剣闘士令嬢

春紫苑

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序章

零話 初陣

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 心臓が、早鐘を打つ。
 それはなにも、ここまでを走ってきたからではないのでしょう……。

「……本当に来やがったか……」
「来るわよ。何のために、練習してきたと、思ってるの」

 闘技場コロッセウムの片隅で、弾む息を整えながらそう言うと、思っていた通り、彼は深く重い息を吐いた。
 興行師ラニスタの証を首から下げ、団長マスターとして立つこの時が、彼を一番凛々しくみせると私は常々思う。
 でもそれは、目の下の真っ黒いクマと腹部を押さえる手で、いつも台無し。
 だけど……。
 今、彼の胃をキリキリと引っ掻いているのは、きっと私のことなのだわ。
 そう考えてついニヤけてしまった私に、その幼馴染み……アラタは、憂鬱そうに眉を寄せてまた溜息を吐いた。
 そうして次に口から滑り出したのは……。

「……お前は、そういう綺麗な格好してる方が、似合ってると思うぜ?」

 思いがけない言葉に、頬が熱を持ったのを自覚したわ。
 綺麗? 私が?
 ……いや待てこいつ、私の服装のこと言ってやがるんだ……。
 慌てて表情を引き締めた。

「……はん、その手には乗らないわ!
 諦めさせようって魂胆は見え見えよ!」

 そんな適当な言葉で誤魔化されないんだから! と、息巻いてみせると。

「バカ、今さらお前に世辞なんか言わねぇっつの。
 本当にそう思うから、言ってんのよ俺は。
 つまり……最後の忠告だ」

 そう言いながら、腹部を押さえていない逆の手に握る、私専用に改良された剣帯を差し出して……。

「せっかく頂点・・に生まれてんだろ……。
 なんでわざわざ、最底辺・・・に堕ちる必要があるんだよ?」

 苦い表情で、そんなことを言うのは酷いと思う。
 身分……。
 身分なんてね……。
 貴方に見てもらえない、身分なんて……。

「女の私に、身分がどれほどの価値を持つの?」

 貴族パトリキであり、当代も元老院議員セナートである我がセクスティリウス家。その当主であるお父様にとって、身分は大きな価値を持つのでしょう。
 でも。
 女の私には、私が家の所有物であるという意味しかない。
 そう言ったのは貴方よ。

「クルトを待てば良いだろ。
 あいつならお前を、道具扱いなんてしない」

 分かっているわ。
 でもそれも、私が望むものではないのだもの。

「その間に、何回あの婚約者おじさんに抱かれてアンアン言わなきゃなんないのよ。ごめんだわ。
 それなら獣の牙に食いちぎられる方がマシ。
 ……勘違いしないで。誰のためでもない、私が、私のために、戦いたいの」

 守ってもらいたいんじゃないわ。
 私は、貴方たちと並んで立ちたいの。

「せっかく綺麗にしてきた身体も、ズタボロになるんだぞ」
「今さらでしょ。稽古で傷だらけよ」
「父親の面子メンツも丸潰れで、お前は娼婦と同じ扱いを受けることになる」
「でも貴方が庇護してくれるのよね?」
「当然だろ。剣闘士グラディアトルを守り育てるのが、俺の仕事だ」

 それが興行師ラニスタという、誇り高き仕事なのだと、表情を引き締めて……。

「お前が俺の剣闘士になるなら、俺はお前の尊厳を守る義務がある」

 義務。
 そう言うって、分かっていたわよ……。

「なら、守りなさいよね。
 私は絶対、花形になる。
 貴方の抱える剣闘士の中で、一番価値ある存在に上り詰めるわ。
 だからせいぜい、私を大切に扱いなさいな」

 アラタの手から、剣帯をもぎ取って、それを腰に回した。
 少し手こずりつつもなんとか礼装の腰にそれを結え付けた時、何故か急に抱きしめられて、息が止まったわ。

「フザケンナ。
 サクラは今だって、俺の大切な二刀闘士ディマカエルスだ。
 もとから唯一無二だっつの。
 だから絶対勝て。擦り傷くらいなら許してやるが、それ以上は承知しねぇ」

 耳元で囁かれた熱い言葉。
 私を、女性闘士グラディアトリクスじゃなく、二刀闘士ディマカエルスだって、言ってくれる……。

「……当然よ」

 その背に腕を回して、ギュッと一瞬だけ、抱きしめた。

「勝つわ」

 そう言って、腕を離す。
 頭に手をやって、婚約者から贈られた髪飾りを強引に引き抜くと、長い髪がはらりと広がり落ちた。

「持ってて。規定外の武器を持ち込んだなんて、言われたくないもの」
「そもそもつけてくんな」
「仕方ないでしょ! お手洗いに行くって言って来たんだから!」

 この軽口だって、私のためにしてくれてるって知ってるわ。
 だから私も、いつも通りに言葉を返して、緊張なんて微塵みじんも見せてやらない。
 心臓のバクバクは、貴方が抱きしめてくれたからだし、緊張じゃないわ。
 ……そうだ。勝ったらまた抱きしめてもらえるわよね。俄然やる気が出た。もう一回、今度はゆっくりじっくりしてもらおう。

 私の興行師を引き連れて、闘技舞台アレナに向かう。呆気に取られた様子でたたずむ衛士の前を通り過ぎ、入場口へと足を進めた。
 けれど流石に、舞台への鉄扉を守る門番は、私を止めようとしたわ。

「お、お嬢様、ここから先は、関係者以外立ち入り禁止となります」
「関係者よ。お嬢様じゃないわ」
「え、えぇ? ですが……」
「二刀闘士サクラ。次の対戦表にそう書いてあるでしょ。私よ」

 そう言うと、ピッと銅板が顔の横に差し出された。
 アラタが持っていた、私の剣闘士たる身分証明書。
 これがある以上、私は中に入る権利を持つ。そして、ここからは一人……。

「行ってくる」
「あぁ。舞台袖でヘマしないか見といてやる」
「言ってなさいよ。吠え面かかせてやるわ!」

 控えの間を歩く私を、数多の剣闘士や審判、奴隷らが唖然と見送る中、さらに足を進めると、聞こえてきだした演目口上アナウンス……。

「それでは本日の第一戦目。花の如き十七歳、新たな女性闘士のお披露目でございます!」

 ギリギリだったわね。もう入場じゃないの。

「麗しいお顔をとくとご覧あれ。新参者チロ、サクラによる、女性闘士対魔牛戦!」

 女性闘士じゃねぇっつの。
 わぁっ! と、喝采が上がり、私は舞台に足を踏み入れた。
 途端に歓声が、勢いをなくしてふにゃりと歪んだわ。
 迷い込んでしまったのか?
 あの服装、貴族パトリキの娘だろう?
 なぁ、どこかで見た顔じゃないか?
 一階の観客は元老院階級が占めているから、当然私を知ってる人も多い。
 そしてその中に、お父様も、私の新しい婚約者も座っているって知っていたわ……。
 さっきまで、私もそこにいたのだもの。

 だけど、私はもう、ここに立った。
 後戻りはできないし、する気もない。
 なにより貴方が抱きしめて、勝てと言ってくれた。
 だから勝つ。勝って私にも意思があるのだと、お父様の所有物じゃないのだと、示すのよ!
 勢いのまま進行役の前に足を進めて、彼の持つ拡声器をもぎ取り、それを騒めく観客席に向けて、大きく息を吸い込んだ。

「二刀闘士サクラよ!」

 女性闘士じゃないわと訂正して、拡声器を投げて返し、剣帯に結えられた私の短剣二本を抜き放って、顔の前で交差させた。
 これが、二刀闘士の戦う準備ができたという合図。

「さっさと出しなさい!」

 そう言うと、慌てて避難口へと退く進行役。
 その状況に、観客席は興奮と混乱の入り混じった歓声をあげたわ。
 深呼吸をして、そんな周りの雑音を、頭から追い払った。
 ガラガラと、鉄格子の降りていた魔獣用の門が開いていく……。

 私がここに立つ日が、やっと来た。

 決意のあの日から、ようやっと辿り着いた。
 後悔なんて、ひとつもないのよ。たとえこれで死ぬことになったって。
 もし、何度人生をやり直すことになっても私は、必ず、この道を選ぶと断言できる。
 
 五年前……私たちの運命の歯車が噛み合ったあの日、あの瞬間を、今もアミに感謝してる。
 だから、どうか最後まで、見届けて。
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