延びたお祝い、そして、死のとこやみが最も手を伸ばしやすい一桁台の歳を生ききったお祝いを九歳の時に行う。規模はまったく違うけれど、七五三みたいなものだ。
 俺が三歳の時は実の父親が亡くなった直後だったから、家族だけで祝ったんだけど、それでもちゃんとお祝いの形にはしていた。それくらい大事な祝いの席だ。
 義父と母はいい感じで並んで挨拶して、兄様が最高にキレッキレの挨拶をした。
 それに聞き惚れていた俺は、兄様の横に立ってただニコニコしていた。
 まだ幼いし、今日の主役は兄様だから俺の挨拶は大丈夫だって言われて、内心小市民な俺はホッと一息ついて兄様の輝かしい晴れの姿を堪能していた。
 そこへ現れたのが義理の祖父母だ。
 まずは兄様にお祝いを述べて、義父と母になんだか色々言葉をかけて……俺を一目見た後、小さくフンと鼻を鳴らして行ってしまった。本当だったら家族全員にお祝いを述べるのが普通らしい。
 だから、それは貴族にはあるまじき無礼な行為だったそうだ。
 それを見た義父と兄様の顔つきが同時に変わった。途端、周りの空気の温度が物理的に冷えたのを感じる。
 それに一番慌てたのは、何を隠そう俺だった。
 だって兄様の晴れ舞台。こんなことで台無しにしてはいけない。
 兄様の手を取って、クイクイと引く。

「兄様、僕はまったく気にしませんから、いつものように笑ってください」
「アルバ……でも、あのお祖父様とお祖母様の行動は許せないよ。きっと父上も同じ気持ちだ」
「それでも、父様にも兄様にも僕は笑ってほしいです」
「アルバ……」

 その会話はすぐ横にいた義父にも聞こえていたらしく、器用なことに青筋を立てながら義父は笑顔で招待客に接し始めた。それを見て兄様の手をもう一度きゅっと握ると、兄様はぎゅっと唇を噛んでから、招待客の人たちに笑顔で向き直ってくれた。
 まだちょっと怒っているのがわかるけれど、義理の祖父母の態度はいつものことだったから、気にする方が負けだ。母がちゃんと快く迎えてもらっているんだからそれだけでもよしとしたい。俺がお荷物なのは事実だしね。
 一通り招待客への挨拶が終わると、個人的に挨拶したい人たちの突撃をかわすついでに、兄様は俺をお菓子とかフルーツのあるテーブルに連れて来てくれた。
 お祝いの日に相応しく、目にも鮮やかな甘味がテーブルの上に並んでいる。

「疲れてない? 少し椅子に座って休もう。何か食べたいものはある?」

 最高に紳士な最推しに取り分けてもらったお菓子の味は、この世のモノとも思えないほどに美味しくて、俺はついつい笑顔でクリームたっぷりのお菓子を食べた。

「兄様。兄様に取ってもらったお菓子、どれも美味しいです。兄様は食べないんですか?」
「僕はいいよ」

 俺の勧めを断る兄様は、どうやらホストだから自分は皆を楽しませる方だと思っているらしかった。まだ九歳なのに既にそんな自覚のある兄様、リスペクトです。
 ここでゆっくり食べて休むんだよ、と優しく微笑んだ兄様は、また義父の横に戻っていき、遅れてきた招待客への挨拶を再開した。
 椅子に座りながらそれを見ていた俺は、キリッと表情を引き締めた兄様に見惚れていて、近付いてきた義祖父母に気付けなかったのだ。

「まったく」

 真横から聞こえてきた溜息混じりの声に視線を上げると、そこには嫌悪を丸出しにした表情の義祖母がいた。品よく扇子で顔を覆ってはいるが、侮蔑に満ちた視線は隠れていない。
 その隣には、冷たい眼差しで俺を見下ろしてくる義祖父がいる。整った顔は義父に似ているから、ゲームの中の兄様が成長し、壮年になるとこんな顔になるはずだったのかもしれないけれど、表情の温度がまるで違うので、いまいち想像は難しかった。

「おばあさま……」

 俺が声に出した瞬間、義祖母が手に持っていた扇子を手の平に当ててピシャリと音を響かせた。

「あなたのような者に『おばあさま』なんて呼ばれたくないわ。『前サリエンテ公爵夫人』と呼びなさい。身内でもなんでもないのだから」

 きつい拒絶に俺が黙ったままでいると、義祖母は鼻を鳴らして呟いた。

「あなたは私たちの血が一滴も流れていないのですから、そのように私たちを呼ぶ資格などないのに……図々しいこと」
「まだ幼いのだから、自分がいかに恥さらしかもわからないのだろう」

 それは独り言のようだったけど、俺に聞かせようとしているようだ。
 同時に嫌味を言っても、幼い俺にはわからないだろうと思っているのもわかった。性格悪い。
 連れ子を了承したのは義父だから、そんなことを言われても俺にはどうすることも出来なかったんだよ。
 たとえ俺を男爵家に置いてこいと言ったとしても、そもそも母の再婚は俺の薬代を考えて始まったことだったから、俺を置いてくるのは本末転倒だろう。そういうのを義父たちはこの人たちに説明してないのかな。でももしそんな説明をしたら、せっかくの母への歓迎ムードがなくなってしまいそうだから、説明したくない。
 迂闊なことは言えなくて、俺は二人の言葉がわからないふりをして、次のお菓子に手を伸ばす。

「こんな席でそんな風にいやしい真似はよしなさい」

 すると俺の手に、扇子がパチンと下ろされた。
 軽い音の割には、義祖母の扇子は痛かった。手の甲に赤い線がつく。
 義祖母はそれを見て、さらに冷たい視線を俺に向けた。

「あなたはこの家ではよそ者だということを自覚なさい。そして、オルシスの教育の邪魔をしないでちょうだい。あの子は公爵家の後継、遊んでいる暇はないの」

 手の痛みと、流石さすがにイラっとした感情を誤魔化して俺は密かに深呼吸をした。
 でもうまく息が入ってこない。
 そして、あ、やばい、と胸を押さえた。
 ひく、と喉が鳴る。
 ここは兄様の晴れの舞台。
 こんなところで発作を起こして台無しにしちゃいけない。
 慌てて椅子を降りたところで、ゴホ、と乾いた咳が出た。義祖父母が俺を見て、わずかに歪んだ笑みを向けたのが見える。
 せめてこの会場を出てから……なんて足を動かそうとしたけれど、ダメだった。
 今日のために来てもらった楽団の音楽が流れる洒落た会場に、俺の重苦しい咳が不協和音となって響く。
 俺は椅子から滑り落ち、その場にうずくまってしまった。
 こうなるともう身体から力が抜けて、動けなくなる。

「アルバ!」

 義父と母、そして兄様が駆け寄ってくるのが視界の端に見える。けれど、目が回ってしっかりと周りを見ることが出来ない。
 いつもよりも力の抜け方が早くて、ギリギリと頭が締め付けられるように痛む。
 すると兄様の手が俺に伸びてきて、ギュッと手を握られた。
 フッと少しだけ呼吸が楽になったのは気のせいか。
 なんだか、兄様の手がとても心地いい。
 その手を離したくなくて、入らない身体の力を総動員して握り返すと、兄様が泣きそうな顔をした。ううう、その顔めっちゃ可愛い。こんな状態じゃなかったらもっとしっかり見つめて心のアルバムに焼き付けるのに。

「に、さま……ごめんなさい……大事な日に、こ、な、こと……」

 必死で謝ると、身体を抱き上げられた。
 びっくりして身体が強張ったけど、見えたのは兄様そっくりの優しい顔だった。
 力強いその腕が、義父のモノだとわかってホッとする。

「部屋に戻ろうか、アルバ。すぐよくなるからね」

 義父の声に頷くけれど、握られた兄様の手は離せなかった。離した瞬間、命のカウントダウンが始まりそうで怖くて離せなかった。
 薬は前世の点滴のような形で、俺の腕から身体に入れられる。点滴型の薬は俺が男爵家で使っていた飲み薬よりもかなり性能がよく、そして高価だ。来た初日に盛大に発作を起こして以来、義父がいつでもすぐに助けられるようにと用意していてくれた物。
 薬が身体に染み込むと、身体のだるさがほんの少しだけ緩和される。
 不思議なことに、この薬と同じような感覚を今繋がったままの兄様の手から感じた。

「にい、さま……」
「大丈夫、ここにいるからね」

 早く離して、兄様を誕生会の会場に戻さなくてはと思うのに上手く手が離れない。ベッドに寝かされて、薬を入れてもらっている今もなおだ。
 ここで寝てれば大丈夫だから、と言おうとしても、まるで兄様の手がいのちづなのような気がして手が離せない。
 酷い咳と、涙と鼻水で盛大に顔がヤバいことになっている俺に、兄様は絶えず心配気な顔を向けて、ずっと手を握っていてくれた。
 でも出てくる涙は、咳のせいだけじゃない。
 兄様の晴れ舞台を台無しにした自分の不甲斐なさに、涙が出ていた。
 本当なら、あの最高に綺麗な舞台で誰より優雅に輝かしく、笑顔で頂点に立つ兄様を見ることが出来たはずなのに! 俺の馬鹿!
 不甲斐なくて、悔しくて、自分をののしっているうちに、俺の意識は闇に落ちていた。


 真っ暗な中、大きな川の中央に架かっている細い橋の向こうの方で、最推しが手招きしているのが見える。
 アレは友人ルートの、神のごとき尊さだった微笑みだ。ちょっと表情筋が生き返ったと、前世の俺が泣くほど胸を打たれた笑みだ。
 あの手招きは、俺を呼んでいるってことかな。最推しが手招きとか、行くっきゃない。
 せっかくおあつらえ向きに橋もあることだし、と立ち上がった瞬間にぐい、と手が引かれた。
 一歩後ろに下がると、途端にぐっと息が詰まる。
 よく見ると小さな手が、俺の手にしっかりと繋がっていた。手の先は見えなくて首を傾げる。
 ――ごめん、そっちに行くと苦しいんだ。それに、最推しが俺を呼んでるから。
 そう呟くと、さらに手がぐっと引かれた。
 ふらついて一歩下がると、またしても肺が潰されたような苦しさが身体を巡る。
 向こう側にいる最推しの方に顔を向けると、推しはいつもの無表情に戻っていた。ああ、微笑んで俺を呼んでいたのに。呼ばれたのに。
 待って、と口を開こうとして、ごほ、と咳が漏れる。
 すると俺に手を差し出してくれていた最推しは、腕をスッと下げて、きびすを返してしまった。
 ああ、置いていかれた。
 胸に落ちる氷の粒が、身体を冷やしていく。
 けれど、繋がれた手だけは温かくて、凍っていくはずの俺の身体を少しずつほぐしてくれた。
 そして、また一歩、一歩と俺を後ろに引っ張っていく。後ろに行くごとに、呼吸は苦しくなるけれど、その手の温かさに励まされて俺は少しずつ後ろへ歩んでいく。
 いったいこれは誰の手だろう、ともう一度そっちに顔を向ける。


「に……さま……」

 ――掠れた自分の声がやけにおかしな響きで耳に入った。
 そして、一瞬眩しいと思った光は、部屋の中でほのかに光る夜灯の灯りだと気付く。
 俺の目の前には、泣きそうに顔を歪めた兄様がいた。
 ああ、と気付く。
 あの黒い場所の中で、ずっと俺をこちら側に繋いでいてくれたのは、現実の最推し、俺のうるわしのオルシス兄様だ。あの表情筋がほぼ死滅している最推しじゃない。

「アルバ……」

 その心底ホッとしたような声に、思わず涙が出そうになった。
 はい、今回はガチで死にかけた最推しの義理の弟、アルバ五歳です。
 本気で目の前に大きな川が現れたよ。あれを渡っていたら、きっと俺は死んでいたんだろう。
 あの時の俺は、昏睡状態におちいっていたそうで、俺が復活したのは兄様の誕生パーティーから一週間程経ってからだった。いつも以上に回復に時間がかかっていることに、少しだけ恐怖を覚える。
 ゲームの中で、オルシス様の弟にイラストが用意されていない理由を思い出したからだ。
 確か、ゲームプレイの時系列――つまり、オルシス様が十五歳になる頃には弟は死んでいる。
 そもそもラオネン病になって大人になれた人間はいないのに、何を楽観的になっていたんだろう。
 兄様に会うまでは、ラオネン病の話を聞いても死ぬことがそこまで怖くはなかった。でも、今は怖い。
 そんなことを考えると余計に発作はひどくなる。俺はただ兄様の手の温もりと声を思い出すようにして、ベッドの上で過ごした。
 そしてさらに数日後、ようやく枕を背にすれば起き上がれるようになると、義父と兄様と母が俺の前に揃ったので、俺は深々と頭を下げた。

「兄様の晴れ舞台を台無しにして、ごめんなさい」

 そんな俺の頭を、三人が交互に撫でてくれる。

「大丈夫。台無しにしたのはアルバではないよ。ラオネン病の発作は、心に過度の負荷がかかると起こりやすいと聞く。あの日、父上と母上から何かされたんだろう? アルバの手に赤い痕が付いていた。あの二人は私がきつく叱っておいたからね」
「あの、でも僕が発作を起こしたから、兄様の誕生パーティーが」
「いいんだよ。ちゃんと挨拶は済ませたから。ほら、いつものように笑顔になってくれないかい?」
「父様、兄様……」

 その優しさが余計にずしっと心に響く。
 今も俺の手は兄様の手と繋がっていて、とても温かい。これはあれだ。手を繋いで魔力を少しずつ俺に流してくれているんだ。
 前に薬が足りなかった時に、母と祖父母と交代で手を繋いで、なんとか生き永らえた時があったけれど、今回はずっと兄様が俺の命綱になってくれていたんだ。
 繋がれた手を見下ろして、兄様を見ると、兄様はほのかに微笑んでくれた。友人ルートの微笑みじゃない温かい微笑みに、鼻の奥がツンとくる。ああ、尊い。微笑み兄様尊すぎか。もう、可愛いが過ぎる!

「兄様……ありがとうございます」
「ちゃんと目を開けられたアルバは、いい子」

 ポロリと俺の目から落ちていく涙を自分の袖で拭うと、兄様は俺の頭を優しく撫でて、いい子、と何度も俺を褒めてくれた。
 その手がとても嬉しくて、俺は、心の底から『生きたい』と願ったのだった。
 でもまあ願うだけじゃ生き永らえることが無理なのは知っている。
 あと数年で俺は兄様の思い出の弟になっちゃうわけだし。
 それでも俺は、兄様が表情筋を大活躍させたまま大きくなるのを絶対にこの目で見たいので、死なないために行動を開始することにした。


   ◆◆◆


「よし、これでいいはず……」

 数週間後、なんとかベッドの住人をやめた俺は自分の部屋に戻っていた。
 義父に買ってもらったカバンを提げて、汚れてもいいような動きやすい服を着て、途中発作が起こっても大丈夫なように、常備している飲み薬をカバンに入れる。
 それから義父の部屋にあった魔術用紙に描かれた転移の魔術陣をこっそり持ってきた。お腹が空いた時用に、こっそり残したパンもハンカチに包んでカバンに入れる。
 あと、魔物が出た時用に小ぶりのナイフも。こんなナイフで魔物を倒すことは出来ないのはわかっているけれど、魔法が使えない俺には何かしら護身用の武器は必要だと思うんだ。
 でも剣だと五歳児の身体には大きすぎて取り扱えないので、苦肉の策でナイフを選んだ。普通の五歳児がナイフを使うのは危ないから推奨できないけどね。
 なんとか納得のいく用意が出来たので、俺は魔術陣を包みから取り出す。魔法を使えない俺でも使える優れものだ。使い方ならゲームの中で学んでいる。
 行き先は、兄様の通う学園が年に一度サバイバル訓練を行う森。そこで、オルシス様は主人公と共に崖の下に落ちて、『ラオネン病』の特効薬になりうる新種の薬草を見つけるんだ。
 詳しい場所はいまいちわからないけど、だいたいここら辺、っていうゲーム内マップは頭に入っているからきっと行ったらわかるはずだ。
 もしそこで命を落としたら、なんて考えない。これをしないと俺の命に先はない。年々発作が重くなってきているし、タイムリミットは多分すぐそこだ。
 でも新種の薬草を見つけて薬が出来たら、もう少し、あの最推しオルシス様ぐらいに大きく育ったうるわしく美しくカッコいいオルシス様を生で見ることが出来るぐらいには生きられるかもしれない。
 それに、ゲーム内では主人公とオルシス様が一緒に薬草を見つけたことで距離が急に縮まっていく流れなのだけれど、兄様が主人公とくっつくのを考えただけで何故か腹の底がムカムカする。だったら自分で見つけてしまおうという一石二鳥の策だ。
 ただちょっと問題なのが、俺の火力のなさと体力のなさだ。そこは気合いでカバーするしかない。
 黙って持ち出した魔術陣はお高いらしいけれど、自分で行くすべを他に知らないから、出世払いにしてもらおうと思う。
 こくりと唾を飲み込んで、魔術陣を抱える。

「アルバ、今日の……」

 そしていよいよ陣を発動させようというところで、部屋のドアが開いて兄様の声が聞こえた。目を見開く兄様と目が合う。

「アルバ!」

 普段はあまり見ない剣幕で、兄様が俺に詰め寄る。
 その瞬間、魔術陣の光に俺たちは包まれた。
 光が引いたら、兄様を巻き込んで森に転移していた。
 ゲームで見たことのある景色だ……
 どうやら成功したみたいで、内心ガッツポーズをする。
 でも兄様にタックルされた状態で転移したから、俺のズボンも兄様のズボンも土で汚れてしまっている。兄様はすぐに周囲を見回してから、俺に覆いかぶさるようにして叫んだ。

「ここは一体……⁉ アルバがさっき手に持っていたのは、父上の部屋にある魔術陣の紙だろう⁉ アレは遊びで使っていい物じゃない!」

 しりもちをついた俺を見つめる兄様を下からのアングルで眺めるなんてどんなごちそうですか。スチルの中でも名場面ナンバーワンに入りそうな眼福な光景に、あまりの萌えに吐血しそうになって必死で耐えた。
 けれど、今はそんなこと気にしている場合じゃない。
 焦燥した顔の兄様を、俺は真剣な顔で見つめかえした。

「兄様。僕は遊びで魔術陣を使ったわけではありません」
「じゃあ、一体どうして……こんなこと」
「死にたくないからです」

 俺の言葉に、兄様は声をなくした。

「死にたく……ないのに、こんな場所に来たと……? ここには魔物だっているかもしれない。アルバ一人で来たところで、魔物に襲われてしまったら一巻の終わりだよ」
「でも、来なきゃいけなかったんです」
「むしろ、死ぬために一人で家を出ようとしたのかと思った……」
「そんな放っといてもそのうち死ぬんですから、死ぬために父様の魔術陣なんて高価な物を使ってこんなところには来ません」
「アルバ!」

 兄様に怒気のこもった声を投げ付けられて、俺は動きを止めた。
 驚いて見上げると、兄様の目には涙が浮かんでいる。
 やがて、宝石のような雫がその綺麗な瞳から零れ落ちた。

「そのうち死ぬとか、言っちゃだめだよ……! 父上も、義母上もアルバのやまいをどうにかしようと手を尽くしているんだから……!」
「う、あ……は、い、ごめんなさい……」

 泣かれるとはさすがに思っていなかった。俺に覆いかぶさったまま涙を流す兄様の頬を慌てて拭った。土のついた手で拭ったせいで、兄様の天使のように綺麗な顔が汚れてしまう。
 でもそんなことも気にしない様子で、兄様はぐっと奥歯を噛みしめると俺を立たせて服の土を払ってくれる。

「危ないから、すぐに帰ろう」

 ほら、と手を差し出されるのはとても嬉しい。でも。

「僕は目的を達するまで帰れません」
「目的? ここがどこだか、アルバはわかってるの?」
「ここはメノウの森の中腹です」
「メノウの森⁉ そんな所にどうして……」

 この森の場所が分かったのか、兄様は愕然と呟いた。
 それはそうだろう。
 そもそも学園まで家から馬車で一時間ほどかかるし、そこからさらに家と反対方向の山に向かって進んだ所にメノウの森はある。
 学園からちょうどいい位置にあって、そこまで強い魔物が出ないという理由でこの森は毎年学園行事のサバイバル訓練に使われていたはずだ。
 淀みなく答えた俺に、兄様が表情を変えた。

「……もしかして、ここに、アルバの病気に関係する何かが、あるの?」
「はい」

 兄様の問いに自信満々に答えたけれど、本当は五分五分、いや、もっと確率は少ないんではないだろうか。ゲーム内では最推しが二年生の時にここで薬草を見つけるから、誤差が七年ほどある。その素材がいつ生えてどうして今まで見つからなかったのかとか、そういう背景はまったく出てこなかったから、ここに薬草があることを確定できないどころか、かなり運を天に任せる感じなんだけど。

「探しものがここにあるはず、なんです」

 俺は出来るだけ胸を張って兄様を見つめた。
 俺も結構追い詰められているっていうか、お祖母様に嫌味を言われただけで発作を起こして死に掛けたっていうのが悔しくて情けなくて。
 せめて自分の命くらい自分の力で生き永らえさせられないかって思ったんだ。兄様にかっこいいところ一回くらいは見せたいし。
 ……と言いつつそんな浅はかな考えで兄様を巻き込んで、あまつさえ泣かせてしまったのには自己嫌悪しかないけど。
 幸い、帰りの分の魔術陣はまだ残っているから、これで兄様には帰ってもらおう。
 そう思って、カバンから帰り用の魔術陣を取り出した。

「危険なので、兄様はこれで先におうちに帰っていてください。あと……もし帰ったら、父様に僕の場所を伝えてくれると嬉しいです」

 そう言って魔術陣を差し出しても、兄様は険しい顔をして動かない。

「兄様?」
「アルバは、僕のことを小さな弟を置いて一人で館に帰るような薄情な兄だと思ってるの?」
「そんなことありません! でも、僕の情報は不確かですし、信じられる要素は何もないっていうか……そんなことに次期公爵である兄様を巻き込むわけには」
「アルバが行きたいところはどこ? この森の奥?」

 言葉を遮るように、兄様にぎゅっと手を握られて息を呑んだ。兄様はそんな俺を見て、ほんの少し表情を緩めた。

「アルバは魔法が使えないでしょう。僕は森に出るろうぐらいなら一撃で倒せるから、アルバを護れるよ」
「でも……」

 ギュッと俺の手を握って、兄様は俺を見つめている。
 一人で行く気満々だった俺は戸惑いながら、繋がれた手に視線を落とした。
 俺の手と一番安心できる手が繋がっている。俺の命を繋いでくれる手が。

「兄様……」
「本当は一度家に戻って父上に相談したいところだけど、こんな無茶までして出てきたってことは、アルバには……もう時間がないんでしょう?」
「そこまでではないとは思いたい、ですけど……父様には……相談できません。だって絶対に僕が森に来ることを許可してくれないでしょうから」
「そうだね。本当は僕もすぐさま連れ帰りたい」

 その言葉にハッと顔を上げる。すると兄様は繋いだ手を優しく揺らして微笑んだ。

「でも、アルバが行くっていうなら、僕もついていく。念のため父上には知らせるけどね」

 兄様は片手を胸の前に持ってくると、知らない言葉を紡いだ。
 すると兄様のてのひらの上に氷のつぶてが集まり、蝶の形になっていく。
 木漏れ日を浴びたその氷の蝶は、とてもキラキラと輝いていた。
 兄様が腕を振り上げると、その氷の蝶は空に羽ばたいていく。
 すごい。九歳にしてあんな魔法が使えるなんて。兄様やっぱり最高。最強で天使!
 きっと蝶が氷だったのは、兄様が氷属性だからだ。
 この世界の人は必ず一種類、自分に適した魔法の属性を持っていて、攻略対象者たちは一人一人別の属性を持っていた。兄様はこの世界で希少とされている氷属性だ。
 確か、最推しの家系にしか受け継がれていない属性だと設定資料集に書かれていた。希少属性とか格好いい。
 ちなみに魔法属性は魔石に自分の魔力を注ぐことで判明する。でも俺はラオネン病のせいで自分の魔力をこれ以上外に出すと死にかねないため、調べていない。

「さて、アルバはどっちへ向かいたいの?」

 兄様は今もしっかりと俺と手を繋いで、俺を守ろうとするように辺りを見回している。本格的に俺と一緒に行く気満々だ。
 そのことをちょっとだけ嬉しく心強く思いながら、俺はカバンの中から一枚の紙を取り出した。

「この地図を見てください!」

 手描きのメノウの森マップだ。覚えているだけ描き出してみたけれど、いやぁ、結構覚えてるもんだよね。最推しがイベントを起こす場所までほぼ完璧に覚えてたよ。全三ルート全ての道に細かくチェック入れちゃったし。
 それを得意げに兄様に見せる。
 けれど、地図を見た兄様が驚いたような顔で地図から俺に視線を移したことで、ハッと気付く。
 ナチュラルにヤバい地図を見せちゃった、かも。
 なんで五歳の俺がこの森の道を知っているのか、とか、書き込んであるイベント内容とか……そもそも未来の話だし。

「アルバ……どうしてここまで詳しくこの森のことがわかったの?」
「え、ええと……」

 ですよねー。不思議ですよねー。俺もびっくりだもん。最推しイベント関係の記憶力に。
 これが王道の王子様ルートだと、途端に曖昧になるんだよ。全ルート一度くらいずつしかクリアしてないから。
 でも他のルートでも最推しが出てくるから、他の攻略対象者も一応クリアしたんだよ!
 他視点の最推しはまた違ったクールさで違った良さがあったし。
 ってそんなことじゃなくて。
 なんか、この地図で俺のことヤバい奴だと思われたらどうしよう。
 ……憎まれルートだけは、嫌だなあ。

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