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第1章 伯爵令嬢アイシア

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 そこは使用人控え室で、壁にベルが取り付けられています。隣の応接室から紐を引っ張ると、待機している使用人が駆けつける仕組みなのです。
 しかしそこにいたのは使用人ではなく、壁に聴診器を当てた八歳の男児でした。貴族の男の子のドレスコードである半ズボン姿がたまらなく可愛い子です。

「やあアイシア。君の婚約者って、最低最悪のクソ野郎だね」

「シルチェスター……」

 王都のタウンハウスがお隣同士なおかげで好き勝手にわが家に出入りしている母方の従弟の名を口にした次の瞬間、私の目に浮かんだ涙はついにこぼれ落ちました。
 勢いがついて、鼻水まで出てしまいました。シルチェスターは聴診器を放り投げ、流れるような手つきでズボンのポケットからハンカチを取り出します。そして背伸びをして、私の涙と鼻水を拭ってくれました。八歳にして恐るべき紳士っぷりです。

「僕にしときなよ、アイシア。僕ってはキャントレ侯爵家の嫡男で天使のような美貌でしょ、将来有望だよ」

 たしかにシルチェスターは私と同じ黒髪黒目でありながら顔立ちは派手で、キラキラしたオーラさえ感じます。

「いとこ同士が結婚できる国とはいえ、九歳年下はさすがに無理。あとシルチェスターには幼馴染のジノービアちゃんがいるでしょ、また喧嘩したの?」

「公爵令嬢ってのはあれだよね、勝ち気でわがままだよねえ」

 シルチェスターが肩をすくめます。侯爵令息である彼もまた我儘なので、ジノービアちゃんとの喧嘩はしょっちゅうです。
 でもきっと彼らは五年後に婚約して、その数年後に結婚して素敵な夫婦になるでしょう。喧嘩すらできないほど関係性が希薄な私とランダル様より、よほど仲良しなのですから。

「お父様はどうして、アイシアとあんな男を婚約させたんだ? 他にもっとマシなやついただろ」

 私は「うーん」と困ったように笑って見せました。シルチェスターのおかげで気が紛れて、涙は引っ込んでしまったようです。
 私は床に落ちた聴診器を拾い上げて装着し、この部屋と応接室とを隔てる壁に当てました。

(静かね。ランダル様は大金庫に移動したみたい)

 私は堂々とため息をつきました。もう扇で隠す必要はありません。
 シルチェスターが私の袖をちょんと掴み、くいくいと引っ張りました。

「フォレット伯爵家の大金庫には、数えきれないほどのジュエリーセットが眠っているけどさあ。エイドリアナ王女殿下がつけちゃったら、もうそれをアイシアは使えないでしょ。女の鎧をひとつ失うわけでしょ。悔しくないの?」

 シルチェスターの言葉に、私は苦笑を浮かべます。

「悔しくないと言ったら噓になるわね……」

 私は聴診器を外し、シルチェスターの手に返しました。そしてランダル様への怒りで頬を膨らませている彼の手を引いて、使用人部屋のシンプルな長椅子に腰かけます。

「さっきの話だけど」

「ん?」

「叔父様が、どうして私の婚約者にランダル様を選んだのかって話」

 小首をかしげる従弟の頭を、私はぐりぐりと撫でました。それから彼のぷにぷにのほっぺを両手でいじくり回します。ああ、癒される。

「私が十四歳の時、私のお父様とお母様と弟のアマートがいっぺんに天に召されたでしょ。私たち家族はみんなのんびりしてたから、私にはまだ婚約者がいなかった。いきなり唯一の相続人になってしまった私は、国中の『ろくでなし』からロックオンされたの。だって私と結婚したら、フォレット伯爵領が丸ごと手に入るのよ?」

「フォレットは宝石がいっぱい採れるもんね。ルビーが特に有名で、世界各国の王侯貴族が身に着けているルビーは八割以上がフォレット産なんだよね。その他にもサファイヤ、ペリドット、アメシスト、ガーネットとか、フォレット産の宝石は質が高いことがよく知られてるって、僕のお父様が言ってた」

「そうなの、私ってば超お金持ちのご令嬢なの。年齢と家柄が釣り合う貴族令息で、まだ婚約者がいない人は何人かいて、即効すり寄って来たんだけれど。何というか、みんな酷かったの。揃いも揃って浪費家でね。十八歳のギャンブル狂、十九歳の娼館狂い、十六歳の買い物依存症。二十三歳で、壊滅的に投資の才能がない人もいたわね。あとは三十二歳の考古学者で、私のお金を遺跡発掘につぎ込みたい人とか」

「ダメ男の博覧会じゃん……」

「ランダル様が一番マシだと思うでしょ? 行動原理はすべてエイドリアナ王女殿下が基準だけど、『宝石を増産するために、もっと過酷な領民統制を行おう』みたいなことは言わないもの。私に興味がなくても、私の大事な領民を酷使しない人だったらオールオッケーって思ったの。叔父様は、私の意思を尊重してくださったわ」

「うんこ味のミターか、ミター味のうんこかどちらかを選べみたいな状況だったんだね……」

 シルチェスターがあからさまにショックを受けた顔でつぶやきます。ちなみにミターというのは、クロスランド王国伝統の煮込み料理です。

「そうなの。でもランダル様以外の人と婚約したら、うちの鉱山は収容所か流刑地みたいになっちゃってたかもしれない。だから私は正しい選択をしたと思う」

 私はシルチェスターの頬をもにもにと揉みながら言葉を続けます。

「彼はまだ爵位を継いでいないけれど、アクアノート公爵家は我が国で五本の指に入るお金持ちよ。ランダル様は私の財産がなくても幸せになれる人なの。私はアクアノート公爵が、私に温情をかけて息子との婚約を許したんだとすら思ってる。本当に私、危機的状況だったの。ランダル様と婚約しなかったら、ろくでなしの誰かから既成事実を作られていたはずよ」

 シルチェスターが「うへえ」と眉間に皺を寄せます。

「まあたしかに、アイシアが女相続人じゃなかったら、伯爵令嬢の分際で公爵令息と結婚とはならないかあ。王女が降下したっておかしくない家柄なわけだし」

「実際、前国王陛下と前王妃陛下がご存命の頃は、そういう話もあったって聞くわ。お二人が外遊先で事故に巻き込まれて、エイドリアナ王女殿下を残してお亡くなりになって。前国王陛下の腹違いの弟である現国王陛下が玉座について、アクアノート公爵が宰相になったことで、立ち消えになったらしいわ。あくまで噂だけど」

「……もしかしてアイシアって、エイドリアナ王女殿下側からしたら悪役令嬢ポジション?」

 シルチェスターは「ガーン」と擬音のついたような表情になりました。私は「ふふ」と微笑みます。

「巷ではそういう小説が流行しているそうね。私とランダル様をモデルにした小説もあるかもしれないわ。ひとりぼっちのデビュタント用のドレスも買いに行かなくちゃだし、本屋さんをのぞいてみましょうか」

「アイシアの身分なら、贔屓の仕立屋を呼んで作らせるべきだよ」

「デビュタントのドレスって、普通なら婚約者と打ち合わせしながら作るものでしょ。相手の髪色や瞳の色と調和させたり、何らかのテーマを決めてお揃いコーデにしたり。そういうのがひとつもないんじゃ、仕立屋さんが困惑しちゃうじゃない。それに私、お店の既製品って着たことがないから、返って新鮮でいいと思う。お金に物を言わせて『端から端まで全部ください』っていうの、いっぺんやってみたかったんだよね」

「アイシアはすぐそうやって笑い話に持っていこうとする。本当は泣きたいくせに!」

「そんなことないわよ」

 突っかかってくるシルチェスターの頬を、私はびよーんと引っ張りました。
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