櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる

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◇ 二章四話 太陽の別れ * 元治二年 二月

向き不向き

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「失礼します」

 声をかけると「おう」と平坦な声が返ってきて、斎藤は副長室に足を踏み入れた。

 入室しても、土方は斎藤を振り返ることなく背を向けたまま、文机に肘をついて何かの書類に目を落としている。

「何かあったか」

 斎藤が後ろ手に障子を閉めたところで、同じ体勢のまま、感情どころか気力も削ぎ落されたような平坦な声がかけられる。

 それなりの付き合いだ。これまで、怒りの声も喜びの声も、得意げな声も悲しげな声も、失望した声も期待を含ませた声も、抑えた声も、土方の感情のこもった声は色々と聞いてきた。が、今のように『削がれたような声』は初めて聞いたな、と思う。

「……何があったわけでは、ないのですが」

 斎藤が曖昧に言うと、土方はようやく書面から視線を上げてこちらを振り返った。

 その表情は、声音の平坦さとは変わり、普段と特に変わらない様子にも見える。

 が、どの道それが良くも悪くも取り繕ったものであることはさすがに察せられて、斎藤はひとつ瞬きを返すとその場に腰を下ろした。

「……あちらにもそちらにも、沖田さんがいれば良かったなと思うのですが、あいにく今はいませんので」
「はァ?」

 訝るように首をかしげられ、それに軽く肩をすくめるように首を傾け返す。

「私と沖田さんの部屋の前に、愁介殿が来ておりまして」

 言えば、警戒をあらわに眉根を寄せられた。

 が、斎藤は小さく首を横に振って、

「土方さんが、ご自分を責めておられるだろうなぁ、と」
「あ……?」
「あの人にとって現状、最も気にすべきところは、山南さんのことではなく、土方さんのことだったようですから」

 どうすればいいですかね、と言葉を重ねれば、土方は一瞬絶句した後、苦虫を噛み潰して飲み込んで、またさらに苦虫を口の中に放り込まれたような、何とも言えない顔をした。

「どうすれば、って……」
「沖田さんがいれば良かったのだろうと思います。愁介殿に寄り添えたでしょうし、土方さんにとっても、同じことが言えたのだろうなと」

 言葉を飾ることもなくずけずけ言うと、土方は片眉をわずかに上げた。

「だから?」
「私は正直……人に寄り添うというのが、はなはだ不得手ですので」

 ゆえにどうすればいいですかね、と改めて斎藤は問うた。

 途端、土方は呆れかえったように口をへの字に曲げて、深々と息を吐いた。

「いや、お前……真顔でンな寺子屋のガキみたいなこと訊かれてもな」
「すみません、ようやく最近『歩き方』を思い出したばかりなもので」
「吹かしやがる。要するに、俺に相手しろって? あいつの?」

 土方は心底面倒くさそうに言ったが、斎藤は敢えて無視して「まあ、そうですね」と顎を引いた。

「ついでに会津への対応も考えていただければ助かります。口止めすべきなのか、何か……他に言うことがあるのか、今の段階では私には判断がつきませんでした」
「お前、こんな時に上司を顎で使いやがって……」

 憎々しげに言って、しかしその割に土方は眉間のしわを和らげて立ち上がった。

「ふざけんなよ、ンな余裕あるかよ。馬鹿じゃねぇのか……」

 ぶつくさ言って、一見乱暴とも見える足取りで斎藤の隣をすり抜けて部屋から出ていく。さながら愁介を殴りに行きそうな勢いにも見えたが――……

 おそらくこれで良かったのだろう、と斎藤は膝を崩して腰の後ろに手をついた。

 軽く伸びをするように天井を見上げる。

 ――報告が上がるまで、あるいは沖田が帰ってくるまでひたすら悶々とし続けるより、恐らく何かしら頭を働かせて動いていたほうが良いたちなのだ、土方は。

 元々、土方のためではなく愁介の扱いに困った、というのも嘘ではなかったのだが、結果良ければ何とやらではなかろうかと肩の力を抜く。

 そのまま人様の部屋に滞在し続けるわけにもいかず、息を吐き、腰を上げる。

 と、無意識に、土方の文机に視線が向いた。無造作に、先ほど土方が見ていたであろう書類が目に留まる。

 ……書類ではなかった。山南の文だった。

 江戸へ帰ります。

 改めてその一文が目に入り、視線を伏せて踵を返す。

「……こっちこそ、余裕なんてあるわけがない」

 渡り廊下を進む土方の背中が見えて、口の中で呟きが零れる。

 何とも言えない無力感を覚え、斎藤は細く長く、白い息を吐いた。
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