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閑話 過去の枷 2
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言葉をそのまま鵜呑みにした。
急いでいるんだ。……と。そう言う男を駅に案内するため、慌てて学校を出た。
場所は知っていたから、教えてあげられると、何の疑問も抱かずに。
行事ごとの最中だから、子供と歩く男性を訝しむも者もなく……あっさりと校門を抜けてしまえた。
「学校を出たら、手を掴まれて、進もうとしたんと違う方向に引っ張られて……一番近くの路面電車やのうて、JRの……もう少し大きな駅やって、言われた」
地理に疎いはずの男が?
だけどそこでも、急ぐと言う男に急かされて、疑問に思うことができなかったと、サヤは呟いた。
「それよりも、知らへん大人の男の人と、手を繋ぐことになってしもうたから……その違和感というかな……そっちの方が、気になって、なんとのぅ……気持ち悪いなって、その時初めて感じた」
ぞわりと背筋が泡立つ。
サヤが今話そうとしていることが何か分かって、その内容の危うさにだ。
拐かされかけたのは、十歳の頃と、サヤは言っていた。ならばカミル程の年齢……。孤児らにも、その年齢の女児は多数いた。
まだ子供だけれど、幼子といわれる域は脱し始めた頃合い。少しずつ、女性らしさが見え始める年齢だ……。
まだ全然、大人の力になど、抗えるはずもない…………。
「さっと行って、すぐに戻るつもりやった……。おばあちゃんと、お弁当を食べる予定してたから……。
うちの両親は、この時も仕事やってな……日本におらへんかったし、運動会にはおばあちゃんしか、来てへんかった……」
「サヤ……っ」
「大丈夫。まだ、平気」
俺の手の甲に触れるサヤの手が、いつしか氷のように冷たくなっていた。
冷え切ったそれを、少し躊躇ってから……俺の手で包み込み、握り締めた。
「そっちやあらへんのにって、思うたんや。でもそれを口にする勇気は、その人を見上げたとたん、失くなっとった……。
路地に入ったら、手ぇを、余計にきつう握られて、道が分からへんはずやのに、こっちの方がええんやって、笑って言われて……怖くて返事ができひんかったん。
その笑った顔が、ものすごぅ、怖ぁて……目が、なんや、全然、笑ってへんかって…………」
そこで言葉を飲み込んだサヤに、もう良いと、言おうか迷った。
無理に話さなくて良いと、なんなら一生話さなくても良いのだと。
教えてほしいと言ったけれど、それは別に、サヤの過去を暴きたかったのではない。ただ、泣き言を封じてしまい、不安も寂しさも口にしないサヤを、その苦しみから解放したくて……っ。
だけど、それでも話そうとしているサヤを、受け止めるべきだと思い直した。
腹の底に溜め込んだ重い毒。
それを今サヤは、初めて吐き出そうとしているのだから。
「怖かった。なんも言えへんままに、引っ張っられるままに進むしかのうて。
叫べば良かった。嫌やって言えば良かったのに、頭ん中はどないしようばっかりで……。どないしよう、どないしようって、それだけ繰り返してた。
いつの間にか、周りが木ばっかりになってて……そ、その人がな、もう少しやからって、手を離して……ホッとした隙に、今度は、肩を掴まれて……。
手が、首や、肩や、背中を、撫でるみたいに……っ、私はっ、怖ぁて、何されてるんか、理解できへんで、ただ、言われるままに、歩いて」
震えるサヤに、触れて良かったのか……。
だけど、恐怖を吐き出すサヤを、ただ一人戦わせておくのが苦しくて、助けを求められている気がして、サヤの手を握るのとは逆の手を、身体に回し、抱きしめた。
「撫でられてる、うちに……急に、私の腕を、引っ張って、私に、抱きついてきて、首、首に……ヌルって変な、感触……って、頭が、真っ白になって、ガサガサしたものが、足や、あ、足の間……にっ」
喉を詰まらせたサヤを、歯を食いしばって、必死で抱きしめた。
心の中では、その男に剣を突き立ててしまいたいと、本気で考えていた。
もう、もうそれ以上はやめてくれ。お願いだからと、必死で懇願した。
早く、早く来てくれ、カナくん……カナくん、お願いだから!
「その辺りの、記憶は……なんや、ちょっと飛んでて……けど、一瞬だけ。そない、たいした時間やなかったと、思う……。
急に、手が後ろに力いっぱい、引っ張られて……あまりに急で、地面、滑って……、体操服……足、出てたし、肘も、頬も……凄い、擦りむいて……」
けれど、その痛みで頭が一瞬冴えた。はっきりと情景を記憶したのだと、呟くように、言った。
お前っ、こいつになにしてんねんっ‼︎
「男の人は、びっくりした顔、しとって、私の、半歩前には、男の子の、後ろ姿。私を庇うみたいに、立ちはだかっとった……」
その後はやはり、記憶が曖昧になるのだそうだ。
絵を繰るように、記憶の場面が移り変わると言った。その男が慌てて逃げようとすることや、急に大人の怒声が響いたことや、何故か視界にお巡りさんがいたり、担任がいたり、保健室であったり、車の後部座席であったり、祖母に抱きしめられていたり……何かの建物の前に、立っていたり……。
ぼやけた頭のまま、どこかの椅子に座っていたら、スーツ姿の怖いおじさんに呼ばれ、祖母と共に、小さな部屋に入れられたという。
「そこが、また、怖かった……。多分、警察署……。部屋の窓に、鉄格子がはまってたから、事情聴取するための、部屋やったんや思う。
おじさんは、刑事さん……衛兵、みたいな役割の、人やったし、本当は、怖がらんで、ええ相手やった、はずなん……。
でも、その人、が、怖い顔で、言いたくないことばかり、聞いてきた……お、おばあちゃんの、前で……っ。どこを、どんな風に、何回っ触られたか、何を、言われたか、あ、相手は、こう、言うてるけど、本当か…………っ、こ、こんなものを、持ってたけど、見たか、つ、使われたか……って……。
普通は、女性の刑事さんが……でも、なんでか……人が、いいひんかったんか……子供やったから、か……。
言われへん……おばあちゃんの前で、そんなん……せやから、必死で首を横に、振って、全部の質問、やり過ごして……嘘でも、全部、認めたら、あかんって……知られたくないっ、おばあちゃんが、もっと、苦しい顔になる、びっくりした顔になる……!」
あぁ、分かった……。嘘をついたから……本当のことを認められなかったから……サヤは余計に苦しくなったのだ……。
辛い経験を、更に嘘を重ねた罪悪感で押し固めてしまったのだ。
両親から娘を預かっている祖母が、唯一身近な身内だったのに、その人を悲しませること、苦しませること、責任を感じさせてしまうことは、できなかった。
傷付けられたことを、知られてはいけないと、思ってしまったんだ……。
「その時の擦り傷が、結構酷くて……何日も学校、休んでるうちに、行けへんくなってしもうた。
更に後んなって……その時助けてくれたんが、カナくんやったって、知った……。
保育園では虐められてて……小学校に上がってからは、疎遠になってた。クラスも違うたのに……私の両親が、日本にいいひんことは、覚えてて……大人の男の人と、手を繋いでた私を、変やって、気付いてくれて……別の子に、先生を呼ぶように言うてから、追いかけてくれてたって……。
途中で見失って……でも、諦めへんと、探してくれて……大人がまだ、駆けつけてへんかったのに、子供やったのに……私を、助けてくれた……」
カナくんに、嫉妬以外の感情しかないなんて初めてだった。
あぁ、確かにカナくんは、サヤの騎士だったのだと、それが本当に、有り難く、申し訳なくて……。
今までずっとカナくんを、悪者にしていたことを、サヤに本当のことを伝えなきゃならなかったのに、伏せていたことを、心の中で謝罪した。
「服装は、乱されてへんかったから、その時は、服の上から触られただけ……たった、それだけやのに、私……」
「サヤ、カナくんの、名前を教えて」
サヤの言葉を遮った。これ以上はもう良いと思ったのだ。サヤが穢されていたとしても、俺は彼女を娶ったし、それがサヤの価値を損なうだなんて風には、思っていない。
まだ震えている彼女に、これ以上無理をさせたくなかったし……それに……今伝えなければと、心に決めたから。
「カナくんの……?」
「名前の全部が、知りたい。サヤの恩人だ……教えてほしい」
「…………都築……要」
「ツヅキカナメ……そうか。だから、カナくん……。良い名だね。……格好良かったの?」
「…………べ、別に……普通……。ちょっとチャラい感じ」
「チャラい?」
「カッコつけてるって意味! 髪、茶色っぽく染めてたくせに、地毛って言うてたし!……意地悪いのに、クールって、女子には結構……ゴツゴツしてるだけやのにっ、体鍛えてるの、ストイックって……」
モテてたんだ。
悪く言っているつもりで、カナくんを褒めてるだけになってるサヤ。
一番嫌な記憶から視線を逸らしたお陰か、少し震えも治った。そのことにホッとする。
だけど、サヤの、貶してるのか褒めてるのか分からないカナくんの話を聞いているうちに、サヤの表情はまた翳り、言葉は萎んでいった……。
「も、もう、カナくんのことは、良い……?」
俺に説明するために、辛い記憶を、また引いてしまったんだね……。
カナくんに、嫌われていると誤解しているサヤは、大切なカナくんの記憶を罪悪感と苦しみで、歪めてしまっているから……。
もう一度、しっかりと抱きしめ直したら、サヤはされるがまま、俺に寄りかかって、窓の外の夜空を見た。
「…………話が、飛んでしもうてた……。
せやしな、レイが、そういう触り方してへんのは、分かってたし……きっとそれで、我慢できた……。
私も……言い方が、悪かった……って、思うし……ちゃんと、思うことを言葉にせな、あかんかったなって、思うしな……。
……婚約の破棄は、お父様に報告してからにする……」
ズキンと、心臓に痛み。
「あっ、違う!
……解消、しようとしてるんや、のうてな……その……あかんって、言わはるかも、しれへんやろ?
その時はちゃんと一回……解消せなあかんって、思う……嘘ついてたんやし、それは、仕方ないやろ?
…………もし、そうなったとしても……耳飾は、外さへんから……それで当面、我慢……かなって」
安堵のあまり、もう一度サヤに口づけしたくなったけれど、それは我慢。
「分かった……」
「それから……子ができるかどうか……も、お父様に伺ってからの、結果次第……。
養子でも、ええって言わはるとは、限らへん。そこは、お互い覚悟、しとかなあかん……。
…………私は……レイが他にも奥さん、貰うようになっても……ちゃんと、おるから……」
そう言われ、胸の痛みはより強くなった。
サヤの決意と、その苦しそうな表情で、それが本当に、本心からの言葉ではないのは、分かっていたし……。
だけど、俺も頷く。
でも、そうならないよう、全力で父上を説得すると、強く心に誓った。
辛いし苦しい……。
だけど、嘘をついていたのば俺だから……。今はその責任を、受け止めなければいけないと思う。
この問題は、ここではこれ以上、対処できないことだから……。
それよりも、今はサヤの心の痛みを取り除くことが先だと、思い直した。
これが、サヤに酷い仕打ちをしてしまった俺にできる、精一杯の償いだと思うし……カナくんに対する、感謝でもあった。
「サヤ……初めてこの世界に来た日のこと、覚えてる?」
一年前だよね……。もう、一年経ってしまった……。
俺の問いに、サヤはふた呼吸だけ間を取って……。
「忘れるわけあらへん……」
そうだよな。運命が変わってしまった瞬間だ。忘れられるわけがない。だから俺も、覚えていた……。
「あの時サヤ……どうして泣いていたの?」
急いでいるんだ。……と。そう言う男を駅に案内するため、慌てて学校を出た。
場所は知っていたから、教えてあげられると、何の疑問も抱かずに。
行事ごとの最中だから、子供と歩く男性を訝しむも者もなく……あっさりと校門を抜けてしまえた。
「学校を出たら、手を掴まれて、進もうとしたんと違う方向に引っ張られて……一番近くの路面電車やのうて、JRの……もう少し大きな駅やって、言われた」
地理に疎いはずの男が?
だけどそこでも、急ぐと言う男に急かされて、疑問に思うことができなかったと、サヤは呟いた。
「それよりも、知らへん大人の男の人と、手を繋ぐことになってしもうたから……その違和感というかな……そっちの方が、気になって、なんとのぅ……気持ち悪いなって、その時初めて感じた」
ぞわりと背筋が泡立つ。
サヤが今話そうとしていることが何か分かって、その内容の危うさにだ。
拐かされかけたのは、十歳の頃と、サヤは言っていた。ならばカミル程の年齢……。孤児らにも、その年齢の女児は多数いた。
まだ子供だけれど、幼子といわれる域は脱し始めた頃合い。少しずつ、女性らしさが見え始める年齢だ……。
まだ全然、大人の力になど、抗えるはずもない…………。
「さっと行って、すぐに戻るつもりやった……。おばあちゃんと、お弁当を食べる予定してたから……。
うちの両親は、この時も仕事やってな……日本におらへんかったし、運動会にはおばあちゃんしか、来てへんかった……」
「サヤ……っ」
「大丈夫。まだ、平気」
俺の手の甲に触れるサヤの手が、いつしか氷のように冷たくなっていた。
冷え切ったそれを、少し躊躇ってから……俺の手で包み込み、握り締めた。
「そっちやあらへんのにって、思うたんや。でもそれを口にする勇気は、その人を見上げたとたん、失くなっとった……。
路地に入ったら、手ぇを、余計にきつう握られて、道が分からへんはずやのに、こっちの方がええんやって、笑って言われて……怖くて返事ができひんかったん。
その笑った顔が、ものすごぅ、怖ぁて……目が、なんや、全然、笑ってへんかって…………」
そこで言葉を飲み込んだサヤに、もう良いと、言おうか迷った。
無理に話さなくて良いと、なんなら一生話さなくても良いのだと。
教えてほしいと言ったけれど、それは別に、サヤの過去を暴きたかったのではない。ただ、泣き言を封じてしまい、不安も寂しさも口にしないサヤを、その苦しみから解放したくて……っ。
だけど、それでも話そうとしているサヤを、受け止めるべきだと思い直した。
腹の底に溜め込んだ重い毒。
それを今サヤは、初めて吐き出そうとしているのだから。
「怖かった。なんも言えへんままに、引っ張っられるままに進むしかのうて。
叫べば良かった。嫌やって言えば良かったのに、頭ん中はどないしようばっかりで……。どないしよう、どないしようって、それだけ繰り返してた。
いつの間にか、周りが木ばっかりになってて……そ、その人がな、もう少しやからって、手を離して……ホッとした隙に、今度は、肩を掴まれて……。
手が、首や、肩や、背中を、撫でるみたいに……っ、私はっ、怖ぁて、何されてるんか、理解できへんで、ただ、言われるままに、歩いて」
震えるサヤに、触れて良かったのか……。
だけど、恐怖を吐き出すサヤを、ただ一人戦わせておくのが苦しくて、助けを求められている気がして、サヤの手を握るのとは逆の手を、身体に回し、抱きしめた。
「撫でられてる、うちに……急に、私の腕を、引っ張って、私に、抱きついてきて、首、首に……ヌルって変な、感触……って、頭が、真っ白になって、ガサガサしたものが、足や、あ、足の間……にっ」
喉を詰まらせたサヤを、歯を食いしばって、必死で抱きしめた。
心の中では、その男に剣を突き立ててしまいたいと、本気で考えていた。
もう、もうそれ以上はやめてくれ。お願いだからと、必死で懇願した。
早く、早く来てくれ、カナくん……カナくん、お願いだから!
「その辺りの、記憶は……なんや、ちょっと飛んでて……けど、一瞬だけ。そない、たいした時間やなかったと、思う……。
急に、手が後ろに力いっぱい、引っ張られて……あまりに急で、地面、滑って……、体操服……足、出てたし、肘も、頬も……凄い、擦りむいて……」
けれど、その痛みで頭が一瞬冴えた。はっきりと情景を記憶したのだと、呟くように、言った。
お前っ、こいつになにしてんねんっ‼︎
「男の人は、びっくりした顔、しとって、私の、半歩前には、男の子の、後ろ姿。私を庇うみたいに、立ちはだかっとった……」
その後はやはり、記憶が曖昧になるのだそうだ。
絵を繰るように、記憶の場面が移り変わると言った。その男が慌てて逃げようとすることや、急に大人の怒声が響いたことや、何故か視界にお巡りさんがいたり、担任がいたり、保健室であったり、車の後部座席であったり、祖母に抱きしめられていたり……何かの建物の前に、立っていたり……。
ぼやけた頭のまま、どこかの椅子に座っていたら、スーツ姿の怖いおじさんに呼ばれ、祖母と共に、小さな部屋に入れられたという。
「そこが、また、怖かった……。多分、警察署……。部屋の窓に、鉄格子がはまってたから、事情聴取するための、部屋やったんや思う。
おじさんは、刑事さん……衛兵、みたいな役割の、人やったし、本当は、怖がらんで、ええ相手やった、はずなん……。
でも、その人、が、怖い顔で、言いたくないことばかり、聞いてきた……お、おばあちゃんの、前で……っ。どこを、どんな風に、何回っ触られたか、何を、言われたか、あ、相手は、こう、言うてるけど、本当か…………っ、こ、こんなものを、持ってたけど、見たか、つ、使われたか……って……。
普通は、女性の刑事さんが……でも、なんでか……人が、いいひんかったんか……子供やったから、か……。
言われへん……おばあちゃんの前で、そんなん……せやから、必死で首を横に、振って、全部の質問、やり過ごして……嘘でも、全部、認めたら、あかんって……知られたくないっ、おばあちゃんが、もっと、苦しい顔になる、びっくりした顔になる……!」
あぁ、分かった……。嘘をついたから……本当のことを認められなかったから……サヤは余計に苦しくなったのだ……。
辛い経験を、更に嘘を重ねた罪悪感で押し固めてしまったのだ。
両親から娘を預かっている祖母が、唯一身近な身内だったのに、その人を悲しませること、苦しませること、責任を感じさせてしまうことは、できなかった。
傷付けられたことを、知られてはいけないと、思ってしまったんだ……。
「その時の擦り傷が、結構酷くて……何日も学校、休んでるうちに、行けへんくなってしもうた。
更に後んなって……その時助けてくれたんが、カナくんやったって、知った……。
保育園では虐められてて……小学校に上がってからは、疎遠になってた。クラスも違うたのに……私の両親が、日本にいいひんことは、覚えてて……大人の男の人と、手を繋いでた私を、変やって、気付いてくれて……別の子に、先生を呼ぶように言うてから、追いかけてくれてたって……。
途中で見失って……でも、諦めへんと、探してくれて……大人がまだ、駆けつけてへんかったのに、子供やったのに……私を、助けてくれた……」
カナくんに、嫉妬以外の感情しかないなんて初めてだった。
あぁ、確かにカナくんは、サヤの騎士だったのだと、それが本当に、有り難く、申し訳なくて……。
今までずっとカナくんを、悪者にしていたことを、サヤに本当のことを伝えなきゃならなかったのに、伏せていたことを、心の中で謝罪した。
「服装は、乱されてへんかったから、その時は、服の上から触られただけ……たった、それだけやのに、私……」
「サヤ、カナくんの、名前を教えて」
サヤの言葉を遮った。これ以上はもう良いと思ったのだ。サヤが穢されていたとしても、俺は彼女を娶ったし、それがサヤの価値を損なうだなんて風には、思っていない。
まだ震えている彼女に、これ以上無理をさせたくなかったし……それに……今伝えなければと、心に決めたから。
「カナくんの……?」
「名前の全部が、知りたい。サヤの恩人だ……教えてほしい」
「…………都築……要」
「ツヅキカナメ……そうか。だから、カナくん……。良い名だね。……格好良かったの?」
「…………べ、別に……普通……。ちょっとチャラい感じ」
「チャラい?」
「カッコつけてるって意味! 髪、茶色っぽく染めてたくせに、地毛って言うてたし!……意地悪いのに、クールって、女子には結構……ゴツゴツしてるだけやのにっ、体鍛えてるの、ストイックって……」
モテてたんだ。
悪く言っているつもりで、カナくんを褒めてるだけになってるサヤ。
一番嫌な記憶から視線を逸らしたお陰か、少し震えも治った。そのことにホッとする。
だけど、サヤの、貶してるのか褒めてるのか分からないカナくんの話を聞いているうちに、サヤの表情はまた翳り、言葉は萎んでいった……。
「も、もう、カナくんのことは、良い……?」
俺に説明するために、辛い記憶を、また引いてしまったんだね……。
カナくんに、嫌われていると誤解しているサヤは、大切なカナくんの記憶を罪悪感と苦しみで、歪めてしまっているから……。
もう一度、しっかりと抱きしめ直したら、サヤはされるがまま、俺に寄りかかって、窓の外の夜空を見た。
「…………話が、飛んでしもうてた……。
せやしな、レイが、そういう触り方してへんのは、分かってたし……きっとそれで、我慢できた……。
私も……言い方が、悪かった……って、思うし……ちゃんと、思うことを言葉にせな、あかんかったなって、思うしな……。
……婚約の破棄は、お父様に報告してからにする……」
ズキンと、心臓に痛み。
「あっ、違う!
……解消、しようとしてるんや、のうてな……その……あかんって、言わはるかも、しれへんやろ?
その時はちゃんと一回……解消せなあかんって、思う……嘘ついてたんやし、それは、仕方ないやろ?
…………もし、そうなったとしても……耳飾は、外さへんから……それで当面、我慢……かなって」
安堵のあまり、もう一度サヤに口づけしたくなったけれど、それは我慢。
「分かった……」
「それから……子ができるかどうか……も、お父様に伺ってからの、結果次第……。
養子でも、ええって言わはるとは、限らへん。そこは、お互い覚悟、しとかなあかん……。
…………私は……レイが他にも奥さん、貰うようになっても……ちゃんと、おるから……」
そう言われ、胸の痛みはより強くなった。
サヤの決意と、その苦しそうな表情で、それが本当に、本心からの言葉ではないのは、分かっていたし……。
だけど、俺も頷く。
でも、そうならないよう、全力で父上を説得すると、強く心に誓った。
辛いし苦しい……。
だけど、嘘をついていたのば俺だから……。今はその責任を、受け止めなければいけないと思う。
この問題は、ここではこれ以上、対処できないことだから……。
それよりも、今はサヤの心の痛みを取り除くことが先だと、思い直した。
これが、サヤに酷い仕打ちをしてしまった俺にできる、精一杯の償いだと思うし……カナくんに対する、感謝でもあった。
「サヤ……初めてこの世界に来た日のこと、覚えてる?」
一年前だよね……。もう、一年経ってしまった……。
俺の問いに、サヤはふた呼吸だけ間を取って……。
「忘れるわけあらへん……」
そうだよな。運命が変わってしまった瞬間だ。忘れられるわけがない。だから俺も、覚えていた……。
「あの時サヤ……どうして泣いていたの?」
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