上 下
4 / 10
第1章 伯爵令嬢アイシア

しおりを挟む

「いひゃいっ!」

 私は涙目になったシルチェスターの頬から手を離しました。そして「ごめんね」と彼を抱きしめます。
(本当は心の片隅で、今日こそはデビュタントのドレスについて打ち合わせができるんじゃないかと思っていた……)

 八歳の従弟の指摘通り、私は本当は泣きたいのです。今にも泣きそうだったのです。こうして慰めるように細い体を抱いていれば、潤んだ瞳を見せずに済みます。

「ひとりぼっちのデビュタントで本当にいいの? 八歳の僕にも、十分すぎるほど婚約破棄の理由になると思えるんだけど。大舞踏会には他国の王侯貴族もいっぱい来るでしょ? いわゆる『新ヒーロー』みたいな人が、現れないとも限らないよ?」

 私はシルチェスターを抱きしめたまま「うーん」と唸りました。ついでに鼻もすすります。

「領民のことを思えば賭けには出られないわ。アクアノート公爵は、いずれ自分の孫が──私に子供がひとりしかできなければ、ひ孫の誰かが──フォレット伯爵領を継ぐという前提で、すでに支援をしてくださっている。技術協力、人材育成のための教育研修、安全啓蒙活動。この三年で、フォレット領の人々は搾取されるどころか、より豊かになったの」

「だから、あのクソ野郎の花嫁になるの? 一生愛されなくても? エイドリアナ王女殿下にくっついて、クソ野郎がクランデル王国に行っちゃったらどうするのさ。アクアノート公爵はまだまだ元気なんでしょ、爵位を継ぐまで帰ってこない可能性もあるよ?」

「建国祭と収穫感謝祭とアクアノート公爵のお誕生日には帰ってくると思うから、そこを狙えば子供は何とか……あるいは財力に物を言わせて、私が通い妻になって子種をゲットするという手も……」

「やめてよお、悲しくなっちゃうよお、アイシアには幸せになってほしいよお」

 びええええ、とシルチェスターが泣き始めました。私は慌てて体を離し、ドレスのポケットからハンカチを取り出して従弟の涙を拭います。

(ありがとうシルチェスター、私の代わりに泣いてくれて)

 泣くという行為は、悲しみを昇華させるためのものです。わあわあ泣くシルチェスターが私の悲しみまで吸い取ってくれたらしく、私は冷静になることができました。

(うん、初心に返るって大事ね。婚約して三年雑に扱われたけど、ひとりぼっちのデビュタントが決定したけど、ランダル様と結婚するのが一番いい。フォレット伯爵領のために『白い結婚』というわけにはいかないから、ナニしてアレする必要はあって……余計嫌われちゃうだろうけど。でも彼が、一生をエイドリアナ王女殿下捧げたとしても、絶対に文句を言わないから許してほしい)

 私は焦らずゆっくり時間をかけ、シルチェスターが落ちつくのを待ちました。その間も脳内で、どんどんランダル様の評価が上がっていきます。

「婚約者として正しく扱ってほしいなんて、欲張りになっていた自分が恥ずかしいわ。ランダル様は私を脅して大金庫を開けさせて、好きなだけ宝石を持っていくこともできたのに。『貸してくれ』って頭を下げるなんて、やっぱり彼って物凄く誠実……!」

「「アイシア様、誠実の定義が大幅にズレてますっ!」」

 つい脳内の言葉を口に出してしまった次の瞬間、使用人部屋の扉が勢いよく開きました。執事のニコラスと侍女頭のミリーが飛び込んできます。
 揃って最古参の使用人で、似た者夫婦でもある彼らの形相があまりにすさまじいので、シルチェスターが「ひええ」と悲鳴を上げました。ようやく引っ込みかけていた涙が、また溢れそうになっています。
 私は右手で「よしよし」とシルチェスターの背中を撫で、左手で「声を抑えてくれ」とニコラスとミリーに合図をしました。

「ランダル様は、エイドリアナ王女殿下に相応しいジュエリーセットを、ちゃんと選べた?」

 私は穏やかな声で尋ねます。
 ニコラスとミリーは顔を見合わせ、同時に深々とため息をつき、幾分か語気を弱めた声で答えました。

「随分と迷っていらっしゃるご様子でした。アドバイスを求められましたが、使用人の分際で出過ぎた真似はできませんので差し控えました。いやあ、老体に大金庫の寒さはこたえまして、何度かふらついてランダル様の足を踏んづけてしまいましたよ。さんざん悩んで、ルビーのジュエリーセット『マビ・チェリータ』をお持ち帰りになりました」

 五十三歳のニコラスが眉間に皺を寄せます。茶髪をオールバックにし、片眼鏡をつけた彼はキングオブ執事といった風情です。

「何の言い訳か知りませんけれど『これが一番小粒だから』とかなんとかおっしゃってましたわ。まあ侍女頭としては最後までおもてなししなければなりませんから、フォレット領特産の健康茶をお出ししました。ランダル様ったら真っ青な顔をして帰って行かれましたわ。ちょっと苦いだけなのに、騎士って軟弱ですのねえ」

 五十一歳のミリーは肩を怒らせました。赤毛をきっちりと髪を結い上げて、シミひとつないお仕着せを纏った彼女は、いかにも上級使用人らしい生真面目な風貌です。

「ニコラス、ミリー、君たちは最高だよ」

 シルチェスターが左手の袖口で涙を拭い、右手でグッドサインと呼ばれる拳を握った状態で親指を立てるジェスチャーをしました。

「なんてこと……」

 なぜか満足げに微笑み合う三人を見ながら、私はサーッと血の気が引くのを感じました。
しおりを挟む
感想 19

あなたにおすすめの小説

危害を加えられたので予定よりも早く婚約を白紙撤回できました

しゃーりん
恋愛
階段から突き落とされて、目が覚めるといろんな記憶を失っていたアンジェリーナ。 自分のことも誰のことも覚えていない。 王太子殿下の婚約者であったことも忘れ、結婚式は来年なのに殿下には恋人がいるという。 聞くところによると、婚約は白紙撤回が前提だった。 なぜアンジェリーナが危害を加えられたのかはわからないが、それにより予定よりも早く婚約を白紙撤回することになったというお話です。

今、目の前で娘が婚約破棄されていますが、夫が盛大にブチ切れているようです

シアノ
恋愛
「アンナレーナ・エリアルト公爵令嬢、僕は君との婚約を破棄する!」  卒業パーティーで王太子ソルタンからそう告げられたのは──わたくしの娘!?  娘のアンナレーナはとてもいい子で、婚約破棄されるような非などないはずだ。  しかし、ソルタンの意味ありげな視線が、何故かわたくしに向けられていて……。  婚約破棄されている令嬢のお母様視点。  サクッと読める短編です。細かいことは気にしない人向け。  過激なざまぁ描写はありません。因果応報レベルです。

この婚姻は誰のため?

ひろか
恋愛
「オレがなんのためにアンシェルと結婚したと思ってるんだ!」 その言葉で、この婚姻の意味を知った。 告げた愛も、全て、別の人のためだったことを。

王太子殿下に婚約者がいるのはご存知ですか?

通木遼平
恋愛
フォルトマジア王国の王立学院で卒業を祝う夜会に、マレクは卒業する姉のエスコートのため参加をしていた。そこに来賓であるはずの王太子が平民の卒業生をエスコートして現れた。 王太子には婚約者がいるにも関わらず、彼の在学時から二人の関係は噂されていた。 周囲のざわめきをよそに何事もなく夜会をはじめようとする王太子の前に数名の令嬢たちが進み出て――。 ※以前他のサイトで掲載していた作品です

妹が私こそ当主にふさわしいと言うので、婚約者を譲って、これからは自由に生きようと思います。

雲丹はち
恋愛
「ねえ、お父さま。お姉さまより私の方が伯爵家を継ぐのにふさわしいと思うの」 妹シエラが突然、食卓の席でそんなことを言い出した。 今まで家のため、亡くなった母のためと思い耐えてきたけれど、それももう限界だ。 私、クローディア・バローは自分のために新しい人生を切り拓こうと思います。

政略結婚で結ばれた夫がメイドばかり優先するので、全部捨てさせてもらいます。

hana
恋愛
政略結婚で結ばれた夫は、いつも私ではなくメイドの彼女を優先する。 明らかに関係を持っているのに「彼女とは何もない」と言い張る夫。 メイドの方は私に「彼と別れて」と言いにくる始末。 もうこんな日々にはうんざりです、全部捨てさせてもらいます。

どう見ても貴方はもう一人の幼馴染が好きなので別れてください

ルイス
恋愛
レレイとアルカは伯爵令嬢であり幼馴染だった。同じく伯爵令息のクローヴィスも幼馴染だ。 やがてレレイとクローヴィスが婚約し幸せを手に入れるはずだったが…… クローヴィスは理想の婚約者に憧れを抱いており、何かともう一人の幼馴染のアルカと、婚約者になったはずのレレイを比べるのだった。 さらにはアルカの方を優先していくなど、明らかにおかしな事態になっていく。 どう見てもクローヴィスはアルカの方が好きになっている……そう感じたレレイは、彼との婚約解消を申し出た。 婚約解消は無事に果たされ悲しみを持ちながらもレレイは前へ進んでいくことを決心した。 その後、国一番の美男子で性格、剣術も最高とされる公爵令息に求婚されることになり……彼女は別の幸せの一歩を刻んでいく。 しかし、クローヴィスが急にレレイを溺愛してくるのだった。アルカとの仲も上手く行かなかったようで、真実の愛とか言っているけれど……怪しさ満点だ。ひたすらに女々しいクローヴィス……レレイは冷たい視線を送るのだった。 「あなたとはもう終わったんですよ? いつまでも、キスが出来ると思っていませんか?」

【完結】婚約者なのに脇役の私

夢見 歩
恋愛
貴方が運命的な恋に落ちる横で 私は貴方に恋をしていました。 だから私は自分の想いに蓋をして 貴方の背中を少しだけ押します。

処理中です...