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本編

始まり #3

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 死体のふりをしているため顔を上げることはできないが、オレがいるこの道に、角を曲がって出てきた何かがいる。こちらを、見ているのか。と、音がまた再開した。今度は布の擦れる音まで聞こえるほど近い。

__ずりっ......ずるっ......

 音がもう自分まであと3歩ほどかというところまで来たところで、思わず肩をびくんとさせてしまいそうになった。何か言った。

「......血、」

 ぶらっど、と一言だけ。ほとんど吐息のように出されたその掠れ声は、酷く悲しげなのがわかった。吸血鬼になったばかりで、何故だか死体の血ばかり飲んでいる吸血鬼が、そこに。しかしなかなか動かない。続いて苦しげな呻き声と息遣い。どうした、何で立ち止まっているのか。......何を躊躇っている?

__はぁ、血が欲しいんだろ。何を我慢しているんだよ。

 オレは死体のふりして目を瞑ったまま、心の中で3mほど離れた存在に向け、念を送る。誘惑。そう、この吸血鬼だけじゃない。オレも人外。それも悪魔。悪魔には特有の能力として他人の心を誘惑する、というものがある。自然と人を惹きつける。まぁほんとは、目とか合わせながらの方が、効き目はあるんだけどね。でも今、喉の渇きに飢えてるこいつになら、この程度でも効果はてきめんだろう。

「血」「血」「血」

 コツ。目の前にまで来た気配。さっきからずっとその言葉を口にしている。流石に少し、怖い。いやいやこいつは人間にあっさり負けてしまう弱い者。悪魔が怯んでどうするか。もう目を開けてもいいよな、起き上がらなくては。思惑通り、誘惑にかかってこちらに近づいて来てくれたのに、このままではこいつに襲われてしまいかねない。でも予想外の迫力に、苦しげな気配に、身動きできない。
 ふわっ......と顔に風。目の前にしゃがんで、顔を近づけてきたようだ。荒い苦しそうな息遣い。目を開ければ、ぎらぎらした鋭く光る目と、目が合ってしまうに違いない。目を開けなければ。自分は死体じゃない、血を吸われるためにここにいるのではないと、示さなければ。しかし、

__それは、一瞬だった。

「!......っ」

 ぶわりと肩口に熱が広がる。何かが左の首筋に食い込んでいる。......牙。噛まれたのだと気づいたが、両肩は強い力で押さえ込まれ、逃れられない。思わず声をあげてしまった。というか噛んだ時点でオレが死体ではない、と気づいたはず。だが目の前のこの吸血鬼はすっかり正気を失ってしまっているようで、ただただ血を啜るのみ。啜り上げる血が唾液と混ざって、じゅる、と音を立てる。食い込んだ牙が痛い。こいつはどれくらい飲んだらオレが死ぬとか、手加減分かってんのか?どもそも死体からしか血を飲んでいないのだから、限界まで飲み続けてしまうんじゃないか?

「う、......とま、れ......!」

 痛い、痛い!牙が食い込んでいるからというのもあるが、血が抜けていく感覚に痛みを感じる。もうすっかり死体のふりを諦めて、力いっぱいこいつを押し返そうとしているが、離れてくれない。くそ、全然敵わない......やばい。痛いし、血がなくなって本当に死ぬ__
 背中に手を回す。ちょっとばかし尖ったこの爪を立てれば、驚いて離れてくれるのでは。
 その時、べたりとしたものに手が触れた。これは。触れた手をこいつの体越しに月明かりに照らす。ぼんやりと黒くしか見えなかったがこれはおそらく、血?

__怪我が、まだ......?

 あの魔女が言っていたこと。数日前には死体の血以外にも大量の血が流れていた。それがぜんぶ吸血鬼の血だとすれば、この時こいつは大怪我をしたはずだ。“humans”に負わされたのだ。
 __吸血鬼は本来、血を飲めば傷は回復する。わざわざ人を死なせるほどの量を飲む必要もないから、たいていは誰か人間に血を貰っているとも聞く。  
 でもこの吸血鬼はあれから傷が治っていない。こいつは死体の血を吸うが、うまく忍べず露見して、すっかり連中にマークされてしまい、あれから血を補給できないでいる......

 そうか、それなら飲ませてあげないと。

__よかったな、久々の血で。もしかすると初めての生き血だろ。...まあ悪魔のだけど。たらふく飲めよ。オレはいいよ、このまま血が尽きても。だって__

「あ、あああああ、」

__なんだよ。どうして口を離しちゃうんだよ。まだ足りないだろ。死人の血だけじゃダメだよ。やっとちゃんとした飯にありつけたんだから、残すんじゃない、って__

「......!」

 顔を上げると、美しい男と、目が合った。

 青ざめた肌。まだ大人になりきれていないようなつるりとした顎には、白い肌とは対照的に紅い血が滴っている。半開きになった唇の奥には動物的な牙が覗く。その白い表面にも赤が纏わりついている。鼻筋は通り、俯いた顔にかかる髪は雪の色。同じ色の眉は痛みに耐えるように顰められ、長い睫毛の下の目は、月明かりを反射して赤に光る。その目に引き込まれてしまう。思いの外ぎらぎらはしていなかった。縦に裂けた瞳孔は美しいが、やはり酷く悲しそうで__

「ううぅ......っ」

 美しい吸血鬼はオレの肩から手を離し、自分の顔を覆って呻いた。ぎりぎりと歯を噛みしめた表情に浮かぶのは、どんな感情だろうか。後悔だろうか、吸うのを躊躇っていた生き血を啜ってしまったことへの。

「安心しろよ」

 な?と吸血鬼に言い聞かせる。話をきいてくれるといいけど。
 顔を覆う手に触れ、ゆっくりと降ろさせる。触れたその手はびっくりするほど冷たかった。再度、恐る恐るこちらを見る吸血鬼。その目は__
 しだいに赤い輝きを失い、森の枝葉を思わせる、優しい緑色になった。
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