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◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
正論と道理
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「……何だ?」
土方が押さえつけるような重低音を発する。斎藤はその声を追うように後ろを見やった。
試衛館組の後列に座していた助勤達は、土方に圧されて二の句を告げず、しかし何か納得がいかないとでもいうように、互いに視線を交差させていた。
「……土方くん。総出、というのは私も聞いていないな」
不意に、助勤達の思いを汲み上げるように山南が声を上げた。
山南は眼鏡を指先で押し上げると、柔和ながらも思慮深い視線を土方に向ける。
「敵も古高を取り戻そうと、屯所に奇襲をかけてくるかもしれない。それに今、隊士達の間で夏風邪が流行っているだろう? 屯所を手薄にしては、まずいのではないかな」
その慎重な言に、助勤達が同意するように息を吐いた。
正論である。ここで古高を奪還されては意味がないし、こちらが動いている間に屯所を壊滅させられたのでは目も当てられない。
「馬鹿くせえ」
しかしそんな正論を、土方は上段からぶった斬った。面倒くさそうに髪をかき上げ、冷ややかな視線を山南に返す。
「山南さんの言う通り、古高を奪い返されるのは確かにまずい。よって監察数名の手で、奴の身柄は秘密裏に別の場所へ移すとしよう。だが、風邪っ引きなんざ知ったことか。自分の体調すら管理できねえ奴らを護るために、ただでさえ少ない人員を裂けるか」
「……屯所が、どうなろうと構わないと?」
山南が困ったように眉尻を下げた。
土方はフンと不敵に口の端を上げ、肩をすくめて近藤に目を向けた。
「屯所なんざ、別にどこだっていいんだ。新選組は『屯所』にあるんじゃねえ、局長のいる場所に成り立つ組織だ。ここが無事なら戻ってくる。ここが落ちるなら、拠点を別に移すまでのこと」
乱暴な言葉だった。屯所にいる仲間を見捨てるようにも聞こえ、横暴でさえあった。
しかし、これはこれで道理でもあった。
「……なるほど。言葉は荒いけれど、我が身は我が身で護ってこそ武士、ということかな」
助勤達は絶句したように口を開いていたが、山南だけは、土方の言葉を補足するように微笑みを浮かべた。それこそ、絶句している者達に、土方の言が道理であると伝えるかのように。屯所にいる者達を見捨てるのではない、風邪を引いているとはいえ動ける数人の武士が屯所に残るのだから、ここは彼らに預ける。土方の言葉はそういう意味なのだと、諭すように――。
「屯所の采配は山南さん、あんたに任せるよ」
構わないですね局長、と土方が確認を取ると、近藤は神妙に頷いて、わずかに目元を和ませながら山南に視線を投げた。
「山南さんも風邪を引かれているそうですが……申し訳ない。頼みにしています」
山南は穏やかに笑みを深めて、膝の上に手をそろえ、丁寧に頭を下げた。
「承知しました」
その後、敵に気取られないよう、動ける隊士達は隊服も身に着けずバラバラに屯所を出て陣に向かうよう指示され、会議はお開きとなった。
近藤が退室した後、助勤達も各々立ち上がり、伸びをしながら、あるいは今夜への緊張に息を詰めながら部屋を出て行く。
「しかし相変わらず、土方副長と山南副長は仲が悪いなぁ……」
「土方さんの言葉もわかるんだけど、山南さんが不憫に思えちまうよ」
斎藤も退室しようと立ち上がったところで、廊下からコソコソと話す声が聞こえた。
どうせ話すなら、もっと部屋を離れてからにすればいいものを――。
呆れて吐息が漏れる。するとそこで、斎藤の背後から「ははっ、よく言うよ」と小馬鹿にするような明るい声が上がった。
「山南さんにわからされてるとも知らないで」
顔を向けると、くせのある髪に真紅の結い紐を絡め遊ばせている、洒落者の青年が立ち上がった。青年は、その年若さに似合わぬ「はー、どっこいしょ」なんて掛け声を上げながら、鉄紺の袴のしわを小気味良い音を立ててはたく。
「何が『仲が悪い』だか。信頼あってこそのモンだって、わからないのかな」
藤堂平助――斎藤や沖田と同い年であり、三人の中ではもっとも年相応な茶目っ気を持つ好青年だ。彼もまた、元試衛館の食客である。真偽のほどは定かではないが、津の国、藤堂和泉守の落胤(隠し子)という噂もある。その噂に違わぬ、月白の着物がよく似合う、垂れ気味の双眸に強い意志を宿した品のある面立ちをしている。
「ただの山南さんいじめなら、オレが黙ってないっての」
藤堂は「ね?」と無邪気に歯を見せて、上座に目を向けた。
黙っていない、というのは、藤堂が誰よりも山南を慕っているがゆえである。二人は試衛館に集う前から北辰一刀流という流派で学んでいた同門同士で、仲が良い。
既に山南は退室していたが、上座に残っていた土方が藤堂の視線を受け、苦い顔で「知るか」とそっぽを向いた。
藤堂はクスクス肩を揺らし、「素直じゃないんだからぁ」と頭の後ろで腕を組む。
「ま、わかってるのが試衛館組だけだからこそ、いわゆる暗黙の了解なんだろうけど? でも多少は手加減してよー、山南さん、割と繊細さんなんだからね」
藤堂は陽気に言葉を続けて、ひらひらと手を振りながら去っていった。
他の助勤達も既にいなくなっており、部屋に土方と斎藤だけが残される。
土方は、ばつ悪そうな視線を斎藤に投げ寄越した。
斎藤は軽く肩をすくめて、「まあ、毎度よくやるなとは思いますけど」と平坦な声を返すしかない。
――今の会議での、山南と土方のやり取り。別に毎回打ち合わせをしているわけではないらしいが、二人は何かあれば、いつもああして軽く言い争い、場を収拾させる。すなわち山南が『正論』を言い、土方が『組の道理』を返して貫き通すことで、他の者から上がるかもしれない『反論』をけん制するのである。
少々回りくどい気もするが、これは隊士を納得させ物事を円滑に進めるための、土方と山南の常套手段であった。
何も知らなければ、矢面に立たされる山南は確かに不憫にも見えるだろう。が、だからこそ、知る者から見れば互いの信頼がなければできないことだと敬意を表す。
「それにしても、よく古高に吐かせましたね」
斎藤は呟いて、静かに目を細めた。一日も持たさず吐かせるとは見事な手際だと、素直に感心した。
――ところが土方は答えず、少し疲れたように薄く口の端を上げただけだった。
土方が押さえつけるような重低音を発する。斎藤はその声を追うように後ろを見やった。
試衛館組の後列に座していた助勤達は、土方に圧されて二の句を告げず、しかし何か納得がいかないとでもいうように、互いに視線を交差させていた。
「……土方くん。総出、というのは私も聞いていないな」
不意に、助勤達の思いを汲み上げるように山南が声を上げた。
山南は眼鏡を指先で押し上げると、柔和ながらも思慮深い視線を土方に向ける。
「敵も古高を取り戻そうと、屯所に奇襲をかけてくるかもしれない。それに今、隊士達の間で夏風邪が流行っているだろう? 屯所を手薄にしては、まずいのではないかな」
その慎重な言に、助勤達が同意するように息を吐いた。
正論である。ここで古高を奪還されては意味がないし、こちらが動いている間に屯所を壊滅させられたのでは目も当てられない。
「馬鹿くせえ」
しかしそんな正論を、土方は上段からぶった斬った。面倒くさそうに髪をかき上げ、冷ややかな視線を山南に返す。
「山南さんの言う通り、古高を奪い返されるのは確かにまずい。よって監察数名の手で、奴の身柄は秘密裏に別の場所へ移すとしよう。だが、風邪っ引きなんざ知ったことか。自分の体調すら管理できねえ奴らを護るために、ただでさえ少ない人員を裂けるか」
「……屯所が、どうなろうと構わないと?」
山南が困ったように眉尻を下げた。
土方はフンと不敵に口の端を上げ、肩をすくめて近藤に目を向けた。
「屯所なんざ、別にどこだっていいんだ。新選組は『屯所』にあるんじゃねえ、局長のいる場所に成り立つ組織だ。ここが無事なら戻ってくる。ここが落ちるなら、拠点を別に移すまでのこと」
乱暴な言葉だった。屯所にいる仲間を見捨てるようにも聞こえ、横暴でさえあった。
しかし、これはこれで道理でもあった。
「……なるほど。言葉は荒いけれど、我が身は我が身で護ってこそ武士、ということかな」
助勤達は絶句したように口を開いていたが、山南だけは、土方の言葉を補足するように微笑みを浮かべた。それこそ、絶句している者達に、土方の言が道理であると伝えるかのように。屯所にいる者達を見捨てるのではない、風邪を引いているとはいえ動ける数人の武士が屯所に残るのだから、ここは彼らに預ける。土方の言葉はそういう意味なのだと、諭すように――。
「屯所の采配は山南さん、あんたに任せるよ」
構わないですね局長、と土方が確認を取ると、近藤は神妙に頷いて、わずかに目元を和ませながら山南に視線を投げた。
「山南さんも風邪を引かれているそうですが……申し訳ない。頼みにしています」
山南は穏やかに笑みを深めて、膝の上に手をそろえ、丁寧に頭を下げた。
「承知しました」
その後、敵に気取られないよう、動ける隊士達は隊服も身に着けずバラバラに屯所を出て陣に向かうよう指示され、会議はお開きとなった。
近藤が退室した後、助勤達も各々立ち上がり、伸びをしながら、あるいは今夜への緊張に息を詰めながら部屋を出て行く。
「しかし相変わらず、土方副長と山南副長は仲が悪いなぁ……」
「土方さんの言葉もわかるんだけど、山南さんが不憫に思えちまうよ」
斎藤も退室しようと立ち上がったところで、廊下からコソコソと話す声が聞こえた。
どうせ話すなら、もっと部屋を離れてからにすればいいものを――。
呆れて吐息が漏れる。するとそこで、斎藤の背後から「ははっ、よく言うよ」と小馬鹿にするような明るい声が上がった。
「山南さんにわからされてるとも知らないで」
顔を向けると、くせのある髪に真紅の結い紐を絡め遊ばせている、洒落者の青年が立ち上がった。青年は、その年若さに似合わぬ「はー、どっこいしょ」なんて掛け声を上げながら、鉄紺の袴のしわを小気味良い音を立ててはたく。
「何が『仲が悪い』だか。信頼あってこそのモンだって、わからないのかな」
藤堂平助――斎藤や沖田と同い年であり、三人の中ではもっとも年相応な茶目っ気を持つ好青年だ。彼もまた、元試衛館の食客である。真偽のほどは定かではないが、津の国、藤堂和泉守の落胤(隠し子)という噂もある。その噂に違わぬ、月白の着物がよく似合う、垂れ気味の双眸に強い意志を宿した品のある面立ちをしている。
「ただの山南さんいじめなら、オレが黙ってないっての」
藤堂は「ね?」と無邪気に歯を見せて、上座に目を向けた。
黙っていない、というのは、藤堂が誰よりも山南を慕っているがゆえである。二人は試衛館に集う前から北辰一刀流という流派で学んでいた同門同士で、仲が良い。
既に山南は退室していたが、上座に残っていた土方が藤堂の視線を受け、苦い顔で「知るか」とそっぽを向いた。
藤堂はクスクス肩を揺らし、「素直じゃないんだからぁ」と頭の後ろで腕を組む。
「ま、わかってるのが試衛館組だけだからこそ、いわゆる暗黙の了解なんだろうけど? でも多少は手加減してよー、山南さん、割と繊細さんなんだからね」
藤堂は陽気に言葉を続けて、ひらひらと手を振りながら去っていった。
他の助勤達も既にいなくなっており、部屋に土方と斎藤だけが残される。
土方は、ばつ悪そうな視線を斎藤に投げ寄越した。
斎藤は軽く肩をすくめて、「まあ、毎度よくやるなとは思いますけど」と平坦な声を返すしかない。
――今の会議での、山南と土方のやり取り。別に毎回打ち合わせをしているわけではないらしいが、二人は何かあれば、いつもああして軽く言い争い、場を収拾させる。すなわち山南が『正論』を言い、土方が『組の道理』を返して貫き通すことで、他の者から上がるかもしれない『反論』をけん制するのである。
少々回りくどい気もするが、これは隊士を納得させ物事を円滑に進めるための、土方と山南の常套手段であった。
何も知らなければ、矢面に立たされる山南は確かに不憫にも見えるだろう。が、だからこそ、知る者から見れば互いの信頼がなければできないことだと敬意を表す。
「それにしても、よく古高に吐かせましたね」
斎藤は呟いて、静かに目を細めた。一日も持たさず吐かせるとは見事な手際だと、素直に感心した。
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