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夕暮れの手前、お糸は二階の一室の掃除をしていた。客が帰ったので後始末である。
早く片づけてお客がとれるようにして次をとりたい。畳の上に転がった安物のかんざしを拾って無造作に髪に挿して布団をはたいていると、
「お糸、片付いたかね」
開けっ放しのふすまから年増女が顔をのぞかせた。女郎屋の遣り手である。
「すんまっせん、もすこし」
「そうかい、なにゆっくりでいいよ。今日はお客が少ないから他に空きもある。それなのにあんたはもう二人とったから大したもんだ。これからはその調子でやっておくれよ」
「へえ」
お糸が一日で二人も客をとるのは珍しいことだった。それも今日は昼から夕暮れまでのうちに早くもで、これは今まででいちばんはやい。ひょっとしたらここで働き出してからはじめて一日で三人の客をとれるかも知れない。
お糸は客をとりはじめてからまだ一年にもならない。生来引っ込み思案だから男をひくコツがわからない。器量は良いとまではいえぬし、下総の貧乏百姓の出だから品も知もない。
とはいえ色々ないのはここで働いている他の女も同じようなものだ。まずみんな金がない家に生まれたからこの岡場所に売られてきた。中には女衒にさらわれてきた娘もいる。やりとりの形は奉公働きとはいえ、売り買いの物として故郷から江戸に連れてこられたのである。
器量があればそれでまずよし、なければ愛嬌そのほかで客をたぐりよせるしかなかった。実際、お糸のひたむきさが良いと言ってくれる客もいた。
岡場所の遊女は一日に幾人も客をとらねばならぬ。そうしなければ生きて苦界を出るという消えかけのろうそく灯りのような頼りなくも一縷は残る望みが芯から絶たれてしまう。これが消えればあとはお先真っ暗、黄泉の道行き。
客を多くとればそれだけ早くここをでることができる。はじめは泣いて落ち込んでいた彼女も、年上の遊女からそうなぐさめられて日々を過ごすうちに徐々に考えを変えていた。
こうして掃除をしているときに窓の外を見やると、場所が門前町の片隅だけあって色んなものが目にとびこんでくる。寺社の境内から背を伸ばす大木は故郷の森を思い出させてくれ、眼下を楽しそうに歩く人々はここを出た自分を想像させてくれる。それらが彼女のいっときの心の安らぎであった。
と、気がゆるんだせいかめまいがした。
お糸は男と寝るのが主たる仕事だが、岡場所の店々も常にやっているわけではないので、しまっている時はあらゆる雑用をやらされている。ここに売られてからは身も心も常に忙しかった。近ごろは働き過ぎのせいかだるくて、今のようにめまいがすることがときどきある。
「ありゃあ、人がいたとは。御免よ」
男の声に振り返ると、さきほど遣り手が立っていたふすまのところに、地味な灰色の着流しと羽織を身につけた男が立っていた。髷はきちんと整えた小銀杏で、しっかりと髭を剃った顔が人のよさそうな笑みを浮かべている。
「びっくりしたよう。おじさんあんたお客さん……ではなさそだね。ひょっとして」
お糸がにじりよりながらたずねると、男は手を合わせて何度も頭を下げた。
「ああすまないよ、どうか静かにしておくれ」
「盗っ人さんだね。人のよさそな顔してわるいおじさんだ」
「やっ、やっ、盗っ人じゃあないよ。本当だ」
「じゃあお客さんなん」
「お客さん、じゃあないねえ」
男が真面目に答えるものだから、思わず吹き出してしまった。お客だと言っておけばいいのに。
「うそ下手だね。じゃ護摩の灰かなんかだろ」
「あたしゃそんなのじゃないって。ほら旅する格好には見えないだろう。どっちかってえとほらあれだ、八丁堀の旦那方に使われる、」
「岡っ引きかい」
「そうそれそれ、そっちの方が近いよ」
「近いってなんだい。それに岡っ引きなんて盗っ人とそんなにかわりゃしないよ」
「こいつはうまいこという嬢ちゃんだ」
「そんなほめられ方されてもね。なんにしたって人を呼ぶよ」
「おっとそいつは勘弁しておくんな」
「やましいところがある奴はそう言うんだよ」
「ないと言えばうそになるから困るねえ」
「そうだろ」
「うーん、困ったな。どうだい嬢ちゃん、ひとつ話に乗ってくれないかい」
「わたしを買ってくれるってんならいいよ。どうせならここから出しておくれよ」
冗談と本気を半々でもちかけた。
「ははは、そっちはあいにく今はちょっと無理でねえ。どうだい、あたしゃあ手妻が得意でね。それに色んなお国の話を知ってるんだ、そいつを見せて話してきかせるから、あたしのことは黙っといてくれねえかい」
手妻とは手品ともいい、なんにもないところから物を出したりまた消したりする芸事の一つである。
「手妻ねえ。お話ねえ。いよいよ怪しい人だねえ。でもねえおじさん、こんなとこきたんならわかるでしょうよ。お金にならねお話につきあってる暇ないんだよ」
と言っておきながら駄菓子菓子、お糸はすこし考えた。彼女はふるさとの村で女衒に買い叩かれ、親たちに金が渡る代わりとして江戸に連れてこられてこの店に入れられた。それからのちは、敷地の外に出たこともほとんどない。下総生れだが関八州はもちろんこの江戸のこともまだよく知らず、京大坂はたまに人から聞いてあこがれる夢物語。いつかは……
「おじさんは京の都も知ってるのかい」
「おうともさ。よく行ってるよ。もっと西国の話も、遠い遠い海の向こうの話もできるよ」
「そこまでいくと言いたい放題だよ。だって知ってる人なんていねよ。ただのほら吹きじゃないか」
「おっとっと、嬢ちゃんそいつは見ての聞いてのお試しだよ」
男は言うが早いかお糸の目の前でもみ手をし、
「さあ鬼が出るか蛇がでるか」
パッと両の手のひらを広げてみせた。どちらの掌にも白い薬包が乗っかっている。
「おじさんやるねえ。盗みをするにゃそれくらいできないと」
軽口は叩いたものの、手妻には感心した。
「こいつは南蛮の人からもらった粉薬でね、お湯に溶かして飲むとなんにでも効く上にとっても甘くて美味しんだよ」
ここまで奇天烈なことを言われるとなんだか可笑しくなって、話に乗ってみる気になった。
「毒じゃあないのかい。この薬缶にまだぬるま湯が残ってるからさ、まずおじさんが飲んでごらんよ」
「あいよ」
男は手近の湯呑にお湯をそそぎ、薬包のひとつを器用に片手だけでひらいてさらさらと流し込んだ。茶色い粉末だ。湯呑の中がすぐに染まって色づいた。
「なんだか泥のようだねえ。本当においしいのこれ」
「おいしいさあ。からだにもいいのさあ。あたしゃできればいつでもこれを飲みたいね」
「ふうん。これの名前はなんての」
「よくぞ聞いてくれました。こいつはね、滋養強壮、精力増進、万病に効く……」
「口上はいらね」
「おっとすまないねえ。こいつはね嬢ちゃん、猪口礼湯さ」
早く片づけてお客がとれるようにして次をとりたい。畳の上に転がった安物のかんざしを拾って無造作に髪に挿して布団をはたいていると、
「お糸、片付いたかね」
開けっ放しのふすまから年増女が顔をのぞかせた。女郎屋の遣り手である。
「すんまっせん、もすこし」
「そうかい、なにゆっくりでいいよ。今日はお客が少ないから他に空きもある。それなのにあんたはもう二人とったから大したもんだ。これからはその調子でやっておくれよ」
「へえ」
お糸が一日で二人も客をとるのは珍しいことだった。それも今日は昼から夕暮れまでのうちに早くもで、これは今まででいちばんはやい。ひょっとしたらここで働き出してからはじめて一日で三人の客をとれるかも知れない。
お糸は客をとりはじめてからまだ一年にもならない。生来引っ込み思案だから男をひくコツがわからない。器量は良いとまではいえぬし、下総の貧乏百姓の出だから品も知もない。
とはいえ色々ないのはここで働いている他の女も同じようなものだ。まずみんな金がない家に生まれたからこの岡場所に売られてきた。中には女衒にさらわれてきた娘もいる。やりとりの形は奉公働きとはいえ、売り買いの物として故郷から江戸に連れてこられたのである。
器量があればそれでまずよし、なければ愛嬌そのほかで客をたぐりよせるしかなかった。実際、お糸のひたむきさが良いと言ってくれる客もいた。
岡場所の遊女は一日に幾人も客をとらねばならぬ。そうしなければ生きて苦界を出るという消えかけのろうそく灯りのような頼りなくも一縷は残る望みが芯から絶たれてしまう。これが消えればあとはお先真っ暗、黄泉の道行き。
客を多くとればそれだけ早くここをでることができる。はじめは泣いて落ち込んでいた彼女も、年上の遊女からそうなぐさめられて日々を過ごすうちに徐々に考えを変えていた。
こうして掃除をしているときに窓の外を見やると、場所が門前町の片隅だけあって色んなものが目にとびこんでくる。寺社の境内から背を伸ばす大木は故郷の森を思い出させてくれ、眼下を楽しそうに歩く人々はここを出た自分を想像させてくれる。それらが彼女のいっときの心の安らぎであった。
と、気がゆるんだせいかめまいがした。
お糸は男と寝るのが主たる仕事だが、岡場所の店々も常にやっているわけではないので、しまっている時はあらゆる雑用をやらされている。ここに売られてからは身も心も常に忙しかった。近ごろは働き過ぎのせいかだるくて、今のようにめまいがすることがときどきある。
「ありゃあ、人がいたとは。御免よ」
男の声に振り返ると、さきほど遣り手が立っていたふすまのところに、地味な灰色の着流しと羽織を身につけた男が立っていた。髷はきちんと整えた小銀杏で、しっかりと髭を剃った顔が人のよさそうな笑みを浮かべている。
「びっくりしたよう。おじさんあんたお客さん……ではなさそだね。ひょっとして」
お糸がにじりよりながらたずねると、男は手を合わせて何度も頭を下げた。
「ああすまないよ、どうか静かにしておくれ」
「盗っ人さんだね。人のよさそな顔してわるいおじさんだ」
「やっ、やっ、盗っ人じゃあないよ。本当だ」
「じゃあお客さんなん」
「お客さん、じゃあないねえ」
男が真面目に答えるものだから、思わず吹き出してしまった。お客だと言っておけばいいのに。
「うそ下手だね。じゃ護摩の灰かなんかだろ」
「あたしゃそんなのじゃないって。ほら旅する格好には見えないだろう。どっちかってえとほらあれだ、八丁堀の旦那方に使われる、」
「岡っ引きかい」
「そうそれそれ、そっちの方が近いよ」
「近いってなんだい。それに岡っ引きなんて盗っ人とそんなにかわりゃしないよ」
「こいつはうまいこという嬢ちゃんだ」
「そんなほめられ方されてもね。なんにしたって人を呼ぶよ」
「おっとそいつは勘弁しておくんな」
「やましいところがある奴はそう言うんだよ」
「ないと言えばうそになるから困るねえ」
「そうだろ」
「うーん、困ったな。どうだい嬢ちゃん、ひとつ話に乗ってくれないかい」
「わたしを買ってくれるってんならいいよ。どうせならここから出しておくれよ」
冗談と本気を半々でもちかけた。
「ははは、そっちはあいにく今はちょっと無理でねえ。どうだい、あたしゃあ手妻が得意でね。それに色んなお国の話を知ってるんだ、そいつを見せて話してきかせるから、あたしのことは黙っといてくれねえかい」
手妻とは手品ともいい、なんにもないところから物を出したりまた消したりする芸事の一つである。
「手妻ねえ。お話ねえ。いよいよ怪しい人だねえ。でもねえおじさん、こんなとこきたんならわかるでしょうよ。お金にならねお話につきあってる暇ないんだよ」
と言っておきながら駄菓子菓子、お糸はすこし考えた。彼女はふるさとの村で女衒に買い叩かれ、親たちに金が渡る代わりとして江戸に連れてこられてこの店に入れられた。それからのちは、敷地の外に出たこともほとんどない。下総生れだが関八州はもちろんこの江戸のこともまだよく知らず、京大坂はたまに人から聞いてあこがれる夢物語。いつかは……
「おじさんは京の都も知ってるのかい」
「おうともさ。よく行ってるよ。もっと西国の話も、遠い遠い海の向こうの話もできるよ」
「そこまでいくと言いたい放題だよ。だって知ってる人なんていねよ。ただのほら吹きじゃないか」
「おっとっと、嬢ちゃんそいつは見ての聞いてのお試しだよ」
男は言うが早いかお糸の目の前でもみ手をし、
「さあ鬼が出るか蛇がでるか」
パッと両の手のひらを広げてみせた。どちらの掌にも白い薬包が乗っかっている。
「おじさんやるねえ。盗みをするにゃそれくらいできないと」
軽口は叩いたものの、手妻には感心した。
「こいつは南蛮の人からもらった粉薬でね、お湯に溶かして飲むとなんにでも効く上にとっても甘くて美味しんだよ」
ここまで奇天烈なことを言われるとなんだか可笑しくなって、話に乗ってみる気になった。
「毒じゃあないのかい。この薬缶にまだぬるま湯が残ってるからさ、まずおじさんが飲んでごらんよ」
「あいよ」
男は手近の湯呑にお湯をそそぎ、薬包のひとつを器用に片手だけでひらいてさらさらと流し込んだ。茶色い粉末だ。湯呑の中がすぐに染まって色づいた。
「なんだか泥のようだねえ。本当においしいのこれ」
「おいしいさあ。からだにもいいのさあ。あたしゃできればいつでもこれを飲みたいね」
「ふうん。これの名前はなんての」
「よくぞ聞いてくれました。こいつはね、滋養強壮、精力増進、万病に効く……」
「口上はいらね」
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