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最後の春 6

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「鬱陶しい! なんなのよ。帰ってからずっと、何も手につかないじゃないの!」

 急に怒り出したクララがそう言い、きっとさっきは痛かったのだろう……今度は机を、傍に置いていた紙束でもう一度、バァン! と、叩いた。

「サヤが悩んでる理由、分かんないなら聞くしかないでしょ!
 さっさと聞いてきなさいよ。何そこで悶々と険しい顔してんのよ!」

 はい、今すぐ行く! と、扉をビシッと指差す。

「いやでも……一人にしてほしいって……」
「もうしたでしょ、一日! それくらいで充分だわよ!
 それにね、貴方に言わないなら、他の誰にも言えないわよサヤは! だから貴方が動くしかないの!
 一回拒まれたくらい何よっ、宥め賺して聞き出せば良いでしょ!」

 呆気にとられた男性陣が、俺同様に口を半開きにしてクララを見ていたけれど、クララは意に解さない。
 そのままズカズカと俺の机まで大股で歩いてきて、腕を掴み、俺を無理やり立たせて、今度は背中を叩くように押され出す。

「くっ、クララ⁉︎」
「研修の人たちが来たら、そっちに時間取られるわよ。
 そうしたら何日サヤを放置するの? 今ケリつけとくべきでしょうっ!」

 そうしてグイグイと押されて、執務室を出て階段まで押して行かれ。
 そこでようやっとクララは足を止めた。

「顔を見て、もう一回判断してきなさいよ。
 サヤがまだ一人でいたいかどうか。
 そうだったら戻ってくれば良いでしょ。でもそうじゃないなら……一人でずっと引き篭もってるのって、逆効果よ……」

 サヤは、天涯孤独の身なんでしょ……。と、続いた言葉。

「誰にも助けを求められない。それなら余計、貴方が動かないでどうするの。
 サヤの夫になるって言うなら、ただ言いなりになるんじゃなくて、助け出してあげなさいよ。
 本当に苦しい時に一人なのは……絶対に、辛いんだから……」

 クララも……何かを思い悩んだ時期がきっとあって、この言葉をくれたのだろう……。

「……うん、そうだね。確認してみる。ごめん、ありがとう……」

 きっと切っ掛けをくれたのだ、クララは。
 俺が動く理由を、無理やり作ってくれた。
 今すぐよ! と、念を押されて、分かったとそのまま、足を女性用の宿舎に向けた。

 宿舎の管理の女中にサヤのところに行くと言うと、すぐ中へどうぞと促され、足を進める。

「鍵は掛かっておりません……」
「うん。分かった」

 心配そうな表情の女中。きっとサヤのことを気に掛けてくれているのだな。

 更に足を進め、何度も訪れているサヤの部屋の前に立った。
 コンコンと扉を叩くけれど、返事は無いまま……。

「サヤ」

 呼び掛けたけれど、やはり返事は帰らなかった。

「入るよ」

 あちこちに、縫いぐるみが置かれた部屋。
 いつもは賑やかに見えるその部屋が、今は妙に物悲しい……。
 足を進めても、帰って! と言う声は、聞こえてこなかった。何一つ反応は返ってこない。

「サヤ……」

 寝室の前でもう一度声を掛けたけれど、やはり……。

 本当に、踏み込んで良いものかと、考えた。
 サヤは一人にしてと、言ったのに……。
 でもサヤは、いつだって独りなのだ。異界から迷い込んだ彼女は、常に孤独を感じているはず。なのに……本当に、独りが良いだろうか。

 ……止めよう。言い訳なんていらない。
 俺がサヤを独りにしたくないんだ。

 扉を開けて中に入る。
 帳の下ろされた寝室は、思いの外薄暗かった。
 中心にある寝台まで足を進めて、膨らんだ上掛けの隣に腰掛ける。
 いつかの逆転のように、丸まってこちらを拒むみたいに背を向けるサヤの肩に、そっと触れた……。

「サヤ…………」

 だけど、それ以上、なんと声をかけて良いのかが、分からない……。
 暫くただ、肩を撫でて、何の反応も返らないことに、耐えた。
 拒絶するかのような背中が、苦しい。

「…………独りに、ならないで……」

 そんな風に、孤独にならないで。
 頼ってほしい、俺は不甲斐ないけど、それでもサヤと共に歩みたいと、思ってる。

「言えないなら言わなくていい……。だけど……隣にいることだけは、許してほしい。
 だって俺は……そのために、一生共にいるって……サヤと生きるって誓ったんだよ……」

 サヤを孤独にしないって、誓ったんだ。

 そうして俺は暫くただ、そこに座し、サヤの肩に触れていた。
 サヤからは、出て行ってとも、傍にいてとも、言われないまま……。
 ただゆっくりと肩を、撫でていた。

「……………………サイロ」

 そうして、どれくらい経ったか分からなかったけれど、サヤのか細い声。

「サイロの、漢字が、思い浮かばへんの……」

 上掛けの隙間からぽつぽつと溢れる、くぐもった声。

「しっかり覚えてへんことでも……大抵は漢字が思い浮かぶ……。
 もちろんそうやない言葉かてあるけど、それは近い時代に使われ出した言葉であることが多い」

 サヤが何を言わんとしているのかが、俺には分からなくて、ただその声に耳を傾けていた……。

「イメージとか、サービスとか、新しく入ってきた言葉は今までもここでは使えへんかった。
 サイロも、そうやないとあかん……。
 なのに、ロジオンさんはサイロって言うてた……。
 ずっと前から、違和感はあって……けどマルさんでも知らへんようなこと、そうそう無いって……。
 自分で言い訳してたんが、もう……完全な違和感に、なって……」

 まだきちんと整理できていない、気持ちの乱れを感じる。
 サヤの背中から手に滲んで、更にそれは声にも染みていた。
 震える呼吸と言葉。
 見えないけれど、サヤが大きな不安を感じていると、分かる。

「……日本はな……少し前まで労働力以外の家畜を飼う習慣が無かった……。
 宗教的な理由で、家畜を殺してまでする食肉も倦厭されてたから、サイロなんて必要無かったんや思う。
 基本的に魚肉が優先されていたしな……。
 せやから、畜産業が盛んになってきたんは、せいぜい二百年ほど前の、明治時代以降……。
 サイロも、その時に入ってきた言葉で、技術やったんやろうって……。でもそれは……っ」

 ギュッと、より一層縮こまった。
 言葉にするのが怖くて、つい慄いてしまった。
 そんなサヤを一人そのままにしておくなんてできるはずもない。

「なんでも聞く。
 ちゃんと纏まってなくっても良い。
 嬉しいも、苦しいも全部、二人で考えていくのが夫婦だろ」

 サヤの肩が、小さく揺れた。

「夫婦……」
「まだだけど……だけど、あとたった、数ヶ月だ。
 俺は何があったってサヤと一緒に、これからもずっと一緒に、生きるんだ」
「…………何があっても?」
「何があっても」

 もぞりとサヤが身を起こして、寝乱れた黒髪が、上掛けの間から覗いた。
 泣いていたのか、少し腫れぼったい目蓋が開き、充血した瞳が俺を見る。

 薄い夜着一枚のサヤは、ずれ落ちた上掛けにまだ半分埋れて、カサついた唇を暫く……引き結んでいたけれど……。

「…………ギュってして……」

 幼子のようにそう言い、俯いて一粒の滴を落とした。
 たったそれだけを口にするのに、勇気を全て振り絞ったみたいに。
 だからその言葉が終わる前に俺は、サヤを抱き寄せた。
 心配いらないと、態度で示すために。

 あぁ、細い身体だなと。改めて感じる。
 こんな細い身体では、支えきれないような恐怖に、サヤは今、動揺している……。
 何がこうまで、サヤを苦しめているんだろう……。
 こんなに弱々しく、不安そうなサヤは、未だかつて見たことがなかった。

「ずっと、一緒にいてもええの?」

 ずっと、一緒にいてと、懇願しているように聞こえた。

「良いに決まってる」
「私が、どんなでも、そう言うてくれる?」

 何がそんなに、不安なのだろう……。

「サヤはサヤだろ」
「……得体の知れへん、異界の人間やのに?」

 そんなことを、何故今更確認する?

「それも全部、俺が好きな人の一部だ」
「私が……変なこと、言うても……信じてくれる?」

 サヤは、何を抱えてるんだ?

「当たり前だろ」
「到底、考えられへんようなことでも?」
「サヤがどういった娘かは、俺が一番、よく知ってる」

 そう言い腕に力を込めると、おずおずと伸びた指が、壊れ物を扱うみたいに、俺の背に触れた。
 サヤの肩に掛かっていた黒髪が、するりと落ちて、しなやかな背の曲線に沿って流れ、寝台の上に小さく渦を巻く。
 左肩に預けられたサヤの表情は見えなかったけれど、それでもサヤが俺を求めているのは充分に感じていた。

 暫くはただそうして、サヤを抱きしめ、背を撫でた。
 サヤの気持ちが落ち着くのを、根気強く待って時を過ごした。
 そうやってどれくらいそうしていたろうか。

「……違和感はあった……。前からちょくちょくな。
 せやけど、王家の病のことかてあるし、なんとのう習慣や、経過の中で、そうなっていっただけなんやろうって……。
 そう、思うことに、してたん……。
 でも、ロジオンさんは、サイロって言わはった……」

 またポツリと呟かれた言葉……。

「サイロは……英語やけど、元はフランス語。更に語源はスペイン語でな、地下の隠し場所という意味やって、お父さんが言うてた……。
 凝り性やから、色んなことを調べて、そういう蘊蓄を、よう口にするの……。
 経済的発達が遅れた国では、第一次産業に関わる職種の人が多い。食べ物は、生きることから切っても切り離せへんもんね……。
 せやからお父さんは、労力がまだ人や動物の国で、農業や畜産を手助けするような道具や技術を開発するために、学び直す道を選んだって……」

 父親は、娘に何度も語って聞かせたのだろう。夢を。使命を。己のやるべきことを。
 長く離れて暮らしていても、娘に大きな愛を注いでいたのだろう。
 与えられてきたそれを今、サヤは言葉にしていた。

「アメリカも、ヨーロッパからの移民が移り住んでできた国……。
 せやから、語源がフランス語やスペイン語……更にはギリシャ語やラテン語……なんてものまで、ようあるの。
 つまり言葉は、繋がっていく……。
 同じ音で、同じ意味で、別の国にあるなんて偶然は、そうそう起こらへん……。
 軍用馬のことも……本当は、遺伝についての知識と理解がないと、難しいんやないかて……考えてた」

 そう言い、言葉を止めて、深く息を吐いて……。
 心を落ち着かせようと、深呼吸を繰り返す。
 ギュッと、背に回された腕に、力が籠った。これから口にしようとしていることが、サヤにとって最も重たいことなのだ。
 だから俺も、サヤを抱く腕に、力を込める。

「馬事師さんらに、あの技術を教えた人が、いるんや思う……」

 震える声が、俺の胸元に、熱を吐き出す。

「馬を育てる技術を身に付けた人が、こちらに、来たんや……」

 呟かれた音の意味が、まだ理解できなかった。
 だから根気強く、サヤの言葉を待とうと思ったのだけど……。

「でもきっと、その人だけやない……」

 サヤは、まるで罪を告白するかのように、声に不安と悲しみ、そして決意と、覚悟を滲ませて。

「……………………私、だけや、ない……前にも、誰かがいたと、思う」
「…………ぇ……」
「北にいた。
 私の世界から来た人……。きっとその人が、関わってる。
 あ…………悪魔……って、私たちの、ことかもしれへん……っ!」
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