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第一章 追憶

逆行

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「リリアーヌお嬢様、本当に大丈夫ですか?」
「ええ。今日は調子がいいから。協力してくれてありがとう」
「いいえ……。私はこれくらいしかできませんから。本当に一人で行かれるのですか?」
「ええ。だってクラウスに会いに行くだけだもの」
「でも……」
「大丈夫。このことについて誰かに咎められたら私の命令に従ったのだと言うのよ」
 
 私は心配顔をした侍女のシエンナに見送られながら、ジェセニア伯爵家の紋章がついた馬車から外へ出た。
 
 これから婚約者であるクラウス・ベリサリオ公爵令息にこっそり会いにいくところだ。必要以上に私のことを心配する過保護な両親や弟にはもちろん黙って出てきた。
 万が一の時のために手紙は残してきたものの、私に協力してくれたシエンナにはお咎めがないといいけれど……
 
 朝までは調子が良かったのに、また段々と苦しくなってきた。吸っても吸っても空気が抜けていくみたい。息が苦しい。心臓が痛い。

 でも、行かないと。
 いつまたこんなチャンスが巡ってくるか分からないから。

 私はこれまでを振り返りながら必死で馬車停めから学園の校舎までの道を歩いた。

――私が病に臥せったのがいけなかったのかしら……

 私が体調を崩した当初は、クラウスはとても親身になって私のことを支えてくれた。
 だが、その幸せは長くは続かない。
 ベッドに横になっている時間が増えて、口にできるものも限られてきた頃、だんだんと減っていた彼の訪問は、ついにパタリと途切れた。
 
 クラウスは公爵家嫡子。
 後継を得るためには、妻は健康であることが大前提であることは否定しようがない。

 それでも、クラウスを心から愛していた私はどうしても彼を諦めることができず、『治るのを待つ』と言ってくれた彼の優しい言葉を素直に信じ、甘えてしまった。

――でも、原因は一向に判明せず。治療法もわからないから、病はそれからも悪くなるばかりだったわね。

 病状が好転するばかりか、悪くなるばかりの婚約者なんて、この貴族社会では見限られて当然だ。
 婚約解消を見据えて、既に次の婚約者候補の選定が終わっていても不思議ではない。
 そう頭ではわかっていても、違っていてほしいと願う気持ちは今日まで一瞬たりともなくならなかった。

✳︎✳︎✳︎

 何かに導かれるように足が動いた。

 どこに向かっているのかわからないけれど。
 私の足は意思を持っているかのように、うまく動かなくなってしまった私の身体をそこへと運んだ。


「……」
「……」


 もう通えなくなってどれくらいたっただろう。懐かしくて……今は思い出すとつらくて苦しくなる、ミディール学園の中庭の奥の方。
 植え込みの茂みで廊下からは見えづらくなっている一角。

 彼とよく二人きりで過ごしたあの場所。
 そこへ辿り着くと、誰かの話し声が聞こえた。


「いっそ死んでくれればいいのに」

 
 その言葉を発したのは、私の愛する婚約者。
 ずっと彼に恋焦がれていた私が、その声を聞き間違えるはずもない。

 その言葉が耳に届いた瞬間、自分の心臓が鋭い痛みで軋み、まるで自分のものでないみたいに遠くで脈動しているように感じた。
 それでも、血が沸騰しながら全身を駆け巡っているような感覚も、どこから噴き出してきたのかわからない大量の汗も、開けた視界の先に見えた彼の整った横顔も――。
 私が今ここにいて、その言葉が彼の口から発せられたものだということを証明していた。


「すぐにでも君と婚約したい」


 私は未だ信じられない思いで、半ば呆然としていた。そんな状態でも、『君と婚約したい』と懇願するように言った彼の手の上に、爪の先まで手入れが行き届いた、白く美しく健康的な手が重ねられるのをしっかりと見届けていた。

「そこまで私のことを思ってくださっているなんて、嬉しいですわ。きっと、運命の神様は私たちの味方をしてくださるはず……」

 相手の女性の声も、知っている気がする……。
 あぁ、でも、もう……。
 記憶を辿れるほど頭は働いてくれないようだ。
 視界も不明瞭になってきて、相手の女性の顔まで確認できなくなってしまった。

 
「ああ。きっと僕は君と結ばれる運命だったんだ」

 
 なんて弾んだ声なの。ひどい男。
 そんな言葉を嬉しそうに言える人だったのね。
 私、あなたのことを誤解していたかも。
 ふらふらする身体を支えきれず、その場に膝をついたままの私は、なんて惨めなのだろうと自嘲した。

 彼とは政略的な婚約だったけれど、彼は私に対して誠実だった。信じていたのに。
 彼のことがわからなくなってしまった。
 いや、きっと私が本来の彼のことを理解できていなかったのだ。

――結局、彼がいつか私だけを見てくれると信じていたかっただけなのだわ。

 現実を直視しなければならない。
 私の隣で幸せそうに微笑んでくれた、彼のあの笑顔は偽りだったのだ。
 
 受け入れなければならない。
 彼はやはり私ではなく、別の人を選んでしまったのだと。


――一体、いつから?


 そんな考えても仕方のない思考ばかりが頭を埋め尽くす。

――死ぬのを待つなんて、卑怯だわ。

 彼らにとっては近い将来確実にいなくなる私の存在はいいスパイスにでもなったのかもしれない。

――私、本当に男性を見る目がないのね。恋は盲目とはよく言ったものだわ。こんな人のことを完璧だと妄信していたなんて。

 でも、気づくのが遅すぎた。
 さっきから息が苦しくて……
 もう、身体に力も入らない……

 私もあんなふうに愛されたかった。
 悔しくて仕方がない。

――あなたの最後の言葉、確かに受け取ったわ。本当にひどくて、深く傷ついたけれど。まあ、私はすぐにいなくなってあげるから、想い合う彼女と幸せになったらいいのよ。

 私はあなたのことが好きで好きで仕方なくて、婚約解消になかなか踏み切れなかった。死ぬ瞬間まであなたの婚約者でいたかった。
 最期にひどく傷つけられたけど、それはまあ、あなたの本性に気づかなかった愚かな私が我儘を貫き通したせいだし。今の言葉も盗み聞きしたせいで聞いてしまったのだものね。全面的に私が悪かったことにしておくわ。立つ鳥跡を濁さずっていうしね。

 今までたくさんの幸せをありがとう。

――とても、とても愛していたわ。来世では、お互い婚約する人を間違えないようにしましょうね。さようなら。
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