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失った地 5

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 雪原を四つ脚で駆ける狼に、人の脚が敵うはずもない。
 木々の間を縫うように走っていたアレクだったけれど、雪原に抜けるとすぐアイルに回り込まれ、俺に背後を取られて足を止めた。
 それは、まだ彼方で争う声が届く程度の場所。現状は、たったそれだけの距離を稼ぐことしか許さなかった。

 広の視点に動くものは無い。
 雪も降らず、風すら凪いだ雪原は、隠れる場所も、隙も、与えてくれない。
 俺の前に立つ背中は、激しく肩を上下させ、白い息を吐いていた。

「フェルディナンド様」
「その名を呼ぶな!」

 乱れた呼吸を整えるのもままならぬ状況のアレクが、振り返りざま、そう叫ぶ。
 怒りに振り切れた表情が、呪い殺そうとでもするかのように、俺を見た。
 俺はウォルテールから降りて、アレクの前に立ち、彼と向き合った。

「ではアレク、もう抵抗は無駄だと理解してほしい。
 ジェスルからの進軍は、国軍が到着、対応しているそうだし、国境沿いの別働隊も既に規模を把握されている。
 貴方の策謀は、もうどう足掻いても実を結ばない。
 なにより……陛下のご出産がもう、お前の計画を狂わせていたはずだ」

 その言葉を掻き消すように、アレクは「あああぁぁぁ!」と、吠え。
 そして俺に向かい短剣を振り被り、襲い掛かった。

 けれど、公爵家貴族たる教育を受けていたであろうアレクは、短剣の扱いになど慣れていないのだと、その動きを見るだけで明白で……。
 突きだされた短剣を、体捌きで避け、その隙に腰から抜いた短剣で、次を受ける。背側の切れ込みに刃の部分を絡めて捻ると、呆気なくアレクの手から奪えた。
 けれどそれは陽動。
 アレクは左手で腰帯から引き抜いた小刀を、更に俺の顔へ突き立てようと振るったけれど、それも右の籠手で受け、踏み込まれていた左脚を俺の右足で払うと、あっさり雪原に転がってしまう。

 その腹を、ウォルテールの脚が踏み、更にアイルの足が、利き腕であろう右腕を踏みつける。アイルの持つ短剣が、アレクの首の上に掲げられた。
 左腕は、俺が足で踏み、動きを封じる。
 抵抗できなくなったアレクは、粗い呼吸を暫く繰り返していたけれど……。

「さっさと殺れ!」

 そう叫び、ぐっと腕に力を込めたが、腕の自由は取り戻せなかった……。

「くそっ」

 そして、自暴自棄なのだろう。全身の力を抜いた。
 フウゥ……と、ひとつ。長い息を吐き。

「……まず何から始めるんだ。俺の右手を斬り飛ばすのか?」

 皮肉げな口調でそういい、ハッと嘲笑う。

「そんなことはしない……」
「すりゃ良いだろ。されたことを返せ! 当然の権利だろう⁉︎
 お前のその、何をされても人を恨めませんみたいな善人面は、ほんっと毎回反吐が出そうになる。
 俺は、この屈辱を忘れない。動ける限り、取り返しに行くぞ。お前から奪う。この世から奪う! 分かってるだろう⁉︎」
「うん」

 灯りのない闇の中でも、アレクの白い輪郭はよく見えた。表情はぼやけていたけれど、考えているであろうことは、踏みつけた腕から這い上がってくるみたいに、理解できる。
 もうこの後には、死しか残されていないと、アレクは理解している。
 そしてやっと……このくだらないことを考え続ける人生から解放されるのだと、どこかで安堵している……。

 人というのは、ひとつの感情を長く維持できる生き物ではない……と、俺は思う。
 どんな喜びも、悲しみも、苦しみも、時間と共に慣れ、薄らぎ、起こったことのひとつとしてでしか認識できなくなっていく。
 だけどアレクは、その感情を無理やり繋ぎ止めてきた。恨まないと生きてこれず、今からだって、憎まないと生きていけない。
 それを辞められるのは、来世に旅立った時だけなのだと、決めている。
 辛くて苦しい人生に、そうやってしがみついて来た。

「俺がどう言葉を尽くそうと、貴方に俺の気持ちは届かないし、理解し合うこともできないと、分かっている」

 そう言うと、クッと口角が持ち上がり、引き攣ったような、乾いた笑い声が闇に響いた。
 俺に説得を諦めさせたことが愉快なのだろう。
 この綺麗事だらけの男を歪ませてやった。ざまあみろ! と、そんなことを思ってる。

 でもエルピディオ様は……そんな貴方でも、生きていてほしいんだ。

 俺もそう思ってる。
 あなたの言う通り、綺麗事だらけの俺は、これだけのことをされても、俺の人生からこれ以上を、失いたくない。貴方だって、失いたくない。
 今は恨みや苦しみにしか目が向かなくても、いつかそれ以外に気付いてくれる日が来ると、性懲りもなく思ってる。
 その時が来たら、自分のして来たことの本当の意味に、貴方は死にたいと思うほど苦しむことになるだろうけれど、その時は、共に支え合っていけば良いと……。

 それが貴方の言う綺麗事だということも、理解しているけれど……。

「俺は、そんな生半可な方法で、お前を楽にしてやる気はない」

 敢えてそう口にした。
 アレクは慈悲や赦しなど求めていないし、それを与えたところで、彼を反省させることすらできないと、分かっている。
 貴方は、いちいち手緩い俺にできるのは、せいぜい嘆きながら、恨みきれない貴方を殺し、生涯苦悩することだと、そう思っているんだよな。

 だけど俺だってね、もうそれだけではない。
 貴方を傷つける方法は、貴方から得てきた。学んできたよ。

 だから、今までアレクがそうしてきたように俺は、本当の気持ちに仮面を被った。
 うっすらと微笑み、アレクの心を踏み躙り、折るために、言葉を尽くす。
 俺は彼にとって、悪魔でなければいけない。

「アレク……良いことを教えてあげよう。
 エルピディオ様はね……ずーっと、知ってらっしゃったんだよ。アレクが、誰か」

 そう言うと、閉ざされていたアレクの瞳が開いた。
 暫く虚空を彷徨った視線が、言葉を上手く聞き取れなかったとでもいうように、疑問だらけで、俺を見る。
 その瞳を覗き込み、俺はそこに、毒を流し込む。

「初めから、全部分かっていたんだよ。貴方が誰か。
 だけどそれを認めてしまえば、貴方はまた、死ななきゃならない。
 フェルディナンド・ディルミ・オゼロは、存在を抹消されてなければならなかった。
 だから、貴方が誰か知っていることを、世間の誰にも、絶対に悟られてはいけなかったんだ。当然、貴方にすらね。
 エルピディオ様は、貴方を愛していたから。祖父だと名乗れなくても、死んだことにしてでも、貴方に生きていてほしかったんだよ」

 愛していた……。
 大嫌いなその言葉に、まなじりが吊り上がる。
 でも、俺の言葉の真偽から、意識が外せない。こいつは何を言っている? 今度はなんの懐柔作戦で来たんだ?
 甘ったれのこいつらしい、反吐が出そうな言葉選びだ。だが、知っていたとはどういうことだ? そんなはずはない。何故なら俺を自ら手に掛けたのは……。

「だって、アレクを神殿に預けたのも、他ならぬエルピディオ様だもの」

 アレクの思考の隙をついてそう言葉を織り込むと、アレクの瞳は俺を見据えて固まった。

「秩序と民の生活を守るために、一度は殺した。同席した部下たちも、フェルディナンドは死んだのだと、その目で認めた。
 だけどお前は息を吹き返したんだ。
 そのお前を、もう一度殺すなんてできなかった。どんな形でだって良いから、怨まれて良いから、生きてほしかった。
 幸にも、気付いた者は他にいない。エルピディオ様が口外しなければ。
 それでお前は手厚く治療されて、神殿で意識を取り戻したんだよ。
 エルピディオ様は、まさか神殿が、自分に孫を殺させた相手だなんて、知らなかったからね」

 面会を求めて来た俺に、エルピディオ様は会ってくれた。
 アレクの正体を語る俺に、何故それを、どこで知ったと、そう言ったよ。
 俺の語ったことに、涙を流して苦悩された。
 それでも貴方をなんとかして守りたいと、一度は俺を消すことまで脳裏によぎらせたし、エルピディオ様自身が貴方と差し違えることだって、考えたんだ。

 だから提案した。
 どんな形であっても、構わないか。と……。

 貴方を死なせない。国の不利益にもならない。そうできる策を、用意しますと。
 恩義あるエルピディオ様に、俺が返せるものは、これしかないと思った。
 陛下を納得させ、神殿の力を削ぎ、アレクを死なせない。
 これは、そのための一手。

「なぁアレク、お前はずーっと踊らされていたんだよ。
 神殿は当然知っていたのに、お前を駒に育てるために、この事実を隠蔽して、お前はそれに気付かなかったんだ」
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