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◆ 一章九話 葛の命 * 元治元年 十月
間者のご法度
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斎藤は深く目礼した。
返す言葉がなかった。
理解できる。そして、今なら納得もできる。
しかし、納得できるに至る今日まで、斎藤にはそれらの理屈がどうにも理不尽に思えて、仕方がなかった。本当に目先しか見えていなかったのだ。葛しか見えていなかったのだ。葛を護るということがどういうことなのか、そのためには何をすべきなのかが、見えていなかったのだ。
傍らにいるだけが護ることではなく、時には傍らにいることが危ういことであると、気付けずにいたのだ。容保相手には自然にできていたその柔軟な働きが、葛相手となると途端にできなくなっていた。
盲目だった。ただ、そうとしか言いようがなかった。
「……死を、望んでおりました」
苦くささやかな声で、斎藤は告白した。
「承知していた」
容保は、ただやわらかく包み込むように微笑んだ。
斎藤は自嘲に薄く口の端を上げ、そんな容保をそっと見返した。
「しかし、死を望みながらもずっと……恐らく、殿に初めて拝謁したあの時から、胸の内に矛盾を抱え続けておりました。無意識の内に」
「矛盾?」
「死にたいと言いながら、私は結局それをしませんでした。これといって熱心な宗教者でもないくせに、自ら命を絶てば同じ場所へは逝けないからと……無理やりに言いわけをしてでも、自ら死ぬことだけは選ばなかった」
とつとつと告げ、斎藤は改めて畳に手をつき、深く頭を垂れる。
「葛様の元へ参りたいと思うのと同じほどに、殿にお仕えしたいと望んでいたことに……ずっと、己自身で気付かぬふりを続けていたのです。まことに、申し訳の次第もないことでございます」
頭上で、わずかに容保の呼気が揺れたのを感じた。驚きだったのか、苦笑だったのか、頭を下げていては表情が見えないのでわからない。
しかしこの容保のこと、呆れているのではないだろうことは、自然と推察ができた。
「……会津に対し不忠を続け、葛様が亡くなってから三年間、役目を放棄していたにもかかわらず、殿は常に私を必要とし、呼びかけてくださいました。このような己でも役に立つと、居場所を与え続けてくださいました。……そう気付くのに、さらに四年もかかってしまいましたが」
「それほど高尚なものでもない。ただ……そなたの気質も、その働きぶりも、当時の葛から毎度毎度、文で伝え聞いていたのだ。手放すのがあまりに惜しいと、打算をしただけだ」
「それがありがたいことだったのです」
斎藤は改めて顔を上げた。容保は少し気恥ずかしそうに、そして同じくらいどこか申し訳なさそうに、わずかに目を伏せていた。
「己独りで立っていたつもりになっておりました。立たせてもらっていた己の立場に気付けていなかったのです。ただ、殿から与えられる環境に甘えてばかりで」
「……新選組は、そなたにとっても随分と水の合う仮宿となったようだ」
容保は、やはりすべてわかった様子で笑みを深めた。
「……そのようです」と、斎藤は包み隠さず答えた。
「こうなって初めて、己の立場に罪悪を感じました」
「罪悪?」
「当然のことながら、間者は……相手側からすれば『裏切り者』以外の何者でもありません。そのことを、今になって初めて、心苦しく思いました」
打ち明ければ、さすがにこれには容保も驚いたようで、その目がわずかに見開かれた。
「……そうか。そうだな。会津から離れていた際、そなたの支えであったのは、彼らであったのだったな」
「……否めません。無論、先の通り、会津の手足となって働くことが嫌なのでは決してございません。それが己の役目なら、これからをこそ、誠実な思いで為すべきであると感じております。ただ、殿。それでも私は間者として、一番してはならないことを――……」
「悪いことであるとは思わない」
断罪を乞うような斎藤の言葉を遮って、容保はいっそ明るく告げた。
今度は斎藤のほうが驚いて、つい目を瞠り、言葉を失ってしまう。
そんな斎藤の視線を正面から受け止めて、容保は改めてゆっくりと、首を左右に振った。
「悪いこととは、思わぬ。患者と言っても目付なのだ。単に情が移ったのではない、そなた自身を支えてくれるほど、そなた自身が心から信じられると思う者達ならば、それは会津にとっても悪い話にはならないということだ」
「しかし、殿。それは結果論に過ぎません」
「構わぬ。今は良いのだ。それよりも余は……そなたの目に今、人らしい感情が垣間見れていることのほうが、重要であると考える」
返す言葉がなかった。
理解できる。そして、今なら納得もできる。
しかし、納得できるに至る今日まで、斎藤にはそれらの理屈がどうにも理不尽に思えて、仕方がなかった。本当に目先しか見えていなかったのだ。葛しか見えていなかったのだ。葛を護るということがどういうことなのか、そのためには何をすべきなのかが、見えていなかったのだ。
傍らにいるだけが護ることではなく、時には傍らにいることが危ういことであると、気付けずにいたのだ。容保相手には自然にできていたその柔軟な働きが、葛相手となると途端にできなくなっていた。
盲目だった。ただ、そうとしか言いようがなかった。
「……死を、望んでおりました」
苦くささやかな声で、斎藤は告白した。
「承知していた」
容保は、ただやわらかく包み込むように微笑んだ。
斎藤は自嘲に薄く口の端を上げ、そんな容保をそっと見返した。
「しかし、死を望みながらもずっと……恐らく、殿に初めて拝謁したあの時から、胸の内に矛盾を抱え続けておりました。無意識の内に」
「矛盾?」
「死にたいと言いながら、私は結局それをしませんでした。これといって熱心な宗教者でもないくせに、自ら命を絶てば同じ場所へは逝けないからと……無理やりに言いわけをしてでも、自ら死ぬことだけは選ばなかった」
とつとつと告げ、斎藤は改めて畳に手をつき、深く頭を垂れる。
「葛様の元へ参りたいと思うのと同じほどに、殿にお仕えしたいと望んでいたことに……ずっと、己自身で気付かぬふりを続けていたのです。まことに、申し訳の次第もないことでございます」
頭上で、わずかに容保の呼気が揺れたのを感じた。驚きだったのか、苦笑だったのか、頭を下げていては表情が見えないのでわからない。
しかしこの容保のこと、呆れているのではないだろうことは、自然と推察ができた。
「……会津に対し不忠を続け、葛様が亡くなってから三年間、役目を放棄していたにもかかわらず、殿は常に私を必要とし、呼びかけてくださいました。このような己でも役に立つと、居場所を与え続けてくださいました。……そう気付くのに、さらに四年もかかってしまいましたが」
「それほど高尚なものでもない。ただ……そなたの気質も、その働きぶりも、当時の葛から毎度毎度、文で伝え聞いていたのだ。手放すのがあまりに惜しいと、打算をしただけだ」
「それがありがたいことだったのです」
斎藤は改めて顔を上げた。容保は少し気恥ずかしそうに、そして同じくらいどこか申し訳なさそうに、わずかに目を伏せていた。
「己独りで立っていたつもりになっておりました。立たせてもらっていた己の立場に気付けていなかったのです。ただ、殿から与えられる環境に甘えてばかりで」
「……新選組は、そなたにとっても随分と水の合う仮宿となったようだ」
容保は、やはりすべてわかった様子で笑みを深めた。
「……そのようです」と、斎藤は包み隠さず答えた。
「こうなって初めて、己の立場に罪悪を感じました」
「罪悪?」
「当然のことながら、間者は……相手側からすれば『裏切り者』以外の何者でもありません。そのことを、今になって初めて、心苦しく思いました」
打ち明ければ、さすがにこれには容保も驚いたようで、その目がわずかに見開かれた。
「……そうか。そうだな。会津から離れていた際、そなたの支えであったのは、彼らであったのだったな」
「……否めません。無論、先の通り、会津の手足となって働くことが嫌なのでは決してございません。それが己の役目なら、これからをこそ、誠実な思いで為すべきであると感じております。ただ、殿。それでも私は間者として、一番してはならないことを――……」
「悪いことであるとは思わない」
断罪を乞うような斎藤の言葉を遮って、容保はいっそ明るく告げた。
今度は斎藤のほうが驚いて、つい目を瞠り、言葉を失ってしまう。
そんな斎藤の視線を正面から受け止めて、容保は改めてゆっくりと、首を左右に振った。
「悪いこととは、思わぬ。患者と言っても目付なのだ。単に情が移ったのではない、そなた自身を支えてくれるほど、そなた自身が心から信じられると思う者達ならば、それは会津にとっても悪い話にはならないということだ」
「しかし、殿。それは結果論に過ぎません」
「構わぬ。今は良いのだ。それよりも余は……そなたの目に今、人らしい感情が垣間見れていることのほうが、重要であると考える」
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