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閑話 夫婦 13

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 マルのこと……。好奇心を満たすまで、情報を得るだけの相手のつもりだったと、ローシェンナは言った。

「だけどあいつ、私の予想以上に変人で、好奇心の塊だった。しかも知識欲に見境がないじゃない?
 あたしが獣化を初めて見せた時すら、どうやって身体を変形させるのかって、そっちの興味ばかりでねぇ。
 まさか人に、あそこまで無条件に受け入れられるだなんて、想像していなかったから……線を引く機会を逃しちゃったのよねぇ……」

 新たな知識に大興奮してむしゃぶりつくマルと、それに翻弄されるローシェンナ。
 二人の若かりし頃を想像すると、なんだかおかしかった。
 笑えるような気分じゃなかったはずなのに、ささくれていた気持ちがほんの少しだけ、癒された気がした。

「あんな風に獣人を受け入れられる変人、あいつくらいのものだと思ったのに……世の中って本当、予想の上をいくわぁ」
「…………」
「マルクスが、どこで何をしているかは、ずっと知ってた。
 仕事柄、そういうのは調べ易かったから……。それがまた良くなかったのよねぇ。どうしても最後は、あの目に看取ってもらいたいって、思っちゃったの。
 人とか獣とかじゃなく、あたしを見てくれる目で……見てほしかった……。
 それに、あいつがあたしを探していることも、獣人を調べていることも知ってたわぁ。
 どこかで区切りをつけてやらないと、踏み込んじゃいけないところにまで、踏み込んでしまいそうだった。
 だから……ちゃんと踏ん切りがつくように、あたしの最後を教えておいてやらないと……って、そんな風に言い訳して……最後の場所をあいつのところにしようって……選んだの」

 淡々としたその声音では、苦しみを吐き出しているのか、後悔を吐き出しているのか、それともただ思い出を語っているのか……分からなかった。
 岩の上に置かれたの灯りはひとつきりで、ローシェンナの表情は、朧げにしか見えなかったし……。

「そうしたらあいつ、聞いていた以上に壊れてた……。もう、狂ってしまってるのかしらって、何度も疑ったわぁ。
 あたしが死ねば、あいつもコロッと死ぬんだろうって、分かってしまったら死ねなくて……。だからそれだけで、獣人を人と証明するだとか、そんなのはあたし、本当はどうでもよかったの……。
 あたしはあいつより歳も上だったし、種も違う……。だけど、たまに会って、少しだけ一緒に過ごして……死なないよう見張っておくだけなら、許されるかしらって。
 ………………あたしもほんと馬鹿、反省してないわねぇ……」

 種が違う。それは越えられない隔たりだと思っていた。と、ローシェンナ。
 マルはそれを区別しなかった。彼にはそこにある垣根を認識する気が無かった。だから余計に、輝いて見えたのだと……。

 きっとサヤも、そう思っているのだろう。
 俺とサヤの間には、俺には認識できない垣根がある。
 特別な知識を持つサヤにしかそれは、見えやしないのだ……。

 だけどローシェンナは、そうしたらねぇ……と、俺の方を見ずに、ただ闇に染まった空を見上げ……空の向こうの、マルを想って……。

「この村には無いはずのものが、あったの……。
 ノエミを獣人だって、当然理解して、結婚したホセ。生まれたロゼ……。こんな境遇で、それでも幸せそうに笑って暮らす……。姿すら違うのに。
 当たり前の家族みたいにするのよぅ、あの二人。ノエミの頬にね、口づけするのよ、ホセは。
 レイルを愛しそうに見つめるの……。獣の姿なのに……全然気にしない。
 サナリを抱いて、自分と瞳の形が似てるとか、口元がノエミに似てて可愛いとか言うのよぅ。
 そんな様子にね、初めは戸惑いしかなかったわぁ。そんなわけない、あるはずないって……でも…………」

 あそこには、幸せしか、ないの……。

 そう吐き出したローシェンナ。
 泣くのかと思った。だけど、彼女の瞳は涙を流さなかった……。

「手を汚す前に願っていたら……あたしにもあったのかしら……」

 マルとの先が……あったのかしら……と、そう言っているのが、手に取るように分かったら……黙ってなど、いられなかった。

「マルは、今だって貴女しか、見ていないよ」

 手を汚したとか、そんなこともマルは、全然見ていない。

「あいつは、あたしとの先なんて、考えてすらいないわよぅ」
「それはそうだよ。貴女が望まないのに、それをマルが望もうとするわけがない。
 マルは貴女が良ければ良いと思ってる。貴女がおばあちゃんになるまで、それなりの距離を保ちつつ近くにいる。それが貴女が許してくれた距離だから。それであいつは満足なんだ。
 マルは……サヤに平気で交配とか、孕むとか、とんでもない言葉を使う……。だけど貴女に対しては言わないでしょう?
 あいつは貴女の全部を知ってる。貴女の知らない貴女だって知ってるんだ。
 貴女に家庭を匂わせることは、しないよ……。
 貴女が傷付くことを、貴女に向かって言うわけがない。苦しむことは、当然排除するんだよ、徹底的に」

 俺の根幹にサヤがあるように、マルの行動理由は全て、ローシェンナなのだ。
 だから、ローシェンナを苦しめるようなことを、あいつはしない。ローシェンナには、家庭を拒む気持ちがあるって分かっているから。

「なのにあいつは、貴女の望まないことをひとつだけ、譲らない……。
 獣人を人だと証明する。それだけは、きっと貴女が何を言っても譲らないよ。
 何故だと、思う。どうしてそれだけ、譲らないのか……」

 急に畳み掛けるみたいに喋り出した俺に、ローシェンナはびっくりしたのだろう。
 瞳を大きく見開いて、寝転がったまま、俺を食い入るように見ていた。

「俺も、マルと同じ風に思うから、あいつの気持ちがよく分かるよ……。
 マルが譲らないのは、貴女の隣に、並びたいから……。
 貴女がマルを、自分と同じだと思ってくれないから……同じだって、分からせないとって、そう思っているからだ……」

 言葉で伝えたって、無意味だと理解しているのだ。
 だから、貴女ひとりを納得させるために、世界を動かそうとする。

「あんな自分勝手な男が、獣人を人と認めさせるなんてことを、世を正すためにしてるわけないでしょう?
 元から、貴女の名誉を回復するためだけに始めた戦いなんだよ。
 全部、貴女ひとりのため。そして貴女を納得させるためなんだ。
 だけど、今は少し違うかな……。貴女は貴女ひとりだけの納得では、幸せになってくれないから……貴女の吠狼かぞくも幸せにしなきゃと思ってる。
 変人だけど、懐は本当に深いから……なんというかこう……ほんと変人だけど……」

 結婚とかはどうでも良いのだ……。あいつは、そういう枠で考えてない。
 ローシェンナが大切にしているものが、あいつにとっても大切ものなのだ。
 あまりに荒唐無稽な話にぽかんとしてしまっているローシェンナ。嘘みたいだけどね、これは本当だよ。
 だってマルが俺と共闘すると決めた時、あいつははっきり、自分の目的は、貴女の名誉を回復することだと、口にしたからね。

「それに俺、前に一度だけ、マルの本音を聞いたことがあるんだ。
 サヤが俺の婚約者に定まった時、サヤには、幸せになってほしいって。……種の違いなんかに、煩わされてほしくないって……」

 あの時感じたのだ。
 これは、マルの願いなのだと。マルの、ローシェンナに対する想いなのだと。
 種に煩わされてほしくない……あれがマルの本音だ。

「…………俺は、マルみたいに無欲にはなれない。一緒に生きるという確約が欲しい。俺とサヤがちゃんと繋がってるって分かる約束が。
 俺は自分に自信がないから……共にあるだけじゃ、不安で立っていられない……。
 いつでも触れられなきゃ、確認できなきゃ、怖い。俺は本当に矮小な人間なんだよ。
 喜んでほしい人が、幸せだって思ってほしい人が、隣にいてくれなきゃ……サヤが、俺の隣で笑ってくれなきゃ……俺は、なんのために…………」

 なんのために、頑張れば良いのか、分からなくなる……。
 だってな……自分の幸せを考えてなきゃ駄目だって……俺も幸せにならなきゃ駄目だって、サヤが言ったんだ。

「俺が幸せだって思うためには、サヤが必要なのに……サヤにそれが、伝わらない……。
 サヤと出会うまで、俺には何もなかったんだ……。俺は世界の何とも、歯車を噛み合わせずに空回りしてたんだと思う。繋がれば壊される……そう思ってたしね……。
 越えられない垣根は、俺を取り囲んでた……俺は息をすることすら、苦しかった……。
 それが、サヤと出会ってから、世界が変わったんだ……。越えられないと思ってた垣根が、ただ線を引いただけだったみたいに、脆くなった。
 そこを越えたら、景色が色付いたんだ。音が増えた。色んなものが、美しく感じる、大切に思える。同じものを見て生きてきたはずなのに、まるで変わったんだ。それこそ、異界に来たくらいに、俺の世界が変わった……。
 豊かになった。大切だって思えるものが、愛しく感じれるものが、どんどん世界に増えていくんだ。それを恐れなくて良い……怖がらなくて良いんだ!
 だから今は、サヤだけじゃない。たくさん大切にしたいものが増えた。義務や責任としてじゃなく心から、ハインやギルや、ここのみんなのためにも頑張りたいって思えるようになった。
 だけどそれはやっぱり、サヤがそう思う心を、俺に与えてくれたから、支えてくれるからなんだ……。
 俺もサヤを支えたいと思うから、強くなりたいと思うんだ……。サヤの幸せのために、自分や周りの全てを幸せにしたいと思えるんだ。
 全部サヤがいてこそなのに……それが、伝わらない……俺の幸せは、全部根幹に、サヤがあるのに……っ」

 俺が世界を愛するためには、サヤが必要なんだ。

「血のためとか、家名のためとか、俺にはそれじゃ駄目なんだ。
 義務や責任としてじゃなくて、心から愛したい、大切にしたいって、思えるんだよ、サヤといれば……」

 サヤが俺の世界の鍵なんだ。

 俺は、鎖で雁字搦めだった俺を、解き放ってくれたサヤこそを愛したいんだ。俺の手で幸せにしたいんだ。そのためにこの世界があるんだとさえ、思うのに。
 俺の全てをそのために捧げたって良いとすら、思うのに……。

「………………ですって、サヤ」
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