猪口礼湯秘話

古地行生

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 ちょこれいとう、うめかったなあ……

 お糸は他の女たちよりも小半刻こはんときはやく寝床につき、真っ暗闇の中で猪口礼湯ちょこれいとうの味を思い出していた。

 あの薬湯やくとうを「盗っ人」の男が飲ませてくれてから半年経っている。思い出は日がたつごとに薄れるのが相場なのに、あの日のことはむしろ濃くなっていくようだった。


「どうだい嬢ちゃん、おいしいだろう」

 男にそう言われた彼女は言葉を返せなかった。猪口礼湯のあまりのうまさに彼女は一瞬、周りのことを全て忘れたのだ。なめらかな舌触りとのどごしの、あまいあまい、味わったことのない素敵な飲み物に、彼女のつらい日々はほんのいっときまとめて蹴散らされた。

 その日の夜、お糸は三人目、四人目と客をとることができた。ちょこれいとうの力だと、彼女はおもった。


 半年前のあの日を脳裏に浮かべて横になっているこの部屋は彼女ひとりきりで、納戸なんどのようにせまくるしい。だが、枕布団のほかは薬缶やかん湯呑ゆのみ行灯あんどんくらいしか物はない。

 夏がさっさと去ってしまって既にすずしい秋の今、薬缶の中はとっくにさめきっていた。行灯のほうは破れており、あかりをともそうにも中にろうそくも油もない、ただの置き物だ。

「お糸、調子はどうだい」

 入り口の板戸が少しひらき、廊下からかすかな光と共に遣り手の顔がのぞいた。お糸の寝床をこの部屋にうつす差配をしたのはこの女だった。

「へえ……」

 どう答えたものか、お糸にはわからなかった。

 ほかの女たちからは、あの子は頑張り過ぎたのだと言われていた。たしかにそれはあったろう。お糸はお客を四人とることができたあの日から、前にも増してすべてに力を入れて張り切って働いた。

 彼女がそうするほどにお客はとれるようになり、年季明けがもやのかかったうすぼんやりとしたまぼろしからはっきりとした道しるべに思えてきた。彼女はますます頑張った。

 そして倒れた。

 ある日の宵の口、高熱が出て廊下で崩れ落ちたお糸は、布団に運ばれたあとは三日三晩目を覚まさず熱にうなされた。いまではなんとか働ける程度には調子がもどったが、以前のようにしゃかりきに動こうとすると身体が田んぼの泥になるんじゃないかと感じるほど重くなり、わるくすれば気を失いそうになる。

 それでも働かねばならなかった。形ばかりの年季奉公だから、食事も着るものもすべて店に金をとられる。休めばそのぶん借金が上積みされていくのだ。だからお糸は、自分の身体をだましだまし客をとるしかなかった。

 遣り手とのあやふやなやり取りが終わってからすぐに、

「やあ嬢ちゃん」

 あけっぱなしにされていった板戸の隙間をするりと、風のような身のこなしで男が入ってきた。

「具合が悪いようだね」

 男は部屋の中が暗いのを気にせずに枕元にすわると、心配そうに彼女を見つめた。

 お糸の方は半年振りの突然の再会に驚いたが、男があまりにも普通にしているので、盗っ人ならいきなりくるのも暗がりになれているのも当たり前かと妙に納得して受け入れた。

「おじさん、ひさしぶり」

「ひさしぶりだね」

「でもおあいにくさまだよ。ここに持ってけるようなもんありゃしないよ」

 お糸は寝たまま男を見上げて笑顔で憎まれ口をたたいた。と、急にはげしいせき込みに襲われて身体を丸めた。

 男はなれた手つきで彼女の上半身を起こして後ろに回り込むと、背中をさすってやった。

「時々はね、こうしてせき込んでさ、苦しいけどね……平気だよ」

「そうかい、よかったよ」

 本当には思っていないことを言い合う。向きあっていたらたぶんお糸はたまらず泣いていただろう。彼女は話を変えようと思ってか、また憎まれ口を叩いた。

「盗っ人に心配されてもね」

「や、嬢ちゃんそりゃあ違うって」

「どう違うんだい」

「盗っ人はね、猪口礼湯なんて持ってないよ。こりゃあ手に入れるのが難しいんだから」

「それはどうだか。どこからか盗んだんじゃないの」

「なにを言いなさるか嬢ちゃんよ。あたしは猪口礼湯をくれた南蛮さんとは仲が良いんだよ。こないだ会った時にはまたすごいことを教えてもらったくらいさよ」

「へえ。どんな」

「あれは粉薬だからお湯に溶かさなきゃ飲むのに難儀するだろう。こぼれたりする心配もある。そこでね、丸薬にしようじゃないかと盛り上がってるんだとさ」

「ふうん」

「次くる時はお土産みやげに丸薬になったやつを持ってくるよ」

「それもいいけどね。だったらおじさん、お客さんとしてきてくれりゃいいのにさ」

「すまないねえ。おじさんも色々あるのさ」

「いいよ。でもきっとだよ。持ってきてね」

「おうともさ。今日はこないだと同じので我慢しておくれ」

「持ってきてくれたの」

 お糸は目を輝かせて振り返った。

「もちのろんだよ」

「あ、だけど湯がないよ。ぬるま湯もないんだ」

「なに大丈夫さ。あたしゃ手妻が得意だからね。まずは嬢ちゃんが飲みやすいよう部屋を明るくしないとね」

 男は破れ行灯に手をのばし、「さ、起きな」とささやいた。すると不思議なことに行灯にあかりがともった。

 あっけにとられたお糸に男はニッと歯を見せて、今度はさめきってしまった湯の成れの果てをそそいだ湯呑の口を手でおおって、

「寿限無寿限無五劫の擦り切れ海砂利水魚……あとは忘れたポンポコプイ」

 男が手をどけると、湯気がたちのぼった。お糸はびっくり、目が皿になってしまった。

「……すごいねえ」

「あれもこれも手妻のなせるわざさね。さて」

 男はいつの間にか手に持っていた薬包から茶色の粉末を湯呑へ入れた。

 ああ、ちょこれいとうだ。

「嬢ちゃんお飲み。これをくれた南蛮さんも心配していたよ。病が治っちまうまではいかないが、とっても楽になる」

 お糸は湯呑を両手で差し出してくれた男に礼を言おうとしたが、涙にはつきもののしゃっくりがとまらなくなってなかなか言えなかった。
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