櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる

文字の大きさ
上 下
114 / 159
◆ 一章八話 紫苑の病 * 元治元年 十月

勝負の行方

しおりを挟む
 宴会後の夜中とあって、道場は薄暗く、外に吹く風の音だけが響いていた。

 互いに木刀を手に向き合えば、灯りのない中、射し込む月明かりに照らされた沖田の頬に、嫌に楽しげな笑みが浮かんでいる。己の今後が懸かっているとは思えないほど引き上げられた口元に、斎藤はわずかに眉根を寄せて首を傾けた。

「……自棄になっているのか、俺を甘く見ているのか、どっちだ?」

 身構える前に訊ねると、沖田は心外だとでも言うように目を瞬かせて言った。

「どっちでもありませんよ。こんな時に我ながら馬鹿だなあとは思うんですけど、嬉しいんです」

 口元には笑みが浮かべられたままで、言葉通り、その声は少し弾んで聞こえた。

「嬉しい?」
「だって斎藤さん、普段はあまり『勝ちに』来てくれないでしょう。本気でやり合えるんだなって思うと、どうしたって嬉しいじゃないですか」

 いつぞやにも言われたような気がする言葉だ。

 が、斎藤は小さく息を吐いて、木刀を正眼に構えながら答えた。

「あんた相手に気を抜いたことなんてない」
「またまた。いつだって『真剣だったらなぁ』なんて考えている余裕をお持ちのくせに」

 沖田もまた、わずかに左に傾けた平正眼で構えて笑みを深める。

「ねえ斎藤さん。私ね、あなたと稽古するのが一番好きなんですよ。だから――」

 そう朗らかに続けた、次の瞬間。

「絶対、勝ちますからね」

 沖田が踏み込み、突きを繰り出してきた。

 瞬く間もなく切っ先が喉元に向かってくる。ダンッ、と鳴った床板の音が、遅れて聞こえた気がした。

 反射的に右足を下げて身を捻れば、本気で突き破るような勢いで木刀が喉元をかすめていく。何とか避けたが、切り裂かれた空気が首筋に触れ、背中がかすかに粟立った。

 と同時に、斎藤は己の木刀から右手を離し、沖田の左脇腹を狙って横薙ぎに振り抜いた。

 しかし沖田は退くことなく、逆にさらに大きく踏み込んでくる。上段に刀を振り上げながら頭突きでもしてきそうな勢いだった。退くのでは避け切れないと踏んでのことだろう、正しく斎藤の一撃は空振りに終わり、柄頭から斎藤自身の腕が沖田の横腹を擦る音がした。

 思わず舌打ちをして身を旋転させ、立ち位置を入れ替えて距離を取る。振り下ろされた沖田の木刀が間一髪でまた空気を切って唸りを上げ、その隙を狙っての反撃をけん制するように、すぐさま振り向き様の切っ先を向けられた。

 改めて対峙する。今度は会話などない。

 強い風が吹いて、葉擦れの音と共にガタガタと雨戸を揺らす音がする。

 冬が近付いているためか、かすかに乾いたにおいもする。

 それらを静かに素早く吸い込んで、今度は斎藤から間合いに踏み込んだ。

 正眼から沖田の刀の先を弾き、そのまま木刀を振り上げる。

 ――が、そうしようとした目論見から外れて弾いたはずの感触は手のひらに伝わらず、腕を振り上げた斎藤の間合いの中に、身をかがめた沖田が踊り込んでくる。体当たりでもしそうなほどの近さに、これでは沖田も刀を振れまいと頭の隅に思考がチラつき、目をすがめた直後。

「……ッ!」

 しまった、と息を呑んだ時には既に反応が遅かった。

 沖田は刀を振らず、斎藤の懐でさらに姿勢を低くして片足を軸に身を捻り、足払いを仕掛けてきた。

 どうにか跳ぶようにして避けた。

 だが、避けるだけでは遅すぎて、振り上げていた刀を叩き落そうと腕に、背中に、腹に力を込める前に、目下から半円を描いた沖田の剣筋が首元に迫っていた。

「ッぐ……!」

 とっさに肘を間に挿し込んだが、斎藤はまともに一撃を食らってしまった。

 着地とほぼ同時の一撃に体が対応しきれず、倒れこそしなかったが、たたらを踏んで大きくよろめく。二の腕と尺骨にぶつかった痛みが、遅れて全身に広がってくる。

 幸い骨は折れなかった。痛みはあっても、すぐに構え直せば、まだ戦えた。

 それでも真剣ヽヽだったヽヽヽならばヽヽヽ間違いなく、腕ごと、首がもげていた。

 沖田は素早く立ち上がって身構えたが、斎藤は背筋を伸ばし、肩の力を抜いて、握っていた刀を横手に放るようにして手放した。

 沖田が、訝るように片眉を上げる。

 力を抜いた途端、思い出したように荒くなり始めた呼吸に胸を上下させながら、斎藤は一度だけ小さく首を横に振った。

「……諦めるとか、そういうわけじゃない」
「なら、何ですか。憐れみですか」
「俺が憐れみでかづら様のことを諦めると思うのか」

 噛みつくように返された沖田の言葉に、斎藤はいつにないほど低く、『抑え込んだ』と聞き取れる、抑揚がないのに『感情』の滲んだ呻きを喉から絞り出した。

 言ってから、改めて『負けを認めざるを得なかった』という己の不甲斐なさを自覚して、とんだ情けなさに額を抱え、その場にしゃがみ込む。

 腕が震えた。

 痛みからではなく。

 きっと顔には出なかっただろうが、それでも。

 久しく感じていなかった、己自身でも驚くような、腹の底から煮え立つような悔しさが――全身に渦巻いていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

若妻の穴を堪能する夫の話

かめのこたろう
現代文学
内容は題名の通りです。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

愚かな父にサヨナラと《完結》

アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」 父の言葉は最後の一線を越えてしまった。 その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・ 悲劇の本当の始まりはもっと昔から。 言えることはただひとつ 私の幸せに貴方はいりません ✈他社にも同時公開

和ませ屋仇討ち始末

志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。 門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。 久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。 父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。 「目に焼き付けてください」 久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。 新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。 「江戸に向かいます」 同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。 父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。 他サイトでも掲載しています 表紙は写真ACより引用しています R15は保険です

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

処理中です...