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◆ 一章二話 暮れの橋 * 元治元年 六月
じゃあ、また
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西の空に燃えるような茜色が差し始めた時刻、斎藤は愁介と並んで四条の大通りを歩いていた。
「……頭が、混乱し通しなのですが」
鴨川にかかる橋を渡りかけたところで、思わずぽつりと言葉をこぼす。
小さな声は絶えることのない人混みの喧騒に呑み込まれたかと思われたが、隣を歩く愁介にはしかと届いたようだった。
「そう。オレも混乱してる……っていうより、お前が理解できないよ、斎藤」
落ち着いた声に目を向けると、愁介は言葉とは裏腹に、妙に清々しい表情で空を見上げながら足を進めていた。
湿気た生ぬるい風を、まるで澄んだ春風のように穏やかに受け止めている。風に遊ばれた紅鬱金の結い紐が、西日を浴びて燃えるように揺れた。
「オレさ。お前が会津で働いてたこと、こないだまで知らなかったんだ。父上が時折オレを遠ざけて迎えてた『客人』が、たぶんお前だったんだろうなって今なら思うけど」
「この間……? まさか、池田屋の折ですか?」
「そうだよ」
ふふ、と愁介は困ったように眉尻を下げて笑った。
「でも、対峙してすぐにわかった。ああ、山口一だ、って――」
橋を渡りきったところで、斎藤は足を止めた。
二歩ほど先行した愁介も、すぐに立ち止まって振り返る。
不思議そうに丸くなる猫のような瞳を見返しながら、斎藤はそっと眉根を寄せた。
「何故……わかったのですか」
「うん?」
「どこかで、お会いしましたか。俺は……私は、貴殿を存じ上げません」
言うと、一拍を置いて愁介は「ああ」と納得いったように破顔した。
「そうだね、オレと斎藤が会うのは、確かに池田屋が初めてだった」
「……ならば、何故」
「わからないの? 池田屋では、あんなに必死に問うてくれたのに」
ざあ、と川から吹き上がる横殴りの風が、二人の間を通り抜けていった。
斎藤は息を忘れ、言葉を失った。真っ直ぐに見上げてくる愁介の瞳を、ただただ瞬きも忘れて見返すしかできず、指先一つ動かせなかった。
呼吸を取り戻したのは、橋を行き交う連れ立った商人の大きな笑い声が、横をすり抜けざまに斎藤の耳を殴りつけていった時だった。
「やはり葛様を……ご存知、なんですか……?」
掠れた声で、どうにか訊ねる。
愁介は満足げに口元をほころばせ、花咲くような笑顔を満面に浮かべた。
「知ってるよ。それで『山口一』を知ってたんだから」
「……っ、葛様は!」
斎藤が勢い込んで足を踏み出した瞬間、ところが愁介はどこか困惑したように目を伏せて、屯所の渡り廊下でそうしたように、素早く腕を斎藤の眼前にかかげた。
「悪いけど。……オレ、本気でお前のことが理解できないんだよね」
「は……?」
「だから、ごめん。ちょっと、待って」
視線を上げた愁介の瞳が、わずかに揺らぐ。
妙に頼りなげに見える表情に、斎藤は一瞬ばかり躊躇してしまった。
愁介はその隙を見逃さず悪戯めいた笑みを浮かべると、軽く跳ねるように後退した。
「じゃ、そういうことで! とりあえず、今後もちょくちょく屯所に行かせてもらうけど、お前の仕事の邪魔だけはしないから、今後ともよろしくね。送ってくれるのもここまででいいよ。葛と違って女じゃないんだし、黒谷まで来てもらう必要はないから」
愁介は長い髪と袴の裾をひるがえし、くるりと踵を返す。
「……っ、待ってください!」
慌てて呼び止めても愁介は立ち止ってはくれなかった。肩越しに斎藤を振り返り、軽く手を上げて駆けて行く。
「じゃあね、また!」
高くも低くもない、澄んだ声が後に残される。
追おうとした。でも、足が動かなかった。
頭が混乱する。「見定めろ」――そう言った容保の言葉が脳内を駆け巡り、吐息が震えてしまう。
見定めろ、それしか言えない。容保がそう口ごもったのは、愁介が何かしら葛に繋がる人物だから、なのだろうか。
しかし、だとすれば尚のこと、愁介は『何者』なのだろう。
わからない。わからない、けれど。
――あなたの元へたどり着ける手がかりだというのなら。
斎藤は既に姿の見えなくなった愁介を見据えるように目を細め、きつく拳を握り締めた。
「……頭が、混乱し通しなのですが」
鴨川にかかる橋を渡りかけたところで、思わずぽつりと言葉をこぼす。
小さな声は絶えることのない人混みの喧騒に呑み込まれたかと思われたが、隣を歩く愁介にはしかと届いたようだった。
「そう。オレも混乱してる……っていうより、お前が理解できないよ、斎藤」
落ち着いた声に目を向けると、愁介は言葉とは裏腹に、妙に清々しい表情で空を見上げながら足を進めていた。
湿気た生ぬるい風を、まるで澄んだ春風のように穏やかに受け止めている。風に遊ばれた紅鬱金の結い紐が、西日を浴びて燃えるように揺れた。
「オレさ。お前が会津で働いてたこと、こないだまで知らなかったんだ。父上が時折オレを遠ざけて迎えてた『客人』が、たぶんお前だったんだろうなって今なら思うけど」
「この間……? まさか、池田屋の折ですか?」
「そうだよ」
ふふ、と愁介は困ったように眉尻を下げて笑った。
「でも、対峙してすぐにわかった。ああ、山口一だ、って――」
橋を渡りきったところで、斎藤は足を止めた。
二歩ほど先行した愁介も、すぐに立ち止まって振り返る。
不思議そうに丸くなる猫のような瞳を見返しながら、斎藤はそっと眉根を寄せた。
「何故……わかったのですか」
「うん?」
「どこかで、お会いしましたか。俺は……私は、貴殿を存じ上げません」
言うと、一拍を置いて愁介は「ああ」と納得いったように破顔した。
「そうだね、オレと斎藤が会うのは、確かに池田屋が初めてだった」
「……ならば、何故」
「わからないの? 池田屋では、あんなに必死に問うてくれたのに」
ざあ、と川から吹き上がる横殴りの風が、二人の間を通り抜けていった。
斎藤は息を忘れ、言葉を失った。真っ直ぐに見上げてくる愁介の瞳を、ただただ瞬きも忘れて見返すしかできず、指先一つ動かせなかった。
呼吸を取り戻したのは、橋を行き交う連れ立った商人の大きな笑い声が、横をすり抜けざまに斎藤の耳を殴りつけていった時だった。
「やはり葛様を……ご存知、なんですか……?」
掠れた声で、どうにか訊ねる。
愁介は満足げに口元をほころばせ、花咲くような笑顔を満面に浮かべた。
「知ってるよ。それで『山口一』を知ってたんだから」
「……っ、葛様は!」
斎藤が勢い込んで足を踏み出した瞬間、ところが愁介はどこか困惑したように目を伏せて、屯所の渡り廊下でそうしたように、素早く腕を斎藤の眼前にかかげた。
「悪いけど。……オレ、本気でお前のことが理解できないんだよね」
「は……?」
「だから、ごめん。ちょっと、待って」
視線を上げた愁介の瞳が、わずかに揺らぐ。
妙に頼りなげに見える表情に、斎藤は一瞬ばかり躊躇してしまった。
愁介はその隙を見逃さず悪戯めいた笑みを浮かべると、軽く跳ねるように後退した。
「じゃ、そういうことで! とりあえず、今後もちょくちょく屯所に行かせてもらうけど、お前の仕事の邪魔だけはしないから、今後ともよろしくね。送ってくれるのもここまででいいよ。葛と違って女じゃないんだし、黒谷まで来てもらう必要はないから」
愁介は長い髪と袴の裾をひるがえし、くるりと踵を返す。
「……っ、待ってください!」
慌てて呼び止めても愁介は立ち止ってはくれなかった。肩越しに斎藤を振り返り、軽く手を上げて駆けて行く。
「じゃあね、また!」
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見定めろ、それしか言えない。容保がそう口ごもったのは、愁介が何かしら葛に繋がる人物だから、なのだろうか。
しかし、だとすれば尚のこと、愁介は『何者』なのだろう。
わからない。わからない、けれど。
――あなたの元へたどり着ける手がかりだというのなら。
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