櫻雨-ゆすらあめ-

弓束しげる

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◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月

あなたが誰でもいい

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 目の前から、唐突に愁介が消えた。

 いや、消えたと思っただけで、愁介は素早く身を屈めただけだった。その手が腰の得物を抜き放つのを、斎藤は視界の端でかろうじて捉えていた。

 速い。

 目で捉えるのがやっとで、己の剣が、追いつかない――。

 初めて目前にした『死』の予感に、驚愕し、背筋が凍り、

 ……胸が躍った。

 しかしそれも束の間のこと。

 愁介の刀は、切っ先を寸分の狂いもなく斎藤の喉元に押し当てたところで、ぴたりと止まった。

「……そうか。そういう、もんか……」

 埃でも吸ったのか、愁介はケホンとひとつ空咳をして呟いた。

 斎藤は間抜けにも、誰もいない空間に刀を差し出したまま動けなかった。そのまま視線だけを下げて、愁介を見下ろす。

 愁介はあごを上げて、斎藤をめ上げていた。

 視線が交錯して、しばしの無言が続く。

 ――そうして呼吸も、湿気た暑ささえ忘れかけた後で、

「……まあ、アレだ。これで手打ちにしよう」

 愁介は不意に頬をゆるめて、刀を下げてしまった。

 肩から力が抜け、斎藤も思わず腕を下ろす。

「……何だ。死ねるかと思った……」

 自分でも驚くほど、気の抜けた本音が漏れ落ちた。

「はい?」

 愁介は大きな目をこぼれんばかりに見開いて、頓狂な声を上げた。

「いや、何言ってんの、殺さないよ。あのさ、オレ……」

 何かを言いかけた声が、尻すぼみになる。

 渇きを抑えるように愁介は唇を舐め、唾を飲み込んだ。あまり血色がいいとは言えない、けれど桜の花びらのような薄く淡い唇が、きゅっと引き結ばれる。

 ――わずかな間が空いた後、その口から漏れ出たのは、打って変わった低く棘のある声だった。

「……死ねる、と思った? 死ぬと思った、じゃなくて?」

 見開かれていたどんぐり眼が、見る見る細められて刃のように鋭くなる。

「いや……何、実力主義? 負けたら殺されてもいいって意味? それか……いや、何でもいいけど、その言い方だと死にたがってるみたいに聞こえるから、止めたほうがいい」
「……俺が何を望もうが、あなたには関係のないことですよね」

 斎藤は突き放すように返した。本音が出てしまったものは仕方がない。それを、愁介相手に取り繕うことにも意味を感じられなかった。

 ところが愁介は、何匹かまとめて苦虫を噛み潰したかのような顔で眉間にしわを寄せた。

「っ、お前は!」

 一瞬、声を荒らげて、

「……生きなきゃ駄目だ」

 まるで諭すように、強く、芯をもって言う。

 が、ろくに知りもしない相手からの説教に、斎藤は虫唾が走り口元を歪めた。

「……不愉快です」

 思ったまま突き返すと、

「オレも実に不快だ」

 思ったままであろう言葉を、その通りの苦々しい表情で応酬された。

「帰る!」

 愁介は言葉を吐いて捨てると、納刀して踵を返した。こんな状況でも、斎藤に背を向けてまた格子窓の穴から外へ出ようとする。

 間抜けで隙だらけな背中に刀を突き刺してやろうかと逡巡したところで、

「ああ、ほら、会津兵が来ちゃったじゃんか。見つかったらお前のせいだ」

 もぞもぞと穴から外に出た愁介は、屋根瓦に膝をついたまま表通りへ視線を投げてぼやいた。「怒られたら嫌だなぁ」なんて子供じみたことを言って、唇を尖らせる。

 やはり理解不能で、斎藤は口早に問うた。

「……だから、あなたは誰なんです。会津の者だとおっしゃるなら、何故会津の者から逃げようとするんです。殺していいですか」
「殺さなくていいよ! 訊くなよ、物騒だな!」

 間髪容れず、愁介は牙をむいた。

 けれど、やれやれと困ったように吐息すると、やおら目をたわめて苦笑を浮かべる。

「最初に言ったけど。オレ、家老達のやり方が気に食わなくて一人で加勢に来たの。当然、コッソリね。だから、オレがここにいたら話がややこしくなっちゃう。よって、コソコソと帰らせてもらう。わかった?」

 幼子に説明するかのごとく、愁介は大きく首をかしげて見せた。

 しかし斎藤が表情一つ動かさず黙っていると、すぐに眉尻を下げて溜息を吐く。

「あー、何なら一緒に来る? そんなに信じられないなら、黒谷までオレを送り届けてもらっても構わないよ、山口家ヽヽヽ次男坊ヽヽヽ殿」

 さすがに絶句した。斎藤は、知らずひくりと目元を引きつらせてしまう。

「……嫌そうな顔。はは、悪かったよ、ごめん」

 悪かったと言う割に、愁介は口元をほころばせ、何故か嬉しそうに微笑んでいた。

「嫌でもまた会うよ。今度はきっと、黒谷で」

 愁介はさっぱりとした声音で、そんなふうに続けた。

 立ち上がり、静かな足取りで屋根の端まで歩いていく。

 高く結い上げられた黒髪が、風になびいてやわらかく流れた。共に揺れる紅鬱金べにうこん色の結い紐が、月光に揺れて淡い桜色に見える。

 正面はあれだけ血で汚れていたのに、後姿は着物も、髪も、結い紐さえ綺麗なままで、酷く場違いに映った。

 斎藤は夢を見ているかのような浮遊感に襲われた。

 そして心臓に、浅く爪を立てられたような――……

「――あなたが誰でもいい」

 気付いた時には、斎藤は格子窓に手をかけて身を乗り出していた。

「葛という人を、知っていますか?」

 自分でも、何故口走ってしまったのかわからない。訊いたところでどうなるわけでも、ないはずなのに。

 肩越しに振り返った愁介の表情が、風になびいた髪で一瞬、見えなくなる。

「おい、何してる!」

 背後からかかった声に、意識を現実へと引き戻された。

 はっと振り返ると、灯りを手に持った土方が仰天したように目を瞠って立っていた。同時にカコン、と、頭の後ろで瓦を蹴る音が響く。

 再び外に視線を戻すと、隣の建物の屋根へ飛び移った愁介の後姿があった。愁介はそのまま振り返ることなく、軽やかな足取りで屋根から屋根へ移り、去っていく。

「おい、何だアイツ、逃げ――ッ」
「あ……っ、黒谷に、帰ると!」

 土方を遮って、斎藤は無意識に言葉を連ねていた。

「会津兵の誰にも黙って加勢にきた手前、自分がいると話がややこしくなるから、と……。一理、あると思います。むしろ彼が本当に落胤だとか、そういった身分にあったなら、今回の手柄を会津にすべて持っていかれかねません。それは、局長や土方さんの望むところでもないかと……」

 舌を回しながら、斎藤は自分で自分に「何を言っているんだ」と混乱した。

 落胤などではない。それは確実だと、己が一番よく知っている。そして手柄を横取りされるかもしれないという点については、可能性として事実以外の何物でもないのだが……だからと言って、それを土方に警告する必要性は本来皆無だった。むしろ会津にとってはそのほうが都合も良いはずで、本来の斎藤の役目としては、実際に会津の手柄となるよう黙って手回しするほうが、いいのかもしれないのであって――。

「……確かに、それはゴメンだな。それだけはさせねぇように注意しねぇと」

 時、既に遅し。土方があごに手を当てて、納得してしまった。

「今、会津の兵が到着したんだ」
「……そのようですね」

 斎藤は混乱冷めやらぬまま、声音だけはいつもの平坦さを保って頷いた。

「まあ、松平のことはいい。もしまた会うようなことがあっても、新選組の邪魔になるようであれば……今度は、斬る」

 土方は揺るぎない視線を、屋根の向こうに消えた小さな背に向けた。

 その曇りのない瞳を見上げながら、斎藤は密かに口の中を噛み締める。

 ――ならばその時は、自分が斬ります。

 いつもなら考えずとも出ていく言葉が、出なかった。出せなかった。

「この部屋は死人ばっかだな。行くぞ、斎藤。これからが大仕事だ」

 部屋を見回した土方が、あごをしゃくって促す。

「はい」と簡素な返事をして、斎藤は抜いたままだった刀を納め、土方について歩き出す。

 部屋を出る時、斎藤は一度だけ窓を振り返った。

 ――『葛という人を、知っていますか?』

 気のせい、だろうか。

 問いかけに振り向いた愁介が、目を細め、笑ったように見えた――。

「……さて、会津とお上はどう出るかね」

 ブツブツと策を練り始める土方に視線を戻し、共に騒がしい一階へと向かう。

 黙々と足を動かしながら、斎藤は、今朝自分で付けた手のひらの傷を、そっと指先でなぞった。
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