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◆ 一章七話 至純の涙 * 元治元年 九月
人斬り彦斎
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「……いや。あの人も反対した。腹を切らせるのは、やりすぎだとよ」
土方は額を押さえ、溜息交じりに答えた。
それを受けて、沖田が「うぅん」と悩ましげに呻く。
「山南さんは優しいからなあ。人が好すぎるんですよ」
土方は頷く代わりにまぶたを閉じると、深呼吸するような間を置いた。しかし程なくして鋭く目を開け、腹をくくった様子できっぱり言う。
「だが、今回は譲れねえ」
「もし切腹を嫌がったら、私が斬りますね」
当たり前のように、沖田が満面の笑みで顔の横に手を挙げた。散歩に出るからお使いは任せろ、とでも言うくらいの気軽さだ。
それを見た土方は、肩の力を抜いた様子でふっと目元をたわませた。気持ちを切り替えるように改めて煙管を咥え、先とは違った気負いのない息を吐く。
「そうだな。まあ、とりあえずそういうことだ。そろそろ本題に移るぞ」
「えっ、今のが本題だったんじゃないんですか?」
声音をゆるませた土方とは反対に、沖田が虚を衝かれたように軽く目を見開いた。
斎藤も同じ気持ちでわずかに首を傾けたが、言われてみれば葛山の話題はこちら側の会話を拾われたところから発展しただけで、土方から持ち掛けられたものではない。
「河上彦斎。お前らも名前くらいはとっくに聞いてるだろ」
土方は煙管の灰を煙草盆に落とすと、わずかな前傾姿勢で声を低めた。
――河上彦斎。確かに覚えのある名前に、斎藤はわずかに目を細め、視線を落とす。
河上は、尊王攘夷を掲げた志士として元より名が通っていた、肥後出身の侍だ。かつて池田屋の一件で新選組が討った、宮部鼎蔵に師事していた男だという。
宮部が死んで以降、河上は仇を討つべく新選組を狙って密かに入京しているらしく――実際ここしばらく、数名の隊士が非番中に斬られる事件が相次いでいた。かろうじて生き残った隊士曰く、相手は河上彦斎を名乗っていたという。他にもふた月前、公武合体を推し進めていた開国派の幕府重鎮、佐久間象山が暗殺されたのだが……これも河上の仕業だったと言われており、相当腕の立つ人斬りだという噂が、斎藤の耳にもしかと届いていた。
斎藤がチラと隣を見やれば、その名は沖田も充分聞き知っていたようで、丸い目が興味深げに瞬き、きらめいていた。
「土方さん。本題って、もしかしてその河上さんを斬れってお話しですか?」
声も、心なしか弾んで聞こえる。普段どれだけ人好きのする穏やかさを滲ませていても、やはり天才とも言える腕の立つ剣客としての好戦的な一面は、いつだって健在だ。
「まあ、そういうことだ」
玩具を与えられた子供のような態度を見せる沖田に、土方は小さく苦笑を漏らして頷いた。それからふと、斎藤にも目を向けて神妙に続ける。
「お前ら二人、しばらく巡察を非番にするから、揃って河上を追え」
「私達二人で、ですか」
斎藤はゆるくあごを上げ、土方の指示を反復した。いくら河上の腕が立つと言っても、年若さから『隊の双璧』とまで囃される自分達二人を揃って専念させるのは少々やりすぎでは、と言外に滲ませる。
相変わらず都の情勢は不安定なままで、新選組は人手が余るどころか常に足りていない。そんな中、一人で十数名分の働きを示すことのできる幹部は、土方も知っての通り藤堂が江戸に出ており、近藤と永倉までもがその後を追って本日から留守となった。この上、斎藤と沖田という、さらに二人もの手を他所に割けるほどの余裕は、正直ないはずだ。
噂を聞く限りでは、実力的にも斎藤や沖田ならば、河上に劣るとも思えない。であれば、どちらか一人のみが専念し、後は獲物を目の前に追い立てる鷹狩りの勢子のような隊士を数名つけてくれれば充分ではないだろうか。そのほうが、二人揃って出るより隊も回しやすいのでは、とも思う。
が、そんな斎藤の考えをとっくに見透かした様子で、土方はさらに口を開いた。
「佐久間象山が殺されてこのふた月、奉行方が河上を血眼になって追っていただろ。問題は河上が見つからないことじゃねえ。見つけても常に返り討ちに遭ってるってぇことだ」
「つまり……このままでは幕府方の威信に関わる、ということですか。それゆえ、確実性を取りたいと?」
「まあ、確かに私と斎藤さん二人で挟み撃ちすれば確実でしょうしね。相手一人に対して多勢に無勢だろうが、卑怯はお手の物ですよ」
意気揚々と笑う沖田の額を、土方が手持無沙汰に指先で回していた煙管で小突く。
「言い方を選べ、馬鹿」
「痛いなぁ、いいじゃないですか。近藤先生はいないんですし、卑怯こそ土方さんの十八番でしょう」
額をさすりながら悪気なく唇を尖らせる沖田に、土方は何かを言い返そうと口を開きかけた。が、返す言葉など見つからなかったのか、諦めたようにムスッと唇を引き結ぶ。少しの間を置いて小さく息を吐き、粗雑に髪をかき混ぜながら改めて唸る。
「……とにかく、これは会津から『早々に対処願う』ってぇ依頼が直々に来た話でもある。お前ら二人が揃ってうろついてりゃ、新選組をぶっ潰してぇ河上も釣られて出てくるだろ。それで早々に片が付きゃ御の字だ」
「おや、いつぞやも似たようなことをした記憶が、あるようなないような」
沖田はクスクスと相変わらずの悪戯っぽさで肩を震わせ、ぼんぼり髪を揺らした。
確かに池田屋の少し前、そういったこともあったなと、まだ数か月前のことであるのに酷く懐かしいような感覚に陥る。斎藤は沖田につられるようにゆるく口元をゆるめ、「承りました」と頭を下げることでそれを誤魔化した。どの道、会津の名を出された上では、斎藤に断るという選択肢はなくなる。
「今日からすぐに動いてくれ」
土方の命令に、隣で沖田も笑顔のまま丁寧に頭を下げる。
そうして河上の人相書きを受け取り、二人して副長室を後にした。
土方は額を押さえ、溜息交じりに答えた。
それを受けて、沖田が「うぅん」と悩ましげに呻く。
「山南さんは優しいからなあ。人が好すぎるんですよ」
土方は頷く代わりにまぶたを閉じると、深呼吸するような間を置いた。しかし程なくして鋭く目を開け、腹をくくった様子できっぱり言う。
「だが、今回は譲れねえ」
「もし切腹を嫌がったら、私が斬りますね」
当たり前のように、沖田が満面の笑みで顔の横に手を挙げた。散歩に出るからお使いは任せろ、とでも言うくらいの気軽さだ。
それを見た土方は、肩の力を抜いた様子でふっと目元をたわませた。気持ちを切り替えるように改めて煙管を咥え、先とは違った気負いのない息を吐く。
「そうだな。まあ、とりあえずそういうことだ。そろそろ本題に移るぞ」
「えっ、今のが本題だったんじゃないんですか?」
声音をゆるませた土方とは反対に、沖田が虚を衝かれたように軽く目を見開いた。
斎藤も同じ気持ちでわずかに首を傾けたが、言われてみれば葛山の話題はこちら側の会話を拾われたところから発展しただけで、土方から持ち掛けられたものではない。
「河上彦斎。お前らも名前くらいはとっくに聞いてるだろ」
土方は煙管の灰を煙草盆に落とすと、わずかな前傾姿勢で声を低めた。
――河上彦斎。確かに覚えのある名前に、斎藤はわずかに目を細め、視線を落とす。
河上は、尊王攘夷を掲げた志士として元より名が通っていた、肥後出身の侍だ。かつて池田屋の一件で新選組が討った、宮部鼎蔵に師事していた男だという。
宮部が死んで以降、河上は仇を討つべく新選組を狙って密かに入京しているらしく――実際ここしばらく、数名の隊士が非番中に斬られる事件が相次いでいた。かろうじて生き残った隊士曰く、相手は河上彦斎を名乗っていたという。他にもふた月前、公武合体を推し進めていた開国派の幕府重鎮、佐久間象山が暗殺されたのだが……これも河上の仕業だったと言われており、相当腕の立つ人斬りだという噂が、斎藤の耳にもしかと届いていた。
斎藤がチラと隣を見やれば、その名は沖田も充分聞き知っていたようで、丸い目が興味深げに瞬き、きらめいていた。
「土方さん。本題って、もしかしてその河上さんを斬れってお話しですか?」
声も、心なしか弾んで聞こえる。普段どれだけ人好きのする穏やかさを滲ませていても、やはり天才とも言える腕の立つ剣客としての好戦的な一面は、いつだって健在だ。
「まあ、そういうことだ」
玩具を与えられた子供のような態度を見せる沖田に、土方は小さく苦笑を漏らして頷いた。それからふと、斎藤にも目を向けて神妙に続ける。
「お前ら二人、しばらく巡察を非番にするから、揃って河上を追え」
「私達二人で、ですか」
斎藤はゆるくあごを上げ、土方の指示を反復した。いくら河上の腕が立つと言っても、年若さから『隊の双璧』とまで囃される自分達二人を揃って専念させるのは少々やりすぎでは、と言外に滲ませる。
相変わらず都の情勢は不安定なままで、新選組は人手が余るどころか常に足りていない。そんな中、一人で十数名分の働きを示すことのできる幹部は、土方も知っての通り藤堂が江戸に出ており、近藤と永倉までもがその後を追って本日から留守となった。この上、斎藤と沖田という、さらに二人もの手を他所に割けるほどの余裕は、正直ないはずだ。
噂を聞く限りでは、実力的にも斎藤や沖田ならば、河上に劣るとも思えない。であれば、どちらか一人のみが専念し、後は獲物を目の前に追い立てる鷹狩りの勢子のような隊士を数名つけてくれれば充分ではないだろうか。そのほうが、二人揃って出るより隊も回しやすいのでは、とも思う。
が、そんな斎藤の考えをとっくに見透かした様子で、土方はさらに口を開いた。
「佐久間象山が殺されてこのふた月、奉行方が河上を血眼になって追っていただろ。問題は河上が見つからないことじゃねえ。見つけても常に返り討ちに遭ってるってぇことだ」
「つまり……このままでは幕府方の威信に関わる、ということですか。それゆえ、確実性を取りたいと?」
「まあ、確かに私と斎藤さん二人で挟み撃ちすれば確実でしょうしね。相手一人に対して多勢に無勢だろうが、卑怯はお手の物ですよ」
意気揚々と笑う沖田の額を、土方が手持無沙汰に指先で回していた煙管で小突く。
「言い方を選べ、馬鹿」
「痛いなぁ、いいじゃないですか。近藤先生はいないんですし、卑怯こそ土方さんの十八番でしょう」
額をさすりながら悪気なく唇を尖らせる沖田に、土方は何かを言い返そうと口を開きかけた。が、返す言葉など見つからなかったのか、諦めたようにムスッと唇を引き結ぶ。少しの間を置いて小さく息を吐き、粗雑に髪をかき混ぜながら改めて唸る。
「……とにかく、これは会津から『早々に対処願う』ってぇ依頼が直々に来た話でもある。お前ら二人が揃ってうろついてりゃ、新選組をぶっ潰してぇ河上も釣られて出てくるだろ。それで早々に片が付きゃ御の字だ」
「おや、いつぞやも似たようなことをした記憶が、あるようなないような」
沖田はクスクスと相変わらずの悪戯っぽさで肩を震わせ、ぼんぼり髪を揺らした。
確かに池田屋の少し前、そういったこともあったなと、まだ数か月前のことであるのに酷く懐かしいような感覚に陥る。斎藤は沖田につられるようにゆるく口元をゆるめ、「承りました」と頭を下げることでそれを誤魔化した。どの道、会津の名を出された上では、斎藤に断るという選択肢はなくなる。
「今日からすぐに動いてくれ」
土方の命令に、隣で沖田も笑顔のまま丁寧に頭を下げる。
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