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第二章 美容部員と天才化学者

エリーと自由

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「天使だ」
 
 天使とはアイリーンのような女性のことを表す言葉なのだと強く思った。

✳︎✳︎✳︎
 
 僕はこれまで生きてきた十七年間、このアイレヴ王国の第二王子として物心がついてからはずっと自分を抑え込んで生きてきた。なぜなら、そうしないと望まぬ争いが起きてしまうからだ。
 昔から兄のフレデリックは穏やかで他人を思いやる心を持ち、謙虚で勤勉な性格だったので勉学にも優れ、王太子として申し分ない実力を兼ね備えていた。だから「次期国王として擁立すべきは兄上で、僕はその治世を支える役割を果たすのだ」と信じて疑っていなかった。
 しかし、少しでも兄より優れているところを見つけると、周囲はすぐに「エミリオ様のほうが次期国王にふさわしいのではないか」と言う論争を巻き起こした。僕自身にその気はないのに、僕の意志を聞いてくれるのは家族だけだった。特に、兄は長子としての責任感から王位を継ぐべきだと考えていたようで、「王など、私がなってもエミリオがなっても大差ない。エミリオがやる気になったらいつでも譲るよ」と言って爽やかに微笑んでいた。あの人はそういうことを平気で言うから怖い。
 僕はそんな状況が心底ストレスだったので、兄と自らの立場を守るため、自分の優れた能力は外部に漏れないよう徹底するようになった。
 
 そんなふうに毎日窮屈な毎日を送る中、やっと見つけた僕の情熱を傾けられる対象が「化学」だった。
 
 全ての物質は様々な要素で構成された集合体であること、それを化学式として可視化できることにまず興味を持った。そして、その要素を分析し、物質の性質を考え、他の物質と掛け合わせたときにどんな反応が起こるか想像することがおもしろくなった。さらには自分で反応を予想して要素同士を組み合わせ、期待通りの効果を持つ新たな物質を生み出すことも可能で、実際それをして期待通りの成果が得られたときは、自分が魔法使いにでもなったような気がしてワクワクした。
 僕は日々化学の魅力にどっぷりとハマっていき、気づけば抜け出せなくなっていた。この世界にいつまでも浸っていたいと本気で思っていた。
 
 だから、アイリーンの話を聞いたときは胸が震えた。今まで興味のかけらも持つことのなかった化粧は僕の大好きな「化学」であったのだと――。アイリーンの望む効果を持つ化粧品を、僕の手で生み出したいと思った。アイリーンのアイディアは誰にも渡さない。全部僕のものだ。
 アイリーンは僕のために遣わされた天使に違いないと、すぐにそう思ったのだ。

✳︎✳︎✳︎

 「私はその天使に女神だと崇められたわ」

 ふふん、と偉そうに踏ん反り返っているのは僕の幼馴染みの一人であり、友人のイザベラ・キャンベル公爵令嬢。
 確かに、イザベラが話を持ちかけてくれなかったら、僕は化粧品になど未だに見向きもしていなかったに違いない。

「それに、私が天使アイリーンを紹介したのよ。感謝してくれる? 殿!」
「感謝してるさ。彼女のおかげで兄上は健康な身体を取り戻せたんだし」

 イザベラに紹介してもらい、アイリーンと会えることになったのは三ヵ月前。そこで僕はエリーとして彼女に出会い、化粧をしてもらった。正直、化粧で僕の顔がそんなに変わるわけがないと思いながらも興味本位で頼んだことだったが、予想以上の技術に驚いた。
 いつも見ているはずの僕の顔が、施術後は明らかに印象が常と異なっていたのだ。手際もよく、貴族の令嬢に仕える侍女のそれと遜色ないように見えた。
 軽く調べたところ、アイリーンはグレン伯爵邸の庭にある古い倉庫を自室として与えられており、知識や教養の習得も満足にできていない様子だった。そのような状況なのだから、当然侍女として他家に仕えている事実などなかったのだが――。

「フレデリック様、本当によかったわね! お父様から聞いてはいたけど、本当に白粉おしろいが原因の体調不良だったのねぇ……」
「ああ……。僕も半信半疑だったからな。ソフィア様が言い出してくれなかったら未だ判明していなかったかもしれない。僕も不確かなことを試せなんて兄上に言えなかったし」
「うんうん。さすがアイリーン様のお姉様よね」

 白粉おしろいが健康に被害を及ぼす有害物質を含むという仮説は、未だ僕のほうでも検証途中であり、証明されていない。
 けれど、実際に白粉おしろいの使用を最小限にしたことで苛烈な性格が穏やかに落ち着くという体験をしたソフィア様が、兄上が顔色を隠すために白粉おしろいを使っていることを知り、やめてみるよう進言してくれたのだ。
 
 愛しの婚約者ソフィアに「あなたが心配なの」と涙目で懇願されて断りきれなかった兄上は、使用をやめて一ヵ月もたつ頃には健康を取り戻していたのだ。
 
「まさか顔色の悪さを隠すために塗った白粉おしろいが原因で、身体を壊していたなんてねぇ……。今まで原因がわからなくて当然ね。誰も可能性を考えもしなかった、いわゆる盲点だもの」
「だな。まだ正確にはそうと決まったわけではないが、いずれにせよアイリーンが存在してくれたおかげということに変わりない。僕はこれから晴れて自由の身だ……! アイリーンが与えてくれた自由だから、まずは恩返ししないとだな」

 僕はほくほく顔で宣言した。
 兄は昔は丈夫で健康だったのに、一度体調を崩したあとになぜか完全に回復せず、そのまま身体が弱くなってしまったのだ。医者からも「原因不明」と診断を受け、兄は病弱のレッテルを貼られることとなった。
 身体が弱い王太子は、いつの時代も次期国王として疑問視されるのが定石だ。僕は国王になるつもりなど毛頭なかったし、次期国王には兄以上の適任者はいないと思っていたので、僕が相応しいと言われても一蹴されるように、何事にも怠惰でやる気のない王子を演じるようになった。
 だが、兄の体調は一向に回復の兆しを見せず、僕にお鉢を回そうとやっきになる勢力も出てきた。そういう輩は大体自分の主張が正しいと信じきっている。当然のように、当事者であるはずの僕の話も全く聞いてもらえなかった。
 だから、僕は投資を始めた。王位継承権を完全に放棄するために、個人的な資産を貯めて王室を出る予定だった。だが、兄は健康を取り戻し、相思相愛の伴侶も得た。後継者問題はこれにて万事解決。僕、自由!

「よかったわねぇ……。私のおかげでもあるわねぇ……」
「…………」

 わかってるよ。イザベラにはアイリーンと出会わせてくれた特大の恩がある。言うことなんでも聞いてやる。ただし、僕がアイリーンを手に入れることができたらね。楽しみに待っておいてほしい。

――それにしても、僕、いつまで女装してないといけないんだろう?

 僕は中性的な顔をしているらしく、女装したら本物の女性に見えるそうだ。いつも城を抜け出す時には、バレないように女装をしているのが裏目に出てしまった。アイリーンは完全に僕のことを女性だと思って信頼しきっているし、アイリーンが考えた化粧品を作っているのが僕だということもまだ話せていない。真実を明らかにするタイミングは慎重に考えないとならない。

――まあ、まだいいか。

 アイリーンと築いた関係が今壊れてしまうのは非常に困る。「エリー」の正体を告げるその時が来たら、彼女は一体どんな顔をするだろう――。
 いつも無邪気な笑顔を浮かべているアイリーンが、驚愕に染まった表情でエミリオぼくを見る日がくることを心待ちにしながら、僕は今日もまた彼女のいる場所へと足を向けるのであった。
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