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一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
勘頼りの男
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廊下を伝ってたどり着いた中庭に下りたところで、ばしゃんと水音が聞こえた。
「……土方さん」
井戸端に先客の姿を視認した斎藤は、呼ぶと言うより確認を取るようにその名を呟いた。
顔を洗っていた土方は、耳聡く気付いたらしく、手を止めてこちらを振り返る。
「おう、斎藤か。早いな」
「土方さんこそ……」
紫紺の着流しを身につけている土方に対し、斎藤は寝間着のままだったので、少々居心地の悪さを覚えた。しかし土方は気にしたふうもなく手拭いで顔を拭き、口の端を上げて含みのある笑みを寄越す。
寝起きとは思えぬその表情に、ふと「早いも何も、昨晩眠っていないのではないだろうか」と推測が浮かんだ。
「……何かあったんですか」
斎藤は傍らに歩み寄り、井戸水を汲み上げながらさり気なく問うた。
土方は「まあな」と低く笑い、楽しげとも取れる弾んだ声で答える。
「昨日言ってたアテが、ドンピシャだったもんでよ」
顔に水をかけた斎藤は手を止めて、視線だけを土方に向けた。水の冷たさと相まって、思考がすっと冴える。
「思ってたよりも早く、監察方から報告が入ってな。長州の吉田稔麿と肥後の宮部鼎蔵、二人の尻尾を掴んだんだ」
土方はそう言って、斎藤に手拭いを差し出してくれた。
――宮部や吉田は、先年の政変以来、帝の命により入京を禁じられていた過激派攘夷志士の最たる者達だ。昨日の報告時にも話が出ていたが、密かに入京しているらしいとの噂は、どうやら本当だったらしい。これまでは噂ばかりが一人歩きして、なかなか実態を掴めなかったのだが……。
ようやく、か。
斎藤は顔を洗いきり、手拭いを受け取りながら「では」と言葉を返した。
「居場所も?」
「ああ。河原町四条に、枡屋ってぇ商家がある。そこに宮部達が入ってったのを直接見たそうだ。つい先刻だよ、待機させてた永倉や武田を御用改めに向かわせた」
武田とは、同じ副長助勤の武田観柳斎のことである。
土方は口の端をつり上げ、笑みを深くして続けた。
「噂ばっかで飽き飽きしてたところだしよ、ようやく本体がお出ましになってくれて嬉しいぜ」
「……近藤局長には?」
「報告済みだ、当たり前だろ。いつでも動けるよう待機してもらってる。道場にゃ一応、別の隊も待機させてるしな」
土方はあごをしゃくって、道場の方向を指し示した。
先刻から聞こえてくる喧騒は、それだったのか……。
斎藤は手拭いを井戸の囲いに引っかけて、もう一度水を汲んだ。それで喉を潤しながら、念のため自分も動けるようにしておいたほうがいいだろうかと思案する。
「……今また京に入ってきて、奴らは何を企んでいるんですかね」
「さあな、そりゃわからねえ。だが、何にしてもろくなことじゃねえだろうよ。帝からの禁を破ってまで来てやがるんだからな」
土方はクッと肩を揺らして、また楽しげに笑った。人の悪そうな笑みだと思うが、差し詰め何かあれば今こそ新選組の腕の見せどころ、とでも言ったところなのだろうか。
設立して一年余り経つが、新選組は未だ大した功労を立てたことがない。組の立場はあくまで『守護職お預かりの浪士組』のまま、幕府の覚えも悪く、都の人々からも「狼藉を働く浪士と何が違うのか」という目で見られている節がある。土方や近藤が、そんな現状に甘んじ続けるわけがなかった。
近藤や土方は元が百姓の出身で、昔から武士というものに憧れを抱いていたという。会津お預かりの今も武士と言えば武士の立場にはあるが……憧れが強かった分、指標も高いのだろう。何かが起これば、それは近藤や新選組の名を売る機会とも言えるわけで――。
そこまで考えた時、ふと見ると、昨日のあっけらかんとした様子とは打って変わり、土方の瞳にかすかな緊張が揺れているように感じられた。
軽く首をかしげれば、目が合って、逆に「どうかしたのか」と問いを返される。
「……土方さん、何か気負っておられますか?」
斎藤の疑問に、土方は目を丸くしてひとつ、二つと瞬きをした。
「……そう見えるか」
「何となく、ですが」
「ハハ、総司にしてもそうだが、お前らは歳の割に妙なところが聡くて困る」
土方はわずかに眉尻を下げつつも、どこか幼い表情で歯を見せて笑った。
「まあ、当たらずしも遠からずってヤツだな。入京してきた奴らが何を企んでやがるかは知らねぇが、ことによっちゃ帝や公方様にも害が及ぶ可能性だってある。さっき近藤さんにも散々言われてよ。だから色々と練ってんだ」
頭の準備運動ってヤツだな、と土方は腕を組んで空を仰ぐ。
――合点がいった。
新選組は佐幕思想の強い集団だ。けれど同時に、帝を敬う尊王派でもある。この双方に何かしらの危機が迫っているのだとすれば、特に一本気で忠義心の篤い近藤は、さもあろう、今頃気をもんで永倉達の帰還を待ち受けているに違いない。
そして土方は、そんな近藤を必死になって支えようとし、『組』と『局長』の武勲を盛り立てようと躍起になっているに違いない。監察方からの報告がいつだったかは知らないが、眠っていないらしいのも、恐らくこのためだろうと納得ができた。
慌しくなるかもしれないな――。
斎藤はまるで他人事のように考えて、小さく息を吐いた。
「何だ、溜息なんざ」
「ああ、いえ……」
耳聡く指摘され、面と向かって「他人事と構えていました」とは言えず口ごもる。
が、間を持たせるものおかしい気がして、いつもの無表情を取り繕ったまま、
「それにしても、よく見つけられましたね」
当たり障りのない言葉が出て、内心で胸を撫で下ろした。
「アテって、枡屋のことだったんですね。正直、それほど明確なアテとは思っていませんでした。土方さんは時々、勘で動かれますから」
斎藤はそ知らぬ顔で言葉を続けた。
しかし何かまずかったのか、土方は眉間のしわを深くした。頭をかいて「あー」と曖昧な相槌を打つ。
「……どうかしましたか?」
土方は「いや」とかぶりを振る。斎藤が無言で続きを促せば、間を置いて「まあ、実はな」と、ぼそぼそ口を開いた。
「悪いが、こっちも勘だった」
――言いづらそうだった割に、声音は妙にさっぱりしていた。
斎藤はどう返していいのかがわからず、無表情のまま沈黙してしまった。
「ああ、言っとくが、完全に無根拠だったわけじゃねえからな!」
心中を察したか、土方はすぐさま自ら言葉を付け足した。
「はあ」と短く返せば、「うわ、お前信じてねえな」と苦い顔で睨まれる。
「まあ、何と言いますか……」
「永倉達が帰ってくるまで、まだどうなるかわかったもんじゃねえが、それでも枡屋の野郎だって、ただの商人じゃねえことは確かだと思うぜ。こっちに店を構えてる割にゃ、京弁が全く馴染んじゃいねえし、前に接触を図ってみたら、手に剣術ダコなんかこしらえてやがってよ。ちょいと調べてみりゃ頻繁にどこかへ文を出しているようだったし、どうにもキナ臭かったんだよ」
ぽんぽんと『根拠』を並べ立てる土方に感心しつつも、斎藤は目を瞬かせて「なら」と疑問を重ねた。
「そもそも枡屋を調べてみようと思ったきっかけは、何だったんです」
「それは」
土方は一瞬ばかり言葉を詰まらせると、俯き加減に低い声でひと言、
「……勘だ」
ここまでくれば、斎藤はもう「そうですか」としか返しようがなかった。
――上に立つ者が常に『勘頼み』でいいのだろうかと思うのだが、結局はそれらも含めて「結果良ければ」というやつなのだろうか。まあ、これが上手く機能している間は、今のところまだ見逃しておいてもいいだろうか……。
「……わかりました」
斎藤はひとまず、聞き分け良く頷いた。
「とりあえず私も、待機しておきます」
「ああ。連日悪いが、何だったら準備も整えといてくれりゃ助かる」
言って、土方は立てた親指を背後に向けた。
その先にある道場からは、相変わらずエイヤアの掛け声や、木刀のぶつかり合う音が聞こえてくる。体を温めておけということだろう。
「……そうですね、わかりました。では」
ところがまさに、そんな時だった。
「副長! 土方副長!」
「……土方さん」
井戸端に先客の姿を視認した斎藤は、呼ぶと言うより確認を取るようにその名を呟いた。
顔を洗っていた土方は、耳聡く気付いたらしく、手を止めてこちらを振り返る。
「おう、斎藤か。早いな」
「土方さんこそ……」
紫紺の着流しを身につけている土方に対し、斎藤は寝間着のままだったので、少々居心地の悪さを覚えた。しかし土方は気にしたふうもなく手拭いで顔を拭き、口の端を上げて含みのある笑みを寄越す。
寝起きとは思えぬその表情に、ふと「早いも何も、昨晩眠っていないのではないだろうか」と推測が浮かんだ。
「……何かあったんですか」
斎藤は傍らに歩み寄り、井戸水を汲み上げながらさり気なく問うた。
土方は「まあな」と低く笑い、楽しげとも取れる弾んだ声で答える。
「昨日言ってたアテが、ドンピシャだったもんでよ」
顔に水をかけた斎藤は手を止めて、視線だけを土方に向けた。水の冷たさと相まって、思考がすっと冴える。
「思ってたよりも早く、監察方から報告が入ってな。長州の吉田稔麿と肥後の宮部鼎蔵、二人の尻尾を掴んだんだ」
土方はそう言って、斎藤に手拭いを差し出してくれた。
――宮部や吉田は、先年の政変以来、帝の命により入京を禁じられていた過激派攘夷志士の最たる者達だ。昨日の報告時にも話が出ていたが、密かに入京しているらしいとの噂は、どうやら本当だったらしい。これまでは噂ばかりが一人歩きして、なかなか実態を掴めなかったのだが……。
ようやく、か。
斎藤は顔を洗いきり、手拭いを受け取りながら「では」と言葉を返した。
「居場所も?」
「ああ。河原町四条に、枡屋ってぇ商家がある。そこに宮部達が入ってったのを直接見たそうだ。つい先刻だよ、待機させてた永倉や武田を御用改めに向かわせた」
武田とは、同じ副長助勤の武田観柳斎のことである。
土方は口の端をつり上げ、笑みを深くして続けた。
「噂ばっかで飽き飽きしてたところだしよ、ようやく本体がお出ましになってくれて嬉しいぜ」
「……近藤局長には?」
「報告済みだ、当たり前だろ。いつでも動けるよう待機してもらってる。道場にゃ一応、別の隊も待機させてるしな」
土方はあごをしゃくって、道場の方向を指し示した。
先刻から聞こえてくる喧騒は、それだったのか……。
斎藤は手拭いを井戸の囲いに引っかけて、もう一度水を汲んだ。それで喉を潤しながら、念のため自分も動けるようにしておいたほうがいいだろうかと思案する。
「……今また京に入ってきて、奴らは何を企んでいるんですかね」
「さあな、そりゃわからねえ。だが、何にしてもろくなことじゃねえだろうよ。帝からの禁を破ってまで来てやがるんだからな」
土方はクッと肩を揺らして、また楽しげに笑った。人の悪そうな笑みだと思うが、差し詰め何かあれば今こそ新選組の腕の見せどころ、とでも言ったところなのだろうか。
設立して一年余り経つが、新選組は未だ大した功労を立てたことがない。組の立場はあくまで『守護職お預かりの浪士組』のまま、幕府の覚えも悪く、都の人々からも「狼藉を働く浪士と何が違うのか」という目で見られている節がある。土方や近藤が、そんな現状に甘んじ続けるわけがなかった。
近藤や土方は元が百姓の出身で、昔から武士というものに憧れを抱いていたという。会津お預かりの今も武士と言えば武士の立場にはあるが……憧れが強かった分、指標も高いのだろう。何かが起これば、それは近藤や新選組の名を売る機会とも言えるわけで――。
そこまで考えた時、ふと見ると、昨日のあっけらかんとした様子とは打って変わり、土方の瞳にかすかな緊張が揺れているように感じられた。
軽く首をかしげれば、目が合って、逆に「どうかしたのか」と問いを返される。
「……土方さん、何か気負っておられますか?」
斎藤の疑問に、土方は目を丸くしてひとつ、二つと瞬きをした。
「……そう見えるか」
「何となく、ですが」
「ハハ、総司にしてもそうだが、お前らは歳の割に妙なところが聡くて困る」
土方はわずかに眉尻を下げつつも、どこか幼い表情で歯を見せて笑った。
「まあ、当たらずしも遠からずってヤツだな。入京してきた奴らが何を企んでやがるかは知らねぇが、ことによっちゃ帝や公方様にも害が及ぶ可能性だってある。さっき近藤さんにも散々言われてよ。だから色々と練ってんだ」
頭の準備運動ってヤツだな、と土方は腕を組んで空を仰ぐ。
――合点がいった。
新選組は佐幕思想の強い集団だ。けれど同時に、帝を敬う尊王派でもある。この双方に何かしらの危機が迫っているのだとすれば、特に一本気で忠義心の篤い近藤は、さもあろう、今頃気をもんで永倉達の帰還を待ち受けているに違いない。
そして土方は、そんな近藤を必死になって支えようとし、『組』と『局長』の武勲を盛り立てようと躍起になっているに違いない。監察方からの報告がいつだったかは知らないが、眠っていないらしいのも、恐らくこのためだろうと納得ができた。
慌しくなるかもしれないな――。
斎藤はまるで他人事のように考えて、小さく息を吐いた。
「何だ、溜息なんざ」
「ああ、いえ……」
耳聡く指摘され、面と向かって「他人事と構えていました」とは言えず口ごもる。
が、間を持たせるものおかしい気がして、いつもの無表情を取り繕ったまま、
「それにしても、よく見つけられましたね」
当たり障りのない言葉が出て、内心で胸を撫で下ろした。
「アテって、枡屋のことだったんですね。正直、それほど明確なアテとは思っていませんでした。土方さんは時々、勘で動かれますから」
斎藤はそ知らぬ顔で言葉を続けた。
しかし何かまずかったのか、土方は眉間のしわを深くした。頭をかいて「あー」と曖昧な相槌を打つ。
「……どうかしましたか?」
土方は「いや」とかぶりを振る。斎藤が無言で続きを促せば、間を置いて「まあ、実はな」と、ぼそぼそ口を開いた。
「悪いが、こっちも勘だった」
――言いづらそうだった割に、声音は妙にさっぱりしていた。
斎藤はどう返していいのかがわからず、無表情のまま沈黙してしまった。
「ああ、言っとくが、完全に無根拠だったわけじゃねえからな!」
心中を察したか、土方はすぐさま自ら言葉を付け足した。
「はあ」と短く返せば、「うわ、お前信じてねえな」と苦い顔で睨まれる。
「まあ、何と言いますか……」
「永倉達が帰ってくるまで、まだどうなるかわかったもんじゃねえが、それでも枡屋の野郎だって、ただの商人じゃねえことは確かだと思うぜ。こっちに店を構えてる割にゃ、京弁が全く馴染んじゃいねえし、前に接触を図ってみたら、手に剣術ダコなんかこしらえてやがってよ。ちょいと調べてみりゃ頻繁にどこかへ文を出しているようだったし、どうにもキナ臭かったんだよ」
ぽんぽんと『根拠』を並べ立てる土方に感心しつつも、斎藤は目を瞬かせて「なら」と疑問を重ねた。
「そもそも枡屋を調べてみようと思ったきっかけは、何だったんです」
「それは」
土方は一瞬ばかり言葉を詰まらせると、俯き加減に低い声でひと言、
「……勘だ」
ここまでくれば、斎藤はもう「そうですか」としか返しようがなかった。
――上に立つ者が常に『勘頼み』でいいのだろうかと思うのだが、結局はそれらも含めて「結果良ければ」というやつなのだろうか。まあ、これが上手く機能している間は、今のところまだ見逃しておいてもいいだろうか……。
「……わかりました」
斎藤はひとまず、聞き分け良く頷いた。
「とりあえず私も、待機しておきます」
「ああ。連日悪いが、何だったら準備も整えといてくれりゃ助かる」
言って、土方は立てた親指を背後に向けた。
その先にある道場からは、相変わらずエイヤアの掛け声や、木刀のぶつかり合う音が聞こえてくる。体を温めておけということだろう。
「……そうですね、わかりました。では」
ところがまさに、そんな時だった。
「副長! 土方副長!」
応援ありがとうございます!
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