櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる

文字の大きさ
上 下
123 / 159
◆ 一章九話 葛の命 * 元治元年 十月

間者のご法度

しおりを挟む
 斎藤は深く目礼した。

 返す言葉がなかった。

 理解できる。そして、今なら納得もできる。

 しかし、納得できるに至る今日こんにちまで、斎藤にはそれらの理屈がどうにも理不尽に思えて、仕方がなかった。本当に目先しか見えていなかったのだ。かづらしか見えていなかったのだ。葛を護るということがどういうことなのか、そのためには何をすべきなのかが、見えていなかったのだ。

 傍らにいるだけが護ることではなく、時には傍らにいることが危ういことであると、気付けずにいたのだ。容保かたもり相手には自然にできていたその柔軟な働きが、葛相手となると途端にできなくなっていた。

 盲目だった。ただ、そうとしか言いようがなかった。

「……死を、望んでおりました」

 苦くささやかな声で、斎藤は告白した。

「承知していた」

 容保は、ただやわらかく包み込むように微笑んだ。

 斎藤は自嘲に薄く口の端を上げ、そんな容保をそっと見返した。

「しかし、それを望みながらもずっと……恐らく、殿に初めて拝謁したあの時から、胸の内に矛盾を抱え続けておりました。無意識の内に」
「矛盾?」
「死にたいと言いながら、私は結局それをしませんでした。これといって熱心な宗教者でもないくせに、自ら命を絶てば同じ場所へは逝けないからと……無理やりに言いわけをしてでも、自ら死ぬことだけは選ばなかった」

 とつとつと告げ、斎藤は改めて畳に手をつき、深くこうべを垂れる。

「葛様の元へ参りたいと思うのと同じほどに、殿にお仕えしたいと望んでいたことに……ずっと、己自身で気付かぬふりを続けていたのです。まことに、申し訳の次第もないことでございます」

 頭上で、わずかに容保の呼気が揺れたのを感じた。驚きだったのか、苦笑だったのか、頭を下げていては表情が見えないのでわからない。

 しかしこの容保のこと、呆れているのではないだろうことは、自然と推察ができた。

「……会津に対し不忠を続け、葛様が亡くなってヽヽヽヽヽから三年間、役目を放棄していたにもかかわらず、殿は常に私を必要とし、呼びかけてくださいました。このような己でも役に立つと、居場所を与え続けてくださいました。……そう気付くのに、さらに四年もかかってしまいましたが」
「それほど高尚なものでもない。ただ……そなたの気質も、その働きぶりも、当時の葛から毎度毎度、文で伝え聞いていたのだ。手放すのがあまりに惜しいと、打算をしただけだ」
「それがありがたいことだったのです」

 斎藤は改めて顔を上げた。容保は少し気恥ずかしそうに、そして同じくらいどこか申し訳なさそうに、わずかに目を伏せていた。

「己独りで立っていたつもりになっておりました。立たせてもらっていた己の立場に気付けていなかったのです。ただ、殿から与えられる環境に甘えてばかりで」
「……新選組は、そなたにとっても随分と水の合う仮宿となったようだ」

 容保は、やはりすべてわかった様子で笑みを深めた。

「……そのようです」と、斎藤は包み隠さず答えた。

「こうなって初めて、己の立場に罪悪を感じました」
「罪悪?」
「当然のことながら、間者は……相手側からすれば『裏切り者』以外の何者でもありません。そのことを、今になって初めて、心苦しく思いました」

 打ち明ければ、さすがにこれには容保も驚いたようで、その目がわずかに見開かれた。

「……そうか。そうだな。会津から離れていた際、そなたの支えであったのは、彼らであったのだったな」
「……否めません。無論、先の通り、会津の手足となって働くことが嫌なのでは決してございません。それが己の役目なら、これからをこそ、誠実な思いで為すべきであると感じております。ただ、殿。それでも私は間者として、一番してはならないことを――……」
「悪いことであるとは思わない」

 断罪を乞うような斎藤の言葉を遮って、容保はいっそ明るく告げた。

 今度は斎藤のほうが驚いて、つい目を瞠り、言葉を失ってしまう。

 そんな斎藤の視線を正面から受け止めて、容保は改めてゆっくりと、首を左右に振った。

「悪いこととは、思わぬ。患者と言っても目付なのだ。単に情が移ったのではない、そなた自身を支えてくれるほど、そなた自身が心から信じられると思う者達ならば、それは会津にとっても悪い話にはならないということだ」
「しかし、殿。それは結果論に過ぎません」
「構わぬ。今は良いのだ。それよりも余は……そなたの目に今、人らしい感情が垣間見れていることのほうが、重要であると考える」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

処理中です...