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◇ 二章四話 太陽の別れ * 元治二年 二月
静かな朝
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夜勤明けの斎藤が屯所に帰ったのは、日が昇り始める少し前の時刻だった。共に夜勤巡回に出ていた永倉に下番報告を任せ、まだ静まっている廊下を歩いて自室に向かう。
昨日まで少し暖かくなっていたというのに、今日は名残を惜しむように夜半から細かな雪が降っていた。既に道端の雪もほとんど溶けたというところだったので、急な冷え込みには参ったものだ。巡回のため、体や手足が冷えたということはないものの、鼻や耳先がツンと痛むのはどうしようもない。指の背でぐいと摩擦するように軽く鼻に触れて、斎藤はようやくたどり着いた自室の障子を静かに開けた。
が、そこで思わず動きを止める。
今夜の夜勤番で今は休んでいるはずの沖田の姿がなかった。
よもや早朝稽古でもやっているのではあるまいなとつい溜息が零れ落ちた時、後ろからトタトタと、静かに、けれどどこか隠し切れない慌てた様子の足音が近づいてくる。
振り返ると、報告後はすぐさま布団にくるまって寝るのだ、と言っていたはずの永倉が、妙に強張った表情で斎藤の元へたどり着いたところだった。
「来てくれ」
「どうかしたのですか?」
夜勤明けの眠気も相まってつい間の抜けた声を返したが、永倉は答えもせず斎藤の腕を掴んでそのまま歩き出した。
連れられた先は局長室で、日の出もまだの早朝だと言うのに、そこには見慣れた面々が揃っていた。土方に沖田、原田、同じ試衛館組の副長助勤である井上源三郎。
「……は?」
一様に顔を強張らせている皆々の中、一番遅れてやってきた斎藤は、今しがた伝えられた言葉を咀嚼し損ねて、思わず短い声を上げて首を傾けてしまった。
が、誰一人、寒さに苛まれたような顔色を変えることなく、その上で近藤が再び口を開く。今ほどと同じ言葉を、繰り返す。
「山南さんが、脱走した」
脱走。その言葉の意味にやはりまだ理解が追いつかず、近藤の隣にいる土方へ目をやる。
土方は何も言わず薄い唇を引き結んだまま、わずかに目を伏せて自身の膝元を見据えていた。
「……脱走」
咀嚼するように口に出して、直後、斎藤はようやく背筋に怖気が走るのを感じた。
改めて室内を見渡す。
近藤、土方、井上、沖田、永倉、原田、そして、己自身。
『身内』ばかりだ。
そして同時に、未だ江戸勤のままの藤堂がいない、ということも再確認させられて、そのことに一番、寒気を感じた。
「なあ……なぁッ、どうすんだよ!」
斎藤が何も言えずに黙ったままでいると、耐えかねたように原田が身を乗り出して、だん、と畳に手をついた。
直後、隣にいた永倉が原田の膝を強く叩き、「うるさい、他の奴らに聞こえたらどうする」と叱責する。
原田はぐっと奥歯を噛み、それから改めて声を潜め、近藤と土方に詰め寄るようにして言葉を募った。
「なあ、見逃すんだろ? 見逃すよな?」
近藤は眉間のしわを深くして、押し黙るように深くまぶたを閉じた。大きな口はへの字に歪められ、答えに窮した様子がひと目で見て取れる。
「……隊規に脱走を許さずってあんのはお前も知ってるだろう。破れば切腹だ」
そんな近藤の隣で、土方が表情を動かさぬままに低く答えた。
昨日まで少し暖かくなっていたというのに、今日は名残を惜しむように夜半から細かな雪が降っていた。既に道端の雪もほとんど溶けたというところだったので、急な冷え込みには参ったものだ。巡回のため、体や手足が冷えたということはないものの、鼻や耳先がツンと痛むのはどうしようもない。指の背でぐいと摩擦するように軽く鼻に触れて、斎藤はようやくたどり着いた自室の障子を静かに開けた。
が、そこで思わず動きを止める。
今夜の夜勤番で今は休んでいるはずの沖田の姿がなかった。
よもや早朝稽古でもやっているのではあるまいなとつい溜息が零れ落ちた時、後ろからトタトタと、静かに、けれどどこか隠し切れない慌てた様子の足音が近づいてくる。
振り返ると、報告後はすぐさま布団にくるまって寝るのだ、と言っていたはずの永倉が、妙に強張った表情で斎藤の元へたどり着いたところだった。
「来てくれ」
「どうかしたのですか?」
夜勤明けの眠気も相まってつい間の抜けた声を返したが、永倉は答えもせず斎藤の腕を掴んでそのまま歩き出した。
連れられた先は局長室で、日の出もまだの早朝だと言うのに、そこには見慣れた面々が揃っていた。土方に沖田、原田、同じ試衛館組の副長助勤である井上源三郎。
「……は?」
一様に顔を強張らせている皆々の中、一番遅れてやってきた斎藤は、今しがた伝えられた言葉を咀嚼し損ねて、思わず短い声を上げて首を傾けてしまった。
が、誰一人、寒さに苛まれたような顔色を変えることなく、その上で近藤が再び口を開く。今ほどと同じ言葉を、繰り返す。
「山南さんが、脱走した」
脱走。その言葉の意味にやはりまだ理解が追いつかず、近藤の隣にいる土方へ目をやる。
土方は何も言わず薄い唇を引き結んだまま、わずかに目を伏せて自身の膝元を見据えていた。
「……脱走」
咀嚼するように口に出して、直後、斎藤はようやく背筋に怖気が走るのを感じた。
改めて室内を見渡す。
近藤、土方、井上、沖田、永倉、原田、そして、己自身。
『身内』ばかりだ。
そして同時に、未だ江戸勤のままの藤堂がいない、ということも再確認させられて、そのことに一番、寒気を感じた。
「なあ……なぁッ、どうすんだよ!」
斎藤が何も言えずに黙ったままでいると、耐えかねたように原田が身を乗り出して、だん、と畳に手をついた。
直後、隣にいた永倉が原田の膝を強く叩き、「うるさい、他の奴らに聞こえたらどうする」と叱責する。
原田はぐっと奥歯を噛み、それから改めて声を潜め、近藤と土方に詰め寄るようにして言葉を募った。
「なあ、見逃すんだろ? 見逃すよな?」
近藤は眉間のしわを深くして、押し黙るように深くまぶたを閉じた。大きな口はへの字に歪められ、答えに窮した様子がひと目で見て取れる。
「……隊規に脱走を許さずってあんのはお前も知ってるだろう。破れば切腹だ」
そんな近藤の隣で、土方が表情を動かさぬままに低く答えた。
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