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◆ 一章二話 暮れの橋 * 元治元年 六月
理解不能
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ちゃぷん、と桶水の波打つ音が聞こえた。続いて、手拭いを絞る涼しい音も。
斎藤は瞬きも忘れて後ろを振り返った。豪快な原田じゃあるまいに、どちらかというと人付き合いに関して神経の細かい沖田が、客人の前で体を拭おうとするなど、意外というよりいっそ奇怪な域である。
しかし、振り返った先にはさらなる奇怪な光景が広がっていた。
いそいそと着物を諸肌脱ぎにしようとしている沖田の横で手拭いを絞っていたのは、そもそも何故こんなところにいるのかと疑問を投げつけたい張本人、愁介だったのだ。
楽しげに微笑んで「はい、拭くよー」などと甲斐甲斐しく沖田の背を拭い始めた愁介に、斎藤はさすがに「あの」と硬い声をかけた。
「何を、なさっているんですか?」
「えっ? 手伝い?」
愁介は、問われる意味がわからないとでも言わんばかりに目を丸くした。沖田は沖田で「わー、ひんやりして気持ちいいですー」なんて、のん気なことを言う。
軽くめまいがした。
足早に歩み寄り、愁介から手拭いを奪い取る。
「貴殿の、なさることではないですよね」
仮にも一国の主に「実子のように思っている」と言わしめた身分の者が、一介の浪人上がりの世話をするなど、とんでもないことである。
なのに当の愁介は一向に気にしたふうもなく、
「え? いいじゃない、別に」
「貴殿の手をわずらわせるくらいなら、私がやります」
「えっ、斎藤さんがしてくださるんですか? 何だか照れますね!」
沖田がわざとらしく頬に手を添えて茶々を入れたので、斎藤は思わず手に持っていた手拭いを放り投げるようにして沖田の背中に貼り付けた。
冷たかったのか、沖田は「うへぁ」と情けない声を上げる。
「斎藤さん、扱いが! 酷いです!」
「というか自分でやってくれ、これくらい。何させてるんだ、仮にも会津侯のお身内に」
語気を強めて言い返すと、恨みがましく斎藤を見上げていた沖田が「おや」と目を瞬かせた。
「斎藤さん、愁介さんが会津様のお身内って認めたんですか?」
「認めるも何も……」
会津侯自身にそう言われたのだから仕方あるまい、とは言えずに斎藤は口をつぐんだ。
横目に窺うと、愁介からは何故かふわりと目元を和ませた朗らかな笑顔を返される。
……意味がわからない。
斎藤はくしゃりと髪をかき混ぜると、愁介の脇に正座した。
「あの。お伺いしたいのですが」
「うん、何?」
抑揚のない声を上げる斎藤に対し、愁介はにこにこと楽しそうに頬をほころばせた。
無邪気すぎる表情に気圧される。隣では自分の手で体を拭き始めた沖田が、チラチラとこちらを窺っている。
深い嘆息を漏らしそうになるのをどうにかこらえ、斎藤は淡々と口を開いた。
「貴殿は」
「堅苦しいなぁ。愁介でいいよ」
「……愁介様は」
「うわあ、様とか勘弁して。肩が凝る」
「――愁介殿は!」
淡々と話し始めた言葉も、終いには調子を崩されてしまった。
が、それも一瞬で自制し、抑揚を消して問いかける。
「何故、このような場所にいらっしゃるのですか」
ようやく言い切ると、愁介は笑顔を引っ込めて、神妙に頷いた。
「勿論、総司のお見舞いに」
……変な沈黙が部屋に下りた。
とっさに言葉を返しあぐね、斎藤は視線を横に流して沖田を見た。
沖田は汗を拭いきったらしく、すっきりした表情で寝巻きを整え、眉をキリリとつり上げながら首肯した。
「お土産に水菓子をいただきました。すみません、斎藤さんの分は残っていません」
そんなことは訊いていない。胸中で切り返し、斎藤は再び愁介に目を向けた。
「沖田さんの見舞いのためだけに、わざわざ新選組の屯所へ?」
「いけない? あ、でもこの後、他の……ほら、永倉さんとか、藤堂さんとか。一緒に戦った人達にも、挨拶させてもらおうと思ってるよ」
愁介は本当に裏表などなさそうな、澄んだ瞳を部屋の外に向けた。「池田屋ではお世話になったしね」なんて楽しげに言う。
それから思いついたように「あ」と手を打った。
「ちゃんと先に局長さんには挨拶して、会津公用方の広沢さんに一筆書いてもらった身分保証書も渡してきたよ。それ以外はまだ門番と総司くらいしか会ってもないし。新選組の仕事の邪魔は、誓ってしてないから。今だって雑談してただけだし。昔話を聞いたりとか」
「……いえ。そういうことを言っているのではなく」
詰まるところ目的は何なのだと、ただそれだけを訊きたいのだが。
しかし伝わらないのか、気付かぬ素振りをしているだけなのか。愁介は口元に手を当て、悪戯っぽくニタリと笑みを深めた。
「そうそう。昔話といえば、斎藤って、局長さんの道場に道場破りしに行ったんだって? 見るからにすごい生真面目で面倒ごととか嫌いそうなのに、意外だったなぁ。やっぱり強いだけあって、剣術だけは形振り構わずだったの? 出身はどこ? 流派は?」
興味津々で覗き込むように、上目の視線を投げられる。
――その瞬間、斎藤はひたりと頭に冷たいものが走るのを感じた。
「出身……?」
そ知らぬ顔をして出自を問われたことに、何故か酷く腹が立った。
……話の流れとしては、別段不自然な問いかけではなかったと思う。しかし『山口』を知りながらそれを訊くのか、ということが酷く癪に障った。斎藤が『山口』を嫌っているなど、愁介が知る由もないことは理解しているはずなのに。
「……答えなければ、なりませんか?」
絞り出した返答は、自分で思っていたよりも低く剣呑だった。
理不尽な怒りが、ふつふつと泡立つように湧き上がってしまう。
「えっ? いや……」
愁介は驚いた様子で口をつぐみ、救いを求めるように沖田を見た。
斎藤はそれを追って、同じくきょとんと目を瞬かせている沖田を見据える。
「沖田さん、急に口が軽くなったんだな」
短く冷めた声をかけたが、沖田は困ったように首を傾けて、
「えーっと……しちゃいけないような話は、してませんよ? 試衛館の頃の話だけです。確かに私にしちゃ珍しいかもしれませんが、その……気分を害されたなら、謝りますけど」
珍しく萎縮したような表情に、はたと苦い思いが湧く。
何も知らない相手に対しては間違いなく八つ当たりだったと自覚し、頭に上った血が瞬時に引いていった。
斎藤は片手で自身の額を覆った。
「……すみません、疲れているようです。忘れてください。沖田さんも、すまない」
部屋に気まずい沈黙が停滞した。
が、そんな空気を撒き散らすように、突然愁介がパンッと両手を叩き合わせた。
驚いて肩に力を入れる斎藤と沖田を尻目に、愁介は明るく歯を見せて笑うと、まるで何かをねだる子供のように斎藤の顔を下から覗き込んでくる。
「よしっ。斎藤。ちょっと永倉さん達に挨拶したいんで、案内頼んでいいですか!」
「は? 私に、ですか?」
今の空気から何故そうなるのかと訝る斎藤を、愁介は歯牙にもかけず頷いた。
「えっと……愁介さん、案内なら私が行きますよ?」
沖田が自身を指差すが、愁介はゆるりとかぶりを振った。
「いや、熱が下がるまで最低限は安静にしてないと。挨拶が終わったらまた戻ってくるし、別にお見舞いも今日限りのつもりはないから、総司は少し休んでてよ」
ね、と優しく沖田の肩に手を置く。
沖田はそんな愁介に苦笑を返したが、大人しく「わかりました。熱が下がったらとことん一緒に遊びましょう」などと幼いことを言って引き下がる。
「じゃあ斎藤、よろしく!」
そうして、一体どちらが案内する側なのやら。困惑を拭いきれないままの斎藤は愁介に腕を取られ、引っ張られるようにして部屋を後にした。
斎藤は瞬きも忘れて後ろを振り返った。豪快な原田じゃあるまいに、どちらかというと人付き合いに関して神経の細かい沖田が、客人の前で体を拭おうとするなど、意外というよりいっそ奇怪な域である。
しかし、振り返った先にはさらなる奇怪な光景が広がっていた。
いそいそと着物を諸肌脱ぎにしようとしている沖田の横で手拭いを絞っていたのは、そもそも何故こんなところにいるのかと疑問を投げつけたい張本人、愁介だったのだ。
楽しげに微笑んで「はい、拭くよー」などと甲斐甲斐しく沖田の背を拭い始めた愁介に、斎藤はさすがに「あの」と硬い声をかけた。
「何を、なさっているんですか?」
「えっ? 手伝い?」
愁介は、問われる意味がわからないとでも言わんばかりに目を丸くした。沖田は沖田で「わー、ひんやりして気持ちいいですー」なんて、のん気なことを言う。
軽くめまいがした。
足早に歩み寄り、愁介から手拭いを奪い取る。
「貴殿の、なさることではないですよね」
仮にも一国の主に「実子のように思っている」と言わしめた身分の者が、一介の浪人上がりの世話をするなど、とんでもないことである。
なのに当の愁介は一向に気にしたふうもなく、
「え? いいじゃない、別に」
「貴殿の手をわずらわせるくらいなら、私がやります」
「えっ、斎藤さんがしてくださるんですか? 何だか照れますね!」
沖田がわざとらしく頬に手を添えて茶々を入れたので、斎藤は思わず手に持っていた手拭いを放り投げるようにして沖田の背中に貼り付けた。
冷たかったのか、沖田は「うへぁ」と情けない声を上げる。
「斎藤さん、扱いが! 酷いです!」
「というか自分でやってくれ、これくらい。何させてるんだ、仮にも会津侯のお身内に」
語気を強めて言い返すと、恨みがましく斎藤を見上げていた沖田が「おや」と目を瞬かせた。
「斎藤さん、愁介さんが会津様のお身内って認めたんですか?」
「認めるも何も……」
会津侯自身にそう言われたのだから仕方あるまい、とは言えずに斎藤は口をつぐんだ。
横目に窺うと、愁介からは何故かふわりと目元を和ませた朗らかな笑顔を返される。
……意味がわからない。
斎藤はくしゃりと髪をかき混ぜると、愁介の脇に正座した。
「あの。お伺いしたいのですが」
「うん、何?」
抑揚のない声を上げる斎藤に対し、愁介はにこにこと楽しそうに頬をほころばせた。
無邪気すぎる表情に気圧される。隣では自分の手で体を拭き始めた沖田が、チラチラとこちらを窺っている。
深い嘆息を漏らしそうになるのをどうにかこらえ、斎藤は淡々と口を開いた。
「貴殿は」
「堅苦しいなぁ。愁介でいいよ」
「……愁介様は」
「うわあ、様とか勘弁して。肩が凝る」
「――愁介殿は!」
淡々と話し始めた言葉も、終いには調子を崩されてしまった。
が、それも一瞬で自制し、抑揚を消して問いかける。
「何故、このような場所にいらっしゃるのですか」
ようやく言い切ると、愁介は笑顔を引っ込めて、神妙に頷いた。
「勿論、総司のお見舞いに」
……変な沈黙が部屋に下りた。
とっさに言葉を返しあぐね、斎藤は視線を横に流して沖田を見た。
沖田は汗を拭いきったらしく、すっきりした表情で寝巻きを整え、眉をキリリとつり上げながら首肯した。
「お土産に水菓子をいただきました。すみません、斎藤さんの分は残っていません」
そんなことは訊いていない。胸中で切り返し、斎藤は再び愁介に目を向けた。
「沖田さんの見舞いのためだけに、わざわざ新選組の屯所へ?」
「いけない? あ、でもこの後、他の……ほら、永倉さんとか、藤堂さんとか。一緒に戦った人達にも、挨拶させてもらおうと思ってるよ」
愁介は本当に裏表などなさそうな、澄んだ瞳を部屋の外に向けた。「池田屋ではお世話になったしね」なんて楽しげに言う。
それから思いついたように「あ」と手を打った。
「ちゃんと先に局長さんには挨拶して、会津公用方の広沢さんに一筆書いてもらった身分保証書も渡してきたよ。それ以外はまだ門番と総司くらいしか会ってもないし。新選組の仕事の邪魔は、誓ってしてないから。今だって雑談してただけだし。昔話を聞いたりとか」
「……いえ。そういうことを言っているのではなく」
詰まるところ目的は何なのだと、ただそれだけを訊きたいのだが。
しかし伝わらないのか、気付かぬ素振りをしているだけなのか。愁介は口元に手を当て、悪戯っぽくニタリと笑みを深めた。
「そうそう。昔話といえば、斎藤って、局長さんの道場に道場破りしに行ったんだって? 見るからにすごい生真面目で面倒ごととか嫌いそうなのに、意外だったなぁ。やっぱり強いだけあって、剣術だけは形振り構わずだったの? 出身はどこ? 流派は?」
興味津々で覗き込むように、上目の視線を投げられる。
――その瞬間、斎藤はひたりと頭に冷たいものが走るのを感じた。
「出身……?」
そ知らぬ顔をして出自を問われたことに、何故か酷く腹が立った。
……話の流れとしては、別段不自然な問いかけではなかったと思う。しかし『山口』を知りながらそれを訊くのか、ということが酷く癪に障った。斎藤が『山口』を嫌っているなど、愁介が知る由もないことは理解しているはずなのに。
「……答えなければ、なりませんか?」
絞り出した返答は、自分で思っていたよりも低く剣呑だった。
理不尽な怒りが、ふつふつと泡立つように湧き上がってしまう。
「えっ? いや……」
愁介は驚いた様子で口をつぐみ、救いを求めるように沖田を見た。
斎藤はそれを追って、同じくきょとんと目を瞬かせている沖田を見据える。
「沖田さん、急に口が軽くなったんだな」
短く冷めた声をかけたが、沖田は困ったように首を傾けて、
「えーっと……しちゃいけないような話は、してませんよ? 試衛館の頃の話だけです。確かに私にしちゃ珍しいかもしれませんが、その……気分を害されたなら、謝りますけど」
珍しく萎縮したような表情に、はたと苦い思いが湧く。
何も知らない相手に対しては間違いなく八つ当たりだったと自覚し、頭に上った血が瞬時に引いていった。
斎藤は片手で自身の額を覆った。
「……すみません、疲れているようです。忘れてください。沖田さんも、すまない」
部屋に気まずい沈黙が停滞した。
が、そんな空気を撒き散らすように、突然愁介がパンッと両手を叩き合わせた。
驚いて肩に力を入れる斎藤と沖田を尻目に、愁介は明るく歯を見せて笑うと、まるで何かをねだる子供のように斎藤の顔を下から覗き込んでくる。
「よしっ。斎藤。ちょっと永倉さん達に挨拶したいんで、案内頼んでいいですか!」
「は? 私に、ですか?」
今の空気から何故そうなるのかと訝る斎藤を、愁介は歯牙にもかけず頷いた。
「えっと……愁介さん、案内なら私が行きますよ?」
沖田が自身を指差すが、愁介はゆるりとかぶりを振った。
「いや、熱が下がるまで最低限は安静にしてないと。挨拶が終わったらまた戻ってくるし、別にお見舞いも今日限りのつもりはないから、総司は少し休んでてよ」
ね、と優しく沖田の肩に手を置く。
沖田はそんな愁介に苦笑を返したが、大人しく「わかりました。熱が下がったらとことん一緒に遊びましょう」などと幼いことを言って引き下がる。
「じゃあ斎藤、よろしく!」
そうして、一体どちらが案内する側なのやら。困惑を拭いきれないままの斎藤は愁介に腕を取られ、引っ張られるようにして部屋を後にした。
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