異界娘に恋をしたら運命が変わった男の話 外伝

春紫苑

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歯車 1

残された世界の 1

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「あの、大丈夫ですか?」

 通勤電車の中、うつむく女性にそう声をかけたのは、頭の片隅で警鐘が鳴ったからだ。

「貧血ですか? 顔色が良くない。一旦下りた方が良いと思う。
 手を貸しますから、こちらへどうぞ」

 そう言うと、ギチギチの満員電車にほんの少しのゆとりができた。
 その女性の周囲にいた男性らに視線を走らせると、俺と目を合わせないように意識しているのか、全くこちらを見ようともしない。
 ふらりと体を揺らした黒髪の女性は、蒼白な顔のまま、涙目で俺を見る。

 大丈夫。分かってる……。
 だけど、騒ぎにしたくないと思っているかもしれないから、まずは確認。

「それとも急ぎですか? 最寄りの駅までご案内しましょうか?」

 極力怖がらせないようにと、そう声を掛けると、女性はふるりと弱々しく首を振った。
 気の小さそうな、下がり眉。細い首、握り締められて、小刻みに震える手。
 社会人……就活生? スーツが見事なまでに似合ってない……。
 それでなのか、だからなのか……。理由なんて分からなかったが。

 抵抗しいひんなら承諾したも同然とか、そないなわけあるか!

「そうですか。じゃあここどうぞ」

 強引に確保した扉横の角の空間に、女性の腕を握り、引っ張り込んだ。
 少し足元をもつれさせた女性を支え、直ぐに手を離して両腕は壁と、手摺りに回す。
 全身を使って空間を確保して、人混みを背中に背負った。

「駅まで、楽にしててください」

 俺を見上げる、不安そうな表情。
 俺すら不審に思っているのは分かっていたけれど、それは当然だろうと思うから、他意はないと示すために両腕を上げたのだ。
 この人混みで、男に囲まれて、知りもしない、誰かも分からない相手に体を弄られてたんじゃ、そうなるよな。

「立っておくのが辛かったら、しゃがんで」

 そう言い懐中から取り出したハンカチを渡すと、女性は涙目を伏せ、口元を隠してこくこくと頷いた。
 とりあえず、俺を信用するつもりにはなってくれたようで、快速電車の停まる二つ先の駅まで、その態勢を維持して女性を守るに徹する。
 べつに……慈善活動じゃない。これは、俺にとっての日課だった。

 ◆◇◆

 駅で共に下車して、ホームの壁沿いのベンチに女性を誘導してひと心地。
 それから二つ三つ、通過していく電車を見送っている。
 女性の手は、俺のジャケットの裾を握って離さない……。
 本当は誘導だけして直ぐに退くつもりだったのだが、女性の手が離れなかったので、仕方なしに隣に座って、待っていた。
 まぁ、俺も別に急いでたわけじゃない。
 今日は幼い頃行方不明になったままの幼馴染の、形だけ行われた葬儀に参列した帰りだった……。
 本当は家族だけで行うはずだったろうそれに俺が呼ばれたのは、その当時俺が、そいつと付き合っていたからだろう。
 もう遠方に移り住んで久しかったのに、わざわざ連絡をくれた。その変わらぬ声に、後ろめたさから、参加すると伝えて有給を取った。
 今日も緊張したけれど、にこやかに迎えてくれ、どこか穏やかな仮葬儀を見守った……。
 遺体も何も無い、ただ形式だけの、存在がもうこの世に無いことを認めるだけのそれを。

 その帰りに偶然、彼女が痴漢に遭っているのに気づいてしまった。
 だからこの人を、放置できなかった。

 分かるんだ。あいつもそうだったから……。
 俺よりよほど身を鍛えて強かったくせに、こういったことには抵抗できなかった。
 恐怖が記憶と体と思考を縛り、身動き取れなくなってしまうのだって……あの時、理解できていればと……。

 あの当時はイライラして、ガキだったなと思う。
 そうなって然るべき経験をして、本当は男全般怖かったのに、それでも俺の恋人になってくれた。
 手すら握れなかったけれど。
 それでも一生懸命、応えようと、してくれてたのにな……。

 なんとなしに当時を振り返っていたら。

「あの……ありがとうございました」
「いえ。たいしたことはしてないので」

 やっと口を開いた女性に、そう言う。
 本当は犯人を見つけて引きずり下ろせば良かったのだろうけれど、いまいちどれが犯人か分からなかったし、現行犯じゃねぇとな……。

「……あの、申し訳ありませんでした!……あ、貴方の予定を私……」
「ん?」

 急に慌てたように口調を乱した女性。
 視線の先を追い、俺が黒いスーツに黒ネクタイだってことに、慌てたのだと理解した。

「あぁ、大丈夫、帰りなん……で」

 そう言い隣を見て。

 心臓が止まった。
 今まで意識してなかったその女性が、あまりに…………。

 に、似て……?

 いや、錯覚だ。髪型と上目がちな視線が重なったのは単なる偶然、日本人なんて誰も似たようなもんだ。
 ほら、よく見ろ。あいつは目元に黒子なんてなかったし、背だってもう少し高かったし、こんなに華奢じゃなく、そもそも鍛えすぎて筋骨隆々つか、あまりに背筋がしゃんと伸びてて、まるで、俺なんか必要ないみたいに、ひとりで立てると言ってるように、見えて……。
 頭が良くて、武術にもけてて、家事も何もかもそつなくこなして、凛としていて……。
 そのくせ、弱くて脆くて…………傷つきやすい。

 今なら分かる。
 あれは全部、あいつの虚勢だった。
 幼い時の恐怖を克服するため、俺を怖がらないようになるために、必死で何もかもを掴みにいっていただけだ。
 俺が引っ張り込んだ、興味も無かった道場なのに、真面目に通って、怠けもしないで、強くなれば怖くなくなると信じて、ガキだった俺の安直な言葉に縋ってただけ。
 なのに俺は、いっつも俺の挙動に気を張って、神経を使って……顔色を読もうとする様子にイラついてた。
 触れれば飛び上がって身を固める。恋人という言葉におかしなほど神経質になる。そのことにイラついて、余計あいつを追い詰めてた。
 俺のためにそうしてる。分かってたのに。
 日々勝てなくなっていくことに焦って、その結果怪我をして、もう守れないと勝手に決めて、荒れて。
 気持ちと衝動を押し付けて、怖がらせて。
 道場以外で顔を合わさなくなって、学校でも無視するようになって、結果……。

 姿を消したあいつがどこに行ったのか、全く見当がつかないくらい、あいつを見失っていた……。

 それくらい、あいつを突き放していたことに、愕然とするしかできなくて。
 何日も後に、鞄だけが雑木林の中の、泉の側に落ちていたのが、交番に届けられて発覚した。
 一応水底も漁ったけれど、何もあがらず……。
 そのままもう、十年…………。

「一応ねぇ、もう区切らなあかん思うてね。多分……その方があの子の気ぃも楽になるやろかって。
 せやから要、あんたも区切り。
 そもそもがあんたのせいでもなんでもない。原因も何も、分からへんのやしな」

 そう言った婆さんの言葉に、なんで俺はホッとしたんだ……。
 支え合って俯くあいつの両親に、なんで後ろめたい気持ちになった。
 なんで諦められないって、言わなかった。
 あいつが死んだって、思えるはずない。あんな風に会えなくなって、思って良いはずない。
 ないはずなのに……。

「あっ、あのっ⁉︎」
「……気にしないで。
 ちょっと……なんか面影が、似てる気がしただけなんで」

 目の前の女性は、違う。
 そもそも年齢が違う。
 あいつは俺と同じ、生きてればもう二十七。今日……二十七に、なっていたはず……。

 そう思ったら、もう。
 俯いて目元を手で隠した。
 見ず知らずの女性の前で何やってんだ俺。そう思うと、笑うしかなかった。

 想像してなかったんだ。
 急に失うなんて。
 毎日顔を見るのが当然で、日々が続くのが当然で、イラつきながらでも、お前と接することができる男は俺だけだってことにあぐらをかいて。
 事件性はない。争ったような形跡も何もないからと、そう言われた時はホッとした。もしあいつがまた酷い目にあったのだと思うと、耐えられなかった。
 だけど次に、血の気が引いた。俺が原因じゃないかと思ったからだ。
 あいつを追い詰めたのは、俺だろうと、確信を持っていたから。

 優しくできないなら、離してやれば良かった。
 なのに、それすらできなくて。
 あいつが行方をくらませたのは、俺が……っ。

「あの、これ……これどうぞ!」

 急に視界に、水色の四角が突き出された。
 涙でぼやけた視界でも、それはまぁ可愛らしい、クマの散りばめられたハンカチだと分かる。
 あいつなら絶対持たない。
 可愛いものは好きなくせに、似合わないと恥ずかしがる。
 そして選ぶものは、もっぱら使えて、シンプルで、だけどきちんと良いもの……長く大切にできるもの。
 本当は好きな可愛いもの…………俺が、買ってやれば良かったのに。
 そんな店に入るのはプライドが許さなくて、見て見ぬふりをするだけだった。

「すんません。なんか変なことになって……」
「いえ、私が貸してもらいましたから、ないですよね、ごめんなさい……」

 ……ハンカチの謝罪だと思われたようだ。

「あっ、あの……わたしっ、気が小さくて……いつも言えないんです。
 車両変えたり、時間を変えたり、色々しても結局、またいつの間にか……。
 私が悪いんだって、分かってるんですけど……オドオドするから、あんな…………。
 だっ、だから、助けていただけて、あの……ごめんなさい、手を煩わせてしまって。申し訳……」
「謝ることじゃない。
 貴女が悪いんでもない。
 言えないのも、当然と思う。……ああいうのは、男でも言い返せないもんですよ」

 警察官このしごとに就いて、そういうものには男でも合うのだと知っている。
 そしてやはり、口を閉ざしてやり過ごそうとするのだと、理解している。
 人は、己を他人に土足で踏み躙られれば、恐怖に身がすくむようにできている。
 そして悪いのは、それにつけ込むやつだよ。される側じゃない。

「………………え。貴方も痴漢に⁉︎」

 吹いた。
 ゲホゲホと咳き込んで呼吸を乱した俺の背中を、女性が慌ててさすってくれる。

「いやいや、一般論っつか、取り締まる側の仕事なんで、前例知ってるっていう……」
「そっ、そうですよねっ。
 すごく立派な……筋肉、してらっしゃいますし……」

 背中を撫でてくれたのは有難いが、そこから導き出される言葉がそれ……?

 ……この娘、なんか天然だな……。
 微妙にズレてるっていうか……。

 笑えた。
 慌てる女性には申し訳ないが、なんとなくそれで、気持ちが軽くなる。
 あぁ、あいつとは違う子だ。全くの別人……。それが良く分かった。

「と、取り締まる側……て、警察の方……?」
「あぁそう。まぁ、お巡りさんですよ」
「全然、気づきませんでした……」
「そりゃ非番だしね。……さっきも、されてるのは分かったんだけど……位置的にちょっと誰が犯人特定できなくて、申し訳ない」
「いえ、いくらお巡りさんでも危ないです……複数、だったので……」
「………………マジで?」

 つい真顔になってしまったら、その子は俯いて「はい……」と。
 そして、何故かいつもそうなるのだと、声を振るわせる。
 車両を変えても、時間を変えても、大学を卒業して、路線が変わっても……。

「警察には?」
「い、一回……だいぶ前に、勇気を振り絞って行ったんです……けど…………。
 その……勘違い、じゃないの、かって……」

 どんどん声が萎んでいく女性。
 そんな話が多いのは知っている……。証拠不十分とか、冤罪とか、色々なことを考えて警察側が引きがちな現実も。
 だがそれは、あまりにもおかしくないか?
 警鐘が鳴る。頭の中で。これは放置してはいけないやつだと、俺に言う。
 守れなかったかつての恋人への、贖罪の気持ちがそうさせるのか……この手の話に関わった件数が多いゆえの、経験値なのか。

「…………今、急にこんなこと言っても困ると思うんだけど……。
 ちょっと話を聞かせてもらえるかな。下手したら数時間かかるし、嫌なことも聞くと思うが……このままは良くない」

 そう言うと、条件反射のようにこくりと頷く女性。
 けれど不安そうに眉を寄せるから、心配しないでと意識的に表情を和らげ、言葉を続けた。

「この近くなら信頼できる女性警察官がいる署がある。だからまず、彼女に繋ごう」

 幸いにも俺の管轄区域内には戻っているし、実際に助けたのが俺だ。検挙率的にも任せてもらえるだろう。
 何より一応、被疑者を目にしていることになるわけだし。
 携帯電話を取り出して、懇意にしている女性警察官の番号をプッシュした。

「あ、都築です。おひさし……あぁ。そうまたそれなんですけど。
 …………すいませんねぇ……知りませんよ。別に嗅ぎ分けてるわけでもなんでもないんで。
 で。今近くの駅で、二十分もあれば行けると思うんですが……」

 即座に動き出した俺を唖然と見上げる女性。
 けれど電話口の彼女に、それで被害者の名前はと聞かれ、まだそれすら確認していなかったことに気付いた。
 やっぱりいつもと調子が違う……そんなことも聞き忘れていたとは。

「行き着くまでに聞いておきます」

 そう言って電話を切って、懐中から警察手帳を取り出す。彼女に俺の身分を示すために。

都築要つづきかなめと申します。所属は今ちょっとややこしいから省きます。
 それで……歩きながらで良いので、名前等、教えていただいても?」
「ひゃぃ!」
「今更慌てなくても……。お互い涙を見せあった仲ですし?」

 そう言って茶化すと、少し表情を崩し、ふにゃりと笑ってくれた。その幼さの目立つ笑顔に若干ドキリとする。

「答えたくないことは答えなくて良い。私が無理なら、これから連れて行く女性警察官に伝えてくれたらそれで」
「いえ……貴方なら、大丈夫です……。
 名前は、小野……小野小夜歌おのさやか。……二十二歳です」

 名前まで似てるとか、やめてほしい……。

「…………ご職業は?」
「……え、絵本作家、新米です」

 そう言って、もじもじと視線を彷徨わせてから、上目遣いに俺を見上げてきた彼女に……かつての恋人が、また重なった。

「小野、小夜歌さん……。前回の警察官の対応については、私が謝罪します。
 だが、今度はそうはしない。貴女は被害に遭っていた。勘違いなんかじゃないと、私が証明できる」

 今度は、守る。
 もう絶対に、手を離さない。
 今度こそは、守るから……。
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