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研磨

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 赤縄の中がとうとう空になるかもしれない。
 その報告に、俺たちは安堵の息を吐きかけ、いや、まだだと気持ちを立て直した。

「あと三日……あと三日は、気を抜くな」
「そ、そうですよね。まだ、まだ分かりません……」

 荊縛の感染力が強い期間というのがある。
 熱が引いてからも十日間はその期間と定めてあるが、このふた月近くの間、記録を取り続けた結果、実際の感染力は七日間ほどでほぼ機能しなくなると出ている。
 とはいえ、楽観しては危険なのがこの病だから、十日間の隔離を継続してきた。
 後三日だ。それで、赤縄の中の者は、皆解放されることとなる。

「良かった……サヤが飛び火しているし……ジェイドやユストにもするのじゃないかって気が気じゃなかったから……」
「まだ気を抜くべきではないと言った先から抜いてますが」
「……ちょっとくらいは許してくれ……」

 ハインに上げ足を取られて渋面になる俺を、皆が笑って見てる。
 どちらにしろ、皆安堵しているのだ。もうほぼ、問題は無い……と、思えるのだものな。

「では、三日後の終息をあてにして、僕は荊縛資料のまとめに入りますねぇ。
 んっふふふ、地方行政官の成果のひとつですよ、これもね。畳み掛けろと言われましたからねぇ。
 越冬の食料確保としての干し野菜提案に、荊縛の対処法、手押しポンプに、数多の生活用品……。たった半年足らずでこれだけすれば姫様も納得してくださいますよねぇ」

 とてもご機嫌にマルがそう言い、紐で括られた紙の束をどっこいしょと運んでくる。
 いや、それ全部を業績として叩き出そうとしている君の肝の太さが凄いと思うんだ……。分野問わずになんでも推すあたりが……。
 半ば呆れていたのだが、その様子を見ていたサヤが「マルさん」と、机脇の木箱を漁りつつ、呼び止めた。

「どうしました?」
「これ、使ってみませんか?ファイルの試作品なんですけど、ふた穴式にしてみたんです。
 記録を日にち順に閉じていけば、荊縛の飛び火や患者の推移がこれ一冊にまとまります。同じ資料をひとまとめにするのに便利なんですよ」
「え?    記録に表紙を付けるんですか?    なんでまた?」

 革の表紙と、紐だ。紐を通して括るだけの簡単な構造で、どんな意味があるのかいまいち釈然としない……。そんな表情のマルを、まぁまぁと宥めすかしてサヤは、資料の一部を取り、一番上の一枚だけを半分に折り、上部に少しだけ印をつけた。
 そうしてから、木箱の中を漁って、何やら金属と木材で作られた小物を取り出し、机に置く。
 それに紙の束を挟み、取っ手を引き下ろすと、重ねられた紙に均一の穴が穿たれ…………はぁ⁉︎

「これで、この紐に通して纏めます。中に当て板を挟んでありますから、穴が裂けてしまいにくくて……」
「その穴開けたのは何⁉︎」

 慌てて問いただすと、均一の場所に同時に穴を穿つための道具なのだという。原理は簡単ですよと平気な顔をして言われたっ⁉︎

「穴あけパンチって言うんです。バネで跳ね上げるようにしてあるだけの簡単な構造ですよ。
 目打ちで穴を開けるのでは、場所がズレてしまいがちですし、裂けやすいでしょう?
 この中心の印に折った印を合わせれば、丁度均等に穴が開くようにしてあるんですけど、それがこのファイルの紐通しと同じ間隔になってるんです」

 なんでもないことのようにサヤが言う。それよりも、革のファイルというものが紐で括る形であることがいまいち納得いかないのだと話す。金具に通す形にしたかったが、まだ金具の形が上手く再現できないらしい。
 ただ俺たちからすれば、この穴を開ける道具が既にとんでもない代物だと思えた。
 大量の紙を一度に処理できる道具……。そもそも識字率も低く、大量の紙を使用するという場がなかなか少ないこの国において、それが必要とされているのは貴族や大店など、金の巡る場だ。目打ちで穴を穿つのは、地味に手間だし、まとめる紙が増えれば一度に処理することも難しくなる。だから多分、印に合わせるだけで、同じ場所に穴を空けられる道具は、きっととても重宝される。

「効率化民族の本領発揮ですねぇ……」

 マルですら呆然とそう呟く始末ですよ⁉︎

「少量を纏めるならクリップが便利なんですけど、どれも名前が馴染まないと思うんですよね……」

 いや、名前とか今は、どうだっていいから……。

「金の成る木ってまさかの人型かよ……」

 同じく貴族出身であるオブシズにもことの重大さは伝わったらしい。
 学舎出身者は総じて呆然としていた。
 まさか貴族相手の商売を始める気なのだろうか……?

「これ、秘匿権管理に良いと思うんですよね。
 似た用途のものや、職業別にまとめておけば、新しい品に挑戦しやすいかと。難易度別に仕切りを挟んでも良いと思うんです」

 ちょっと待って。

「もしかしてこれ、全部ここの、仕事道具……?」
「はい。書類の処理が格段に増えていましたから、必要かなって思ったんですけど……駄目でしたか?」
「図面と用途を見せてもらった時は、秘匿権に被らないことだけにしか注意を向けてませんでしたし……まさかこんなものだと思いませんでしたねぇ」

「なんというか、頭の構造の差ですね」と、マル。
 そもそもの発想が無いのだ、我々には。作業を効率化できるかもしれないという感覚が。
 ちゃんとできるのだからそれで良い。そこにどれくらいの時間を費やしているかは気にしない。
 多少不便を感じても終わればもうどうでもよくなる。大抵がそんな感じ。
 彼女の中では、そうではないのだろう。

「……うん。とても良いと思いますよ。確かにね。
 僕なんかはどこに何があるかとかはある程度覚えてられますけど、普通の人は無理でしょうし」
「うん。無理だね」

 マルの頭に入っている分量、尋常じゃないし。

「目的の書類が二百五十八枚目とかになってくると数えるのも億劫ですもんね。目打ちで穴を開けていくのも面倒ですし……綴じてあればめくりやすいです」
「……………………」

 マルの水準が遠い……。

 とりあえず荊縛関連はこの一冊に纏めてみようとなった。物は試しだ。
 紙を幾度かに分けて穴を開け、紐に通していく。位置さえズレていなければ、必ず同じ場所に穴が開いた。素晴らしい……。
 ふた月近くにも及ぶ書類は枚数にして二百枚弱あったのだが、それは一冊のファイルに、美しく収まった。

「うん。これは綺麗にまとまりますねぇ」
「シールや付箋がありませんから、糊付けになりますけど、見出しをこんな風に……紙に挟んで貼り付けておけば、ここからはこの項目って分かりやすいです」
「細かい!    けど分かり易い!」
「なぁ、ここの穴の部分の紙はどこに行った?」

 不思議そうにオブシズがそう聞くと……。

「あ、パンチの底がスライド式……えっと、横にずらせるんですけど、ここに溜まってます」
「……一切の無駄が無い…………」

 ゴミすら出さないとか……。凄まじすぎて、もう何も言えなかった……。

「これだけの機能を掌に収まる大きさにしますか……」
「もっと大きくすれば、もっと大量の紙を扱えるようにもできますけど、今はこれくらいで充分かなと思って」

 今は。
 つまり、これよりさらに先だってあるのだな……。

 場を震撼させていることなど気付きもしないといった様子で、サヤは「革張りのファイルも格調高くてかっこいいですよね」なんて言ってる。
 彼女の国は、こんな、ちょっとしたものまで熟考され尽くし、洗練された国なのだと、改めて理解した。
 俺たちが研磨前の短刀なのだとしたら、サヤの国は、触れるだけで切れてしまう程に研ぎ澄まされているのだろう……。

 そんな感じで、ただただ驚いていたのだけど……。

「あと、やっと形になったのがもう一つ。これなんですけど」

 そう言いつつ取り出されたのは、薄い木箱。
 蓋を開けると中には綿が入れられており、その中に幾本かの硝子棒が並んでいた……。

「……複雑な形の硝子棒?    だけど……これは?」
「筆です。ガラスペンっていいます」

 筆⁉︎

「金属のペン先を作りたかったんですけど、越冬中は色々火力的な問題が……燃料の木炭にも限りがありましたし……。それならと思ってこれを。
 硝子なので、強度がちょっと心配なんですけど……木筆より断然、書きやすいかと思います」

 毛筆を硝子で再現したような形は、確かに筆なのだと思うが……穂の部分まで硬いわけで、それでは書きようがないように思うが……。
 そう思ったのだが、サヤはその中の一本を手に取り、木筆同様墨壺に先を浸けた。
 取り出すときに、墨壺の縁にそっと慎重に、穂先を当てたが……。

「……え?」

 取り出された穂先は、墨が纏わり付くようにして、柄になっていた……。

「毛細管現象……っていうのを利用しているんですけど、この溝に墨が吸い上げられるんです。
 木筆より長い間、墨を付けずに書き続けることができるんですけど……硝子なので、割れやすいんですよね……。適当に墨壺に突っ込むなんてことはできません。
 はじめは力加減にも気を使わなければならないと思うんですけど、筆自体はとても滑らかに動きますし、扱いやすいと思います。
 あの、本数はあるので、皆さんでそれぞれ、試してみてください。
 あっ、先が特に欠けやすいので、扱いは慎重に。ペン先を浸すだげで、墨を吸い上げますから」

 サヤに言われるまま、その硝子棒を一本手に取った。ちょっと考えて……墨壺の蓋をひっくり返し、そこに墨を入れる。どんな風に吸い上げるのか、見てみたかったのだ。

「うわっ、ホントだ、吸い上げる……⁉︎」

 先を少し浸しただけなのに、透明な硝子に黒い筋が何本も現れた。

「書き方は、筆と同様です。まっすぐ立てるよりは、少し寝かせた方が墨の出が良いです。
 書いていくうちに溝の墨が薄くなりますから、そうしたら次の墨を補充してください。
 まだたくさんあるのに掠れる時は、少しだけ筆を回すと書けます」

 そんな助言のもとそれぞれが好きに書き始めたが…………。

「…………なくなりませんね……いつまでも書けますよ」
「墨の出も一定ですね……太さが乱れません。どの方向にも動かしやすいというか、滑らかに動きます」
「え……何だこれ……え⁉︎    ちょっと待て、これとんでもないんじゃないのか⁉︎」
「オブシズ、ここ、そのとんでもないが連発されるから、そろそろ慣れないと頭皮に負担が掛かるぞ」

 長屋でそのとんでもないの連発を日々見ている様子のエルランドが、なにやら達観している……。

「…………うん。とんでもない」

 信じられない。一度墨を付けただけなのに相当書けた……。
 木筆なら墨壺と紙の上を十往復以上しているだろう。

「その墨壺と紙の往復回数分、時間が短縮できますし、イライラも減りますよ」
「効率化民族ってどんな頭しているんだ⁉︎」

 そこはほら、多分考えても分からないからね、保留。
 まだ頭がついてこないオブシズに、皆が同情的だ。
 これは相当凄いと分かったけれど、では置く時どうするのかという問題があるわけだが……。
 木筆は墨壺に突っ込んでおけば良い。だけどそれをすると筆先を割ってしまいそうだ。

「投げ込んだりしなければ大丈夫ですけど、筆置きを用意してあります。
 ですが……小皿にくぼみをつけて、そこに立てかけて置く方が良いかも……。
 レイシール様みたいに、小皿の墨を吸い上げてもらう方が、筆先を傷めませんし、墨をつけすぎずに済みそうですね。
 筆置きと墨入れの小皿を一体化させたものを考えてみます」

 どこまでも妥協しないサヤの発言に、俺たちはもう呆れるしかない。

「別々じゃ駄目なの?」
「道具が沢山必要だとかさばるじゃないですか。片付けるものも増えますし、手間ですよ」
「……オブシズ、こういう思考が必要らしいよ」
「これも勿体無い精神ってやつなんですかねぇ……」

 なんかこう、俺たちの中ではもうこれは、こんなもんだ。という感じです……。
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