上 下
746 / 1,121

視線 3

しおりを挟む
「レイシール様!」
「ごめん、大丈夫……ちょっと緊張してたから…………今それで、気が抜けただけなんだ」

 バクバクと早鐘を打つような心臓。
 もうとっくに塞がっている太ももの古傷が、思い出したかのように疼き、心音と重なるように鈍い幻痛を伝えてくる……。
 気力で保っていた色々が限界で、吹き出す脂汗が顎を伝い、床に落ちた。気持ち悪い……。胸部が圧迫されているみたいな違和感。吐きそうだ。

 馬鹿だな……兄上じゃない。それが分かっているのに、なんでこうも、翻弄されている……。

「シザーさん、お部屋までレイシール様を運びましょう」
「いや、少しここで休めば充分……」
「そんなん、あかん!    シザーさん、お願いします」

 有無を言わせぬサヤの言葉が終わる前に、シザーがあっさりと俺を担ぎ上げてしまった。
 え、それはちょっと……っ、横抱きだけは、勘弁してください!

「シザーッ、下ろせ!    もしくはそれ以外の担ぎ方っ!    それだけは止めてくれっ」

 何が悲しくて、恋人の前でご令嬢よろしく横抱きされなきゃならないんだ⁉︎    そんな姿を晒されるくらいなら、ここで吐けって言われる方がマシなんですけど⁉︎

 必死で暴れたら肩に担ぎ直された。
 そして風のような速度で部屋に走られ、揺すられ、腹部を散々圧迫されて振られた結果、更に吐き気が増してしまい、気持ち悪くて起き上がれなくなった……。

 いや、俺が望んだんだから文句はないけどね……。

 寝台の上に放り出され呻いていたら、遅れて来たサヤに上着を剥ぎ取られ、上掛けを掛けられてしまう。

「サヤ、半時間しかないんだ、寝てられない……」
「そんな顔色で何言うてるん⁉︎」
「いや、これ半分は揺すられたからだよ……」

 でも、そんな風に二人が俺を心配してくれる、その温かい気持ちは伝わったから、会合直後の怖気は引いていた。
 深く呼吸することを意識すれば、圧迫感も自然と引いてくる……。だけど……。
 起き上がろうとする俺を、寝台に押さえつけようとしたサヤの手を取って、代わりに頬に。
 その心地よい人肌の温もりに瞳を閉じた。

「眠るより、こっちの方がいい……」

 サヤに触れたい。温もりが欲しい。心が冷え切ってしまってるだけだから、俺はこれで元気になれる。
 そう思っての行動だったのだけど、急に動きを止めてしまったサヤ。閉ざしていた瞳を開いたら、俺に握られた手を頬に固定されたまま、真っ赤になって固まっていた。
 その後方で、ハッと我に返ったシザーが、慌て、焦り、まろびつつ部屋を飛び出していく。…………いや、そこまでのものを求めたんじゃ、なくてだな…………。

「…………誤解なんだけど……ちょっと、触れてほしかっただけ…………」

 …………いや、言葉と行動を選ぶ余裕がなかった俺が悪いな…………。

「ごめん。サヤに触れていてもらえたらそれで……それで充分なんだ。
 今ちょっと、兄上を思い出してしまっていて……それで気持ちが、少し、重たくなっているだけで……だから…………」

 お前は俺のなんだと。だから壊しても良いのだと、俺を見下ろしていたあの冷たい視線。
 物を見るみたいな、だけど、乾いた身体に必死で水を欲するみたいな、飢えた視線……。
 あれに似たものがまた俺を見るから、精気を吸い取られでもしていたみたいに、気持ちが凍えているんだ。
 標本よろしく、じっと固まってなきゃならないと、身体が過去に引きずられてしまっていて……。それを無理やり動かしていたから、疲れてしまっただけ。
 だから、なんでもいい。温まりたい。触れておいてほしい。独りじゃないんだと、孤独じゃないんだと、もう嵐は過ぎ去ったのだと、そう、実感したい……。

 ただ、それだけのつもりだったのだけど…………。

 温かく、柔らかいもので唇を覆われた。
 視界を覆う黒髪。胸にかかる重み……。
 唇だけでなく、被さった身体からも熱が伝わってくる。
 左頬にあるサヤの手が、労わるみたいに俺の頬を撫でてくれて、俺も自分の右手を持ち上げて、サヤの左頬に触れた。
 啄むいつもの、ささやかな口づけ。

 そうして唇が離れて……。

「ごめん……」

 やっぱり、もっと欲しい。

 けれど、それを言葉にする前に、もう一度唇が塞がれた。
 長く押し付けられた唇は、まるで何かを待つみたいに少し開かれていて、誘われるままに舌を伸ばして、後はもう夢中で食らいついた。
 そうして実感する。
 あぁ、枯渇していたのは俺だ。
 兄上はもう今世にはいらっしゃらない。来世に旅立ってしまったから、もう……。
 なのに俺は、己の罪悪感から、似た視線を兄上のものと錯覚して、勝手に傷付いて、サヤでそれを、埋めたいと思ったのだ。

 多分ずっと、助けを求めていた兄上。
 だから俺を、自分の痛みを移すための容れ物として、欲していた。
 そう思えば、あのレイモンドと兄は違うのだと、理解できる。
 あれは違う……。あれが欲しているのは、痛みを移す容れ物ではなく、快楽を満たす生贄だ…………。
 兄上と似ているのは、レイモンドじゃない……。

「…………ありがとう」

 唇を離しそう囁くと、上気した頬のサヤが恥ずかしそうに身を起こした。
 視線を敢えて合わさぬように逸らし、けれど俺の横を離れることなく、寝台の端に座したまま手を握って、もう少し休み。と、優しい声音で告げて、後は沈黙。
 きっと自分から促したみたいな口づけのせいで、顔を見るのが恥ずかしいのだな……。
 そんなところが本当に可愛い。
 ちゃんと温かいサヤの手。それが、彼女にはまだレイモンドの魔手が伸びていないことを知らせてくれる。
 よかった……俺の婚約者ってことが、あいつのつけいる隙になりはしないかと、気が気じゃなかったから……。
 その心地よい熱に身を任せていると、「どうしてお兄様を、思い出さはったん?」と、気遣う優しい口調で問われた。

「…………視線が、似てる気がした…………。だけど違う。それはもう理解できたから、次は大丈夫。
 ごめん……心配を掛けてしまった?」
「…………今日はちゃんと一人で我慢しようとせえへんかったから……許したげる」

 その言葉に吹き出してしまう。
 まったく、我が妻となる人は、俺の心を軽くする天才だよな。

「レイモンド……何かは分からないけど、何かを仕掛ける気でここに来てると思う。
 あの男がジェスルと繋がっているっていうマルの推測は、正しいのだろうな。実感したよ……」

 そう呟くと、サヤがちらりと、視線をこちらに寄越した。

「オゼロとして動いている今、ジェスルとしての行動を、はたして取るだろうか……って、そう思っていたけれど、多分動く。
 あいつ本人が動くのではなく、ブリッジスを使うつもりなんだろう。だから時を被せてここに来たのだと思う」

 レイモンドは……俺とダウィート殿との会話を、ずっと嘲りを込めた視線で眺めていた。
 口元には同僚から隠すように手が添えられており、そうして隠された状態で、俺たちの話の節々で歪められ、何かを呟いていた……。
 下からすくい上げるように睨めあげてきていたあの視線……どこを刺し貫いてやろうかと、急所を探すように、俺を見据えていた。頭の中ではきっと、ずっと、呪詛を吐いていたのだろう。

「……あまり気長な男には見えなかったしな……」

 今回が下見……なんてことは無さそうだ。そんな風に考えていたら、サヤから合いの手が。

「同僚さんとの会話も、基本が嫌味やった……」
「嫌味?」
「同僚さんが、凄いね。みたいなことを言うたり、感心したりするとな、それを全部否定してた。
 同僚さんは、それがこちらに聞こえてへんかって、ずっと気が気やない感じで窘めてはってんけどな、最後の方は余計なこと言わさへんように、話しかけるのもやめてはったん。
 そうしたら今度は、レイに直接噛み付いたやろ?    真っ青になってはった」

 あぁ、あれそんな感じになってたんだ。
 もうひとりの人は、見るからに無害そうだったからほぼ意識してなかったし、気付かなかったな。まぁ……もうちょっと集中できてたら、それも見えてたんだろうと思う。精進が足りない……この程度で気持ちを揺さぶられてたら駄目だな。反省だ。
 つい自己分析に入ってしまっていたのだけど、気付かぬサヤの言葉は続いていて……。

「ああいう嫌味ばかり言う人、なんなん?    不満ヶ所からしか世の中を見られへんのんやろか。
 あんな風にしてたら、人生がなんもおもろない思う。粗探しが趣味のお姑さんみたいやわ」
「…………?」

 ちょっと驚いた。珍しくサヤが人を罵っている……。
 自分をあからさまに悪く言われている時すら、サヤはその相手を罵ったりなどしなかった。悪意のある者に憤慨している場合はあったけれど、それだって、こんな言葉は使わなかったのだ。
 なのに今のサヤ……これは悪口を言っているのだよな?    あんまりそれっぽくないけど……。
 ちらりと表情に視線をやってみると、とにかく相手を悪し様に罵りたいといった怒り顔。

「………………俺の悪口が多かったの?」

 なんとなく、そう聞いてみたら、キッと涙目で睨まれ……。

「あんな人にあんなこと言われる筋合い無い思う!」

 当たりなんだ……。
 だけど怒りより何より、嬉しさと愛しさで胸が苦しいくらい、いっぱいになってしまった……っ。

「笑うところやない!」
「笑ってないよ。違う…………サヤが可愛いのがいけないんだ」
「…………何言うてるの?」
「だって、そんなことでこんな風に怒ってくれる人が、愛しくないわけないだろ?
 あああぁぁぁ、また口づけしたくなってしまう、それ駄目。誘惑が凄い……」

 抱き締めたい。口づけしたい。腕の中でとろけたようになっているサヤを、思う存分愛でてしまいたい。
 たったこれだけの言葉で、真っ赤になってしまう初心さが、なんでこんなに、艶っぽく見えてしまうんだ……。

 握られていた手を、指を絡める形に握り直した。
 だけどそれだけではこの高まってしまった気持ちが抑えられなくて、その手を引き寄せる。
 少し体制を崩して傾いたサヤを、身を起こして受け止め、身体ごと腕に抱き込んだ。

「ありがとう。怒ってくれて……」
「…………近い……」
「駄目?」
「…………駄目とは、言うてへん……」

 後ろから抱いている状態だから、サヤの表情は見えなかったけれど、いつもより赤みの強い耳や首元を見れば、彼女がどんな風になっているかなんて一目瞭然。
 あぁ、この人を早く、自分のものにしてしまいたい……。

「そんな風に言ってくれる人がいるって、幸せだ」

 そう言い、握る手の甲に唇を押しつけると、キュッと手が握り込まれた。緊張して力が入ってしまったんだろう。
 手の体温も、上がったかな……、口づけで、ここに熱が集まってしまったみたいだ。

「まだ慣れない?」
「慣れようがない!」
「そっか。じゃあもっとしなきゃね」
「な、なんで⁉︎」
「まだ足りないから、慣れないんだと思う。
 習慣化すれば、だいたいなんだって人は慣れるよ」

 ちょっとした悪戯心でそう言うと、更にサヤの耳は赤くなった。
 怖がってない……。恥ずかしがっているだけだ……。そのことがより一層、気持ちを高揚させる。
 興に乗って、もう一度手の甲に口付けしたら、んっと、上ずった声。

 …………駄目だこれは。サヤが慣れる前に、俺の忍耐が焼き切れる……。
 不埒なことをしてしまう前に手を話すべきだな。うん。自分の忍耐力を過信してはいけない。結構ポカもやってるし……。

 むくむくと膨れ上がってくる不埒な欲求を押さえ込んで、笑って誤魔化すことにした。
 充分元気はもらった。うん。もう大丈夫。

「ははっ……冗談だから……」

 けれど、そこに被さってくる、少しキツめの、サヤの言葉。

「慣れんでええの!    当たり前にならん方が……ずっと、嬉しい」

 ……っ。

 腹部に腕を回して引き寄せ、極力身体を密着させた。
 肩に顎を乗せて、力一杯全力で抱きしめることで、気持ちを抑え込む。
 今顔を見てしまったら、きっと我慢の限界を超えてしまう……っ。

「そういう可愛いことを、不意打ちで言わないでくれ……」

 ほんと、お願いします……。
しおりを挟む
感想 192

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

【改稿版・完結】その瞳に魅入られて

おもち。
恋愛
「——君を愛してる」 そう悲鳴にも似た心からの叫びは、婚約者である私に向けたものではない。私の従姉妹へ向けられたものだった—— 幼い頃に交わした婚約だったけれど私は彼を愛してたし、彼に愛されていると思っていた。 あの日、二人の胸を引き裂くような思いを聞くまでは…… 『最初から愛されていなかった』 その事実に心が悲鳴を上げ、目の前が真っ白になった。 私は愛し合っている二人を引き裂く『邪魔者』でしかないのだと、その光景を見ながらひたすら現実を受け入れるしかなかった。  『このまま婚姻を結んでも、私は一生愛されない』  『私も一度でいいから、あんな風に愛されたい』 でも貴族令嬢である立場が、父が、それを許してはくれない。 必死で気持ちに蓋をして、淡々と日々を過ごしていたある日。偶然見つけた一冊の本によって、私の運命は大きく変わっていくのだった。 私も、貴方達のように自分の幸せを求めても許されますか……? ※後半、壊れてる人が登場します。苦手な方はご注意下さい。 ※このお話は私独自の設定もあります、ご了承ください。ご都合主義な場面も多々あるかと思います。 ※『幸せは人それぞれ』と、いうような作品になっています。苦手な方はご注意下さい。 ※こちらの作品は小説家になろう様でも掲載しています。

私も処刑されたことですし、どうか皆さま地獄へ落ちてくださいね。

火野村志紀
恋愛
あなた方が訪れるその時をお待ちしております。 王宮医官長のエステルは、流行り病の特効薬を第四王子に服用させた。すると王子は高熱で苦しみ出し、エステルを含めた王宮医官たちは罪人として投獄されてしまう。 そしてエステルの婚約者であり大臣の息子のブノワは、エステルを口汚く罵り婚約破棄をすると、王女ナデージュとの婚約を果たす。ブノワにとって、優秀すぎるエステルは以前から邪魔な存在だったのだ。 エステルは貴族や平民からも悪女、魔女と罵られながら処刑された。 それがこの国の終わりの始まりだった。

愛する貴方の心から消えた私は…

矢野りと
恋愛
愛する夫が事故に巻き込まれ隣国で行方不明となったのは一年以上前のこと。 周りが諦めの言葉を口にしても、私は決して諦めなかった。  …彼は絶対に生きている。 そう信じて待ち続けていると、願いが天に通じたのか奇跡的に彼は戻って来た。 だが彼は妻である私のことを忘れてしまっていた。 「すまない、君を愛せない」 そう言った彼の目からは私に対する愛情はなくなっていて…。 *設定はゆるいです。

処理中です...