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翌年の春 1

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 ブルブルと小刻みに震える手が、三つ編みにされた俺の髪を掴み、銀色の小刀を首元に添えた。
 少し強めに引かれた髪。うなじの毛が引っ張られて少々痛い。
 こうべを垂れた俺は、その刃が己に振るわれるのを待って瞳を閉じる。

 …………が。来ない……ね……。

 うぉっほんヴフンと、あからさまな咳払い。速くしろよと急かしているのは、ここの司祭だろうか。

「……サヤ?」
「……本当に、全部切っちゃうんですか?」
「うん。そういう決まりだし」

 春。新年最初の挨拶と、会合参加の為に王都に来ていた。
 今回王都に訪れたのは俺一人。
 いや……今回ではなく、これからは……だ。

 俺の腰には今、二つの印が下げられている。
 地方行政官長の紋章印と、セイバーンの領主印だ。

 この春俺は、晴れて領主となった。

 昨日王都に到着したばかりだったが、本日俺は成人を迎えた。
 皆が、祝いの席を用意してくれていたのだけど、たまたまバート商会を訪れていたアレクセイ殿に遭遇し、進言されて、そのまま王都の大神殿で成人の儀を行う運びとなってしまったのだ。

「宮中の行事ごとに出席するならば、髪を切っているというだけで、扱いが全く違うはずですよ」

 ……と。
 若干強引に押し切られ、彼の立ち合いのもと大聖堂に赴いたのだけど……。

 長年伸ばした髪を切る役を、サヤにお願いした。
 婚約者として俺に付き添ったため、美しく着飾ったサヤはしかし、俺の髪を切ることを躊躇っているよう。

 俺の長い髪を毎日三つ編みにしてくれた彼女は、これをとても気に入ってくれていた。
 だからこそサヤにと思ったのだけど、少々酷だったろうか。

「どうしても無理なら、ハインに代わってもらおうか?」

 あいつなら躊躇なくあっさりバッサリいくだろう。
 そう思って声を掛けたのだが、いいえという返事。

「や、やります……」

 そうしてサヤはもう一度、俺の髪を掴み……。

 そこから約半時間ほどして、無事に儀式を終えることができた。
 ずっと床に膝をついていたから、若干足が痺れるなどしたが、良かった良かった。

「頭がかっるい。首の後ろがスースーする……」

 新鮮だ。こんなにも違うもの?
 頭の中を風が抜けていくというか……首がなんだか心許ない。
 物心ついてからずっとあったものが無いから、違和感も凄いけど……でも、人生で一度くらいは経験したかったのだよな、これ。

「サヤ、そんなに落ち込まないで。皆が通る道なんだから」

 切った髪は奉納され、手元には残らない。
 それもあってサヤの落ち込みようは凄かった。そこまで? ってくらい、意気消沈している。

 今、適当にバサバサしてしまっている髪は、バート商会に戻ったら整えてもらうつもりでいるのだけど、そうしてからまた、本日一日をサヤと共に過ごす。秋以来の逢瀬だ。この時間をどれほど待ったことか!
 だけど……彼女のこの、落ち込みよう……。

「そんなに気に入っていたなら、また伸ばすよ?
 ここで切るのは決まりだったから仕方がないけど、ここから先は、髪をとやかく言われることはないんだから」

 そう言い、サヤの頭を撫でた。
 ずっと鬱陶しいと思ってた髪だったけど、サヤが結ってくれるようになってからは、さほど苦痛でもなかった。
 サヤが髪を触ってくれることが、とても心地良くて……俺にとっても至福の時間となっていたから。

「まぁ、数年掛かると思うけど……待っててくれるなら」
「……伸ばしたら、また成人前だと侮られませんか?」

 サヤのその思いもよらない指摘に、俺は一瞬言葉が詰まり……盛大に吹き出す羽目に。
 いや、流石にないよそれは!

「見た目だって老けていくんだから!
 その頃にはもう成人前には見えなくなってるんじゃない?」

 確かに、貴族で成人後に髪を伸ばしている男性はあまり見かけない。
 女性は大抵髪を伸ばしていくけども。

「大丈夫だよ。そんな心配しなくても」

 それでようやっと、サヤは顔を上げてくれた。

 現在はこの儀式に立ち会うため、婚約者として着飾っている。横髪を右側だけひと房垂らし、残りを後頭部で結い上げた、大人っぽい髪型。
 薄紅色をした春の花の髪飾と、散りばめた花弁の添飾が可憐だ。
 この花、サヤの世界にしか咲いていない花で、オトメツバキという名であるそう。サヤの図をもとに、ロビンが作ってくれた、彼曰く、今までの生涯での最高傑作。
 ただ彼は、この花を春の花である、玉芙蓉だと思っていたけれど……。

 冬の社交界にもこれで参加したので、見るのは二度目なのだけど、やっぱりサヤは美しい……。
 念のためにと荷物に入れてくれていた女中頭に感謝だ。

 紺の羽織に深緑の袴、白い短衣。茶褐色の帯という、どこにでもありそうな地味な色合わせだったけれど、それゆえに、一層サヤの艶やかさが際立つ。
 その深い色に添えられた、薄紅色の大輪の花が、神秘的で妖艶で……まるで幻惑されているみたい思える、どこか現実味のない美しさ。
 確かにサヤは、大人びた深い色がよく似合った。淡い桃色も。

「申し訳ありません。日々の日課がもう無いのだと思うと……どうしても寂しくて……。
 じゃぁ、また……三つ編みできるようになる日を、楽しみに待っていることにします」

 気持ちを切り替えますと言ったサヤ。
 そうして、なんとかにこりと笑った。
 と、視線が俺を離れて後方に。こちらにやって来るアレクセイ殿を見つけたよう。

「何かお呼びみたいなので、ちょっと行ってきますね」

 そう言い、身を翻してタッと駆け出し、サヤの動きで右耳の飾りの蝶が、大きく揺れる。
 髪の花に合わせて、右耳の耳飾も魚ではなく、小さな蝶の連なりのものを新たに作らせた。振り回されて慌てて飛び立ったみたいで、微笑ましくてつい笑ってしまった。

 今日は婚約者として出向いているというの、忘れている動きだな、あれは。
 礼装のご婦人は走ったりしないものなのだが、まぁそこまで目くじら立てることもないか。

 ……彼女がこの世界にやって来て、早二年半か……。彼女の髪も、随分と伸びた。

 サヤの艶々の黒髪も、もう馬の尻尾のように纏められてはいない。
 解いていれば、腰に届く長さとなり、馬の尻尾の括り方では、重さで落ちてきてしまうからと、三つ編みにされることが多くなった。

 再び触れ合えるようになってから、夜の語らいの時間を復活させ、二人で色々話すようにもなったのだが、最近はもっぱらサヤの部屋に俺が出向く。
 そうすると、サヤの髪の手入れを目にすることができた。
 祖母に贈られた櫛で、丹念に髪をくしけずるのだが、近頃は俺にやらせてくれるようになりつつある。
 まぁ、俺が執拗にやりたがるからなんだけども……。

 おろされた、艶やかな絹糸のように美しい髪。それに丁寧に櫛を通すと、一層の光沢が出る。
 そして滑らかになったその髪を、最後に俺の指で梳く。それが、なんとも心地良い。
 サヤに触れられるという幸福と、サヤの大切なものを任されているという幸福。独占欲が刺激されて、とてつもなく満たされた気持ちになれるのだ。

 ああそうだ。
 俺は髪を失ってしまったから、当面三つ編みにはできない。
 二人で揃って三つ編みにしていると、まるでお揃いだと囃し立てられることもあったのだけど……それも今日でお終いか。

 そこまで考えた時、あることに気付き、俺の足は止まってしまった。
 サヤを俺の妻として貴族に迎えた場合、サヤの髪も切らなければならないのだということに、今更……思い至ったのだ。

「…………レイシール様?」

 急に固まった俺を、戻ってきたサヤが訝しそうに覗き込む。

 …………サヤが髪を殊の外大切にしていることは知ってる……。
 彼女がこの世界に持ち込めたもの。その中に当然、サヤの髪も含まれていた。
 毎日丁寧に手入れして、こうして艶を保つ、この世界で唯一無二の、この黒髪を…………切る⁉︎

「アレクセイ様が、髪飾をお返しくださいました。
 髪は渡せないけれど、こちらはお返しできますからって。
 ……レイシール様、大丈夫ですか?」
「如何されましたか?」
「さぁ……レイシール様!」

 何度も呼ばれ、手を引っ張られてやっと、思考を切り替えることに成功した。
 サヤとアレクセイ殿が、不思議そうに俺の顔を覗き込んでいる。

「あっ、申し訳ありません……」
「いえ、私は良いのですが……ご気分が優れないのでしたら、少し休まれますか?」
「あっいや、そこまでではないです! ちょっとその……閃いてしまったことに夢中になっていただけなので」

 そう言って誤魔化すと、アレクセイ殿はにこりと笑った。相変わらずの、完璧な作り笑顔。

「また、素晴らしきことを思い付かれたのですか? 流石、発明男爵様ですね」

 この人の口からとんでもない言葉が!

「そっ、それやめて下さいっ。俺が発明してるんじゃないですから!」

 なんか最近、それをよく耳にするんだよな……。
 去年の秋頃からか……拠点村に貴族や、その使用人の来訪がちょくちょく増えてきて、そう囁かれるのを耳にするようになった。
 だけど、俺はなにも発明していないので居心地悪いったらないのだ。本当にやめてほしい。

「でも、ブンカケンを通し、今までにない形の、あらゆる新事業を手掛けていらっしゃるではございませんか。あれを発明と言わずしてなんと言えば良いのです?」
「え、そっち?」

 てっきり秘匿権を乱立させるという意味で言われているのだと思っていた。

「こちらの国では、実業家とか、企業家なんて表現はあまりしませんもんね。商人で一括りにされてしまうというか」

 そう言ったサヤに、サヤさんの国ではそう言うのですか? と、アレクセイ殿。

「では、企業家男爵様ですね」

 そう言ってにっこり笑う。

商人あきんど男爵……などと言っては、不敬を咎められるかもしれない……なんて考えた結果でしょうねぇ」
「まぁ、発案してるだけで実際の商売は丸投げしてますしね……」

 そう言うマルとハイン。
 丸投げと言われるのは些か釈然としないが……ブンカケンの店主はウーヴェだし、衣料系はバート商会が、宝飾系はクライヴ宝飾店が実績を伸ばしてきている。
 そしてまだ立ち上げて間もない馬事師の新事業も、店主は俺ではない。

「ブンカケンに関わると、事業が飛躍的に伸びると、その界隈では囁かれ始めているそうですよ」

 どの界隈だよ……。
 ちょっとそう思ってしまった。

「ところでキギョウカとはどういう意味なんです? ジツギョウカとはどう違うのですか?」
「え、えっと……私も厳密な違いは分からないというか……」
「ええっ、そんな、殺生ですよぅ、ざっくりで良いので教えて下さい!」
「マル……今ここでそれをしない」

 神殿関係者の方々の視線が無茶苦茶刺さってるから。

「騒がしくすると迷惑だろうから、そろそろお暇しよう」

 そう言い促した俺を、あ、最後にもうひとつだけ。と、呼び止めるアレクセイ殿。
 振り返った俺に対し、袖の中に両手をしまう、独特の、祈りの姿勢。

「成人、おめでとうございます。今後のセイバーンを担うレイシール様に、アミの祝福があらんことを」
「ありがとうございます」

 その祝福に感謝を述べて、サヤに行こうかと声を掛けた。
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