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獣 10
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「……獣人って、どんな人種なのでしょう。
ハインさんが、死んでしまいたいと、思うようなものなのですか。
私、ずっとそれが、気にかかっていて……獣って……どういう意味ですか」
ああ、やっぱり。
サヤには聞かれているかもしれないと思ってた。
俺の寝言にすら起きて、部屋から駆けつけてくれる娘なのだものな。
心優しい彼女が、ハインの事を気にしない筈が無い。
天井を見上げると、昨日の小刀がまだそこに刺さっている。あれでハインは、咄嗟に首をかっ切ろうとしたのだ。俺が、ハインを獣人だと、知った瞬間に。
うん……一連のことが片付いてからと思っていたけれど……そこまで待てないってことだよな……なら、今話すか。
「……前から、刹那的だなとは思ってたんだけどね……。死のうとしたことも、今思えば二度程あるかな。あの時は、気付けなかったのだけど、今考えると、多分そうだったんだろうなって」
一度目は、俺を刺した時。二度目は、俺が学舎を辞める時。積極的では無かったけれど、可能性としては低くなかった。通常、貴族を刺せば、切り捨てられても文句は言えない。そして、二度目の時は、俺が要らないと言えば、あいつは本気で、死ぬ気でいたのだし。
「まさか獣人だとは、考えもしなかったな。
でもまぁ、知れば……そうならざるを得ないのも、分かる気がするよ……」
死んでしまいたいと思う程、彼にとっては受け入れられないことなのだと思う。自分が獣人であるという事実が。
隠していけるなら、ずっとそうしていたかったろう。
けれど、知られてしまうと同じくらい、苦しかったのじゃないかとも思う。自分を認めず、目を背けたままで生活することは。
隠したまま、バレないように気を張り詰め、ただ俺に尽くす日々は。
「獣人は、災厄の象徴とされていてね……人じゃない。獣なんだ。
えっとね……二千年前に、大災厄と言われた大戦があった。人と、獣人が争ったんだ。
本当に酷い争いで……あまりの凄まじさに、大地は裂け、海は荒れ、空から太陽も月も去ったとすら言われてるよ。文明は白紙に戻され、獣人は滅び、人も滅びかけた。
獣人は悪魔の使徒として……頑強な肉体と、牙と爪を使い、人を八つ裂きにし、噛み千切り、その血に酔って笑い、咆哮をあげたと言われている。大災厄のことを、終焉の宴と呼んだりもするんだ。
まあ、だからその……獣人は、人の血に酔うと思われていてね……恐れられる。
生まれた瞬間から忌避され、売られるか、捨てられるか、殺されるか……。だけど、一度獣人を産めば、血から種が抜けるのか、次に獣人を生むことはないと言われているから……」
「ちょっと待って下さい、滅んだのでしょう? 何故生まれるのですか?」
「……ああ……その……人からね……なんの前触れもなく、子の代わりに生まれるんだよ。
悪魔は、人に種を仕込んでいるとされている……。人が堕落して行き着く先が、獣人なんだ。
前に、孤児について話をしたろう?悪事を働き、魂が汚れ、来世もまた辛い人生を約束される。それを繰り返すとね……穢れきった魂は、人であることが出来ず、獣になると言われてるんだよ。そして、人から赤子の身体を奪って生まれてくる。だから、そうなることが嫌なら……」
「神に、縋るしかない……ですか」
「そう。けど……獣人になったら、もう救いは無いんだ。またいつか、大災厄を狙う悪魔が、機が熟したと判断した時、手駒になる。獰猛な獣に戻り、人を八裂きにし、噛み千切り、血に酔ってまた殺戮に走る。それを恐れられているんだ」
そう。ハインはもう、悪行の限りを尽くした魂を持つ、堕ちた存在なのだ。
「でも、それ……二千年も前の話なのですよね?作り話とか、神話の類なのでは?」
「まあ、作られた部分は多くあると思うよ。
けど……愛した相手の子を孕んだはずが、獣が生まれてくるのだから……真実もあるということだ。
誰もが、獣人を産んだことを隠すから、いったいどれくらい生まれてきているのかは分からないが……」
サヤが視線を落とし、何かを考え始める。
俺も、昨日の気になったやり取りを思い出していた。
番号持ち。
という、胡桃さんの言葉が引っかかるのだ。
それは、何かの組織が絡むという意味だよな。
教信者と表現されたのは、一体どの神の信者だ?どんな神の元にも盲信的な者はいるし、中には過激な思想の者もいるのだが……。どんな神かによって、危険度も変わるしな……。
「レイシール様は……ハインさんが血に酔って、人を襲う……なんてことが、あると思います?」
とても真剣な顔で俺に問われ、まさか。と、笑った。
「それに関しては、本当に迷信だと断言できる。
俺、結構あいつの前で血を流してるからなぁ」
刺されたとき然り、兄上に斬られたとき然り、あの二つが断トツの出血量だったわけだが、あいつは、泣きそうな、縋るような視線を向けてくるか、絶望を振り切るかのように暴れるかだった。血に興味なんて、全く示さなかった。
「見ても反応はない……匂いじゃない?血の味に酔う……ということ?……血の成分で興奮状態になる? 我を忘れてるなら人を襲う……?」
サヤが、ブツブツとそんな風に呟く。その内容に、顔が凍った。
あいつを、疑うっていうのか?
「サヤは、ハインが人を、害するとでも?」
自分が思っている以上に冷たい声音になってしまい、言ってしまった後でしまったと焦る。
ビクッとサヤが身を縮こませたので、慌てて取り繕うこととなった。
「ごっ、ごめん! 思ったより声が低くなって……怖がらせるつもりは……っ」
「あ、いえ。私が、酷い言い方をしたのは自覚してます。
けれどその…私の世界に、狂犬病とか、血にまつわる病がありまして」
病……?
「狂犬病は、噛まれることで、唾液からウィルス……あ、菌が、体内に侵入して、脳が侵略を受けるんです。
その病は名の通り、獣の病なのですが、人にも移ります。菌に侵略されると、狂犬病になった犬は、麻痺して動けなくなるか、獰猛になって、あらゆるものに襲い掛かるんです。発病したが最後、必ず死に至ります。
私の国では、もう長く狂犬病は起きてなくて、無くなっているようなんですけど、外国ではまだ存在してて。噛まれることで移り、また感染を広げるために噛み付くので、人類や、獣人全体を脅かす可能性もあるのかなって。
かつてその狂犬病が、吸血鬼という、血を吸う魔物の物語を生んだともされていて……少し、獣人の言い伝えと似ているなと、思ったんです。
で、でも、二千年前の一度きりであるなら……同じような事件が繰り返されていないなら、病の可能性は低いですよね……もしくは、もう病も絶滅しているかです。そうであれば、もう獣人さんが、怖がられる理由も無くなってるってことになるんですけど……」
ちょっと、勘ぐりすぎな気がしてきました……と、サヤは笑ったけれど、明らかに眉が下がり、笑顔に無理があって、俺は自分が相当険悪な表情で、サヤにあの言葉を吐いたのだと自覚した。そして、サヤを疑ってしまった自分を、恥じた。
手を握ると、ビクリと反応され、更に罪悪感が募る。
「ごめん……怖がらせたね」
「い、いいえ! 私が悪いんです。あの言い方じゃ、ハインさんを疑ってるように、聞こえましたよね!
でも私だって、ハインさんがどういった人かは、もう知ってるつもりです。
その……大災厄にも、きっと何か、原因があるのではないでしょうか。
それが分かれば、獣人さんが虐げられる関係は、変われるのじゃないかって、ちょっと思ってしまって……あっ」
腕を引いて抱き寄せたら、サヤは少し身を硬くした。
けれど、俺がサヤをこうするのは、下心からじゃないと察してくれた様子で、少しずつ、体の力を抜く。
サヤの言葉に、心を打たれ、ついこうしてしまった。ハインを疑ったのじゃなく、獣人が虐げられる原因を、探ろうとしてくれていたのか……と。
そうだよな。この優しい娘が、ただハインを恐れてあんなことを口にする筈、ないじゃないか。
「ごめん……自分ではあまり、気にしていないつもりでいたのだけど……やはりちょっと、張り詰めていたのかもしれない。
サヤがそんな風に考えるはず無かった……。サヤにあたってしまって、申し訳ない。
ハインが獣人だってことは、本当に気にしてないんだ。
けど……なんかさ、信頼してもらえてなかったってことが、ちょっと、辛かったんだよ……。だから、過剰になってしまってた……」
ハインは、咄嗟に死のうとする程に、俺を信じてはくれなかったのだと、心の隅で、ちょっとそう、思ったんだ。
そんな俺の考えを口に出したわけではない。けれど、サヤはそれをちゃんと拾ってくれた。
「……九年は、長いですよ。
ハインさんは、天邪鬼だから……本当は思ってないのに、わざと裏腹なことを、口にされたんだと思います。
だって……レイシール様のことに、あんなに一心不乱になる方ですよ?ただそれだけの感情で、あんな風には、なれないですよ。
それに、ちょっと分かる気が、するんですよね……。
近いからこそ、怖いって、あるんですよ。
今のこの関係を、壊したくなくて、手放せなくて、言おう、言わなきゃと思っていても、言えない……って、思っちゃう感覚」
腕の中のサヤが、少し、身体を俺に摺り寄せた。
なんとなくそれで、サヤのその言葉と感情が、誰によってもたらされたものかを知ってしまい、胸が締め付けられる様な心地を味わう。
「ハインさんは、レイシール様を万が一にも失いたくなくて、人であり続けたかったのじゃ、ないでしょうか。だから、知られてしまった瞬間、大切な記憶を、綺麗なままで残したくて、獣人の自分を、知られないままにしたくて……。
もう一つは、レイシール様を、ハインさんの関わるいざこざに、巻き込みたくなかったんでしょうね。
人が獣人を忌避する様に、獣人も人を、友好的には見ないのでしょうから」
人から生まれるのに、人ではない獣人。
捨てられたり、売られたりした者たちが、人を快く思うわけがない。
「ああ、ハインさんが、手段を選ばないのって……自分はもう穢れきっているからと、そう、思ってらっしゃるから……なのでしょうか……」
そんなわけ、ないのに……。ぽそりとサヤが、零した呟きが、かろうじて俺の耳に届く。
その呟きに、かつてサヤが、病の原因について話してくれた時ことを、ふと思い出した。
菌という小さな生物が、身体に侵入することで病は起こるという。
先程のキョウケンビョウというものも、同じ類である様だ。
サヤの世界では、病は、悪魔の仕業でも、前世や今世の悪行故、招いた結果でもなく、ただ偶然の産物なのだ。
この世界では、神の教えに反する、サヤの世界の理。
ハインは、その話を聞いた後、俺に少しだけ、過去の話をしてくれた。
その時俺は、サヤの話の何かが、ハインを救い上げたのだと感じたのだ。
魂が汚れきって、獣人へと堕ちたハイン。
だけどサヤの言うことが正しいのなら……ハインが獣人であることは、偶然なのだ。
ハインさんが、死んでしまいたいと、思うようなものなのですか。
私、ずっとそれが、気にかかっていて……獣って……どういう意味ですか」
ああ、やっぱり。
サヤには聞かれているかもしれないと思ってた。
俺の寝言にすら起きて、部屋から駆けつけてくれる娘なのだものな。
心優しい彼女が、ハインの事を気にしない筈が無い。
天井を見上げると、昨日の小刀がまだそこに刺さっている。あれでハインは、咄嗟に首をかっ切ろうとしたのだ。俺が、ハインを獣人だと、知った瞬間に。
うん……一連のことが片付いてからと思っていたけれど……そこまで待てないってことだよな……なら、今話すか。
「……前から、刹那的だなとは思ってたんだけどね……。死のうとしたことも、今思えば二度程あるかな。あの時は、気付けなかったのだけど、今考えると、多分そうだったんだろうなって」
一度目は、俺を刺した時。二度目は、俺が学舎を辞める時。積極的では無かったけれど、可能性としては低くなかった。通常、貴族を刺せば、切り捨てられても文句は言えない。そして、二度目の時は、俺が要らないと言えば、あいつは本気で、死ぬ気でいたのだし。
「まさか獣人だとは、考えもしなかったな。
でもまぁ、知れば……そうならざるを得ないのも、分かる気がするよ……」
死んでしまいたいと思う程、彼にとっては受け入れられないことなのだと思う。自分が獣人であるという事実が。
隠していけるなら、ずっとそうしていたかったろう。
けれど、知られてしまうと同じくらい、苦しかったのじゃないかとも思う。自分を認めず、目を背けたままで生活することは。
隠したまま、バレないように気を張り詰め、ただ俺に尽くす日々は。
「獣人は、災厄の象徴とされていてね……人じゃない。獣なんだ。
えっとね……二千年前に、大災厄と言われた大戦があった。人と、獣人が争ったんだ。
本当に酷い争いで……あまりの凄まじさに、大地は裂け、海は荒れ、空から太陽も月も去ったとすら言われてるよ。文明は白紙に戻され、獣人は滅び、人も滅びかけた。
獣人は悪魔の使徒として……頑強な肉体と、牙と爪を使い、人を八つ裂きにし、噛み千切り、その血に酔って笑い、咆哮をあげたと言われている。大災厄のことを、終焉の宴と呼んだりもするんだ。
まあ、だからその……獣人は、人の血に酔うと思われていてね……恐れられる。
生まれた瞬間から忌避され、売られるか、捨てられるか、殺されるか……。だけど、一度獣人を産めば、血から種が抜けるのか、次に獣人を生むことはないと言われているから……」
「ちょっと待って下さい、滅んだのでしょう? 何故生まれるのですか?」
「……ああ……その……人からね……なんの前触れもなく、子の代わりに生まれるんだよ。
悪魔は、人に種を仕込んでいるとされている……。人が堕落して行き着く先が、獣人なんだ。
前に、孤児について話をしたろう?悪事を働き、魂が汚れ、来世もまた辛い人生を約束される。それを繰り返すとね……穢れきった魂は、人であることが出来ず、獣になると言われてるんだよ。そして、人から赤子の身体を奪って生まれてくる。だから、そうなることが嫌なら……」
「神に、縋るしかない……ですか」
「そう。けど……獣人になったら、もう救いは無いんだ。またいつか、大災厄を狙う悪魔が、機が熟したと判断した時、手駒になる。獰猛な獣に戻り、人を八裂きにし、噛み千切り、血に酔ってまた殺戮に走る。それを恐れられているんだ」
そう。ハインはもう、悪行の限りを尽くした魂を持つ、堕ちた存在なのだ。
「でも、それ……二千年も前の話なのですよね?作り話とか、神話の類なのでは?」
「まあ、作られた部分は多くあると思うよ。
けど……愛した相手の子を孕んだはずが、獣が生まれてくるのだから……真実もあるということだ。
誰もが、獣人を産んだことを隠すから、いったいどれくらい生まれてきているのかは分からないが……」
サヤが視線を落とし、何かを考え始める。
俺も、昨日の気になったやり取りを思い出していた。
番号持ち。
という、胡桃さんの言葉が引っかかるのだ。
それは、何かの組織が絡むという意味だよな。
教信者と表現されたのは、一体どの神の信者だ?どんな神の元にも盲信的な者はいるし、中には過激な思想の者もいるのだが……。どんな神かによって、危険度も変わるしな……。
「レイシール様は……ハインさんが血に酔って、人を襲う……なんてことが、あると思います?」
とても真剣な顔で俺に問われ、まさか。と、笑った。
「それに関しては、本当に迷信だと断言できる。
俺、結構あいつの前で血を流してるからなぁ」
刺されたとき然り、兄上に斬られたとき然り、あの二つが断トツの出血量だったわけだが、あいつは、泣きそうな、縋るような視線を向けてくるか、絶望を振り切るかのように暴れるかだった。血に興味なんて、全く示さなかった。
「見ても反応はない……匂いじゃない?血の味に酔う……ということ?……血の成分で興奮状態になる? 我を忘れてるなら人を襲う……?」
サヤが、ブツブツとそんな風に呟く。その内容に、顔が凍った。
あいつを、疑うっていうのか?
「サヤは、ハインが人を、害するとでも?」
自分が思っている以上に冷たい声音になってしまい、言ってしまった後でしまったと焦る。
ビクッとサヤが身を縮こませたので、慌てて取り繕うこととなった。
「ごっ、ごめん! 思ったより声が低くなって……怖がらせるつもりは……っ」
「あ、いえ。私が、酷い言い方をしたのは自覚してます。
けれどその…私の世界に、狂犬病とか、血にまつわる病がありまして」
病……?
「狂犬病は、噛まれることで、唾液からウィルス……あ、菌が、体内に侵入して、脳が侵略を受けるんです。
その病は名の通り、獣の病なのですが、人にも移ります。菌に侵略されると、狂犬病になった犬は、麻痺して動けなくなるか、獰猛になって、あらゆるものに襲い掛かるんです。発病したが最後、必ず死に至ります。
私の国では、もう長く狂犬病は起きてなくて、無くなっているようなんですけど、外国ではまだ存在してて。噛まれることで移り、また感染を広げるために噛み付くので、人類や、獣人全体を脅かす可能性もあるのかなって。
かつてその狂犬病が、吸血鬼という、血を吸う魔物の物語を生んだともされていて……少し、獣人の言い伝えと似ているなと、思ったんです。
で、でも、二千年前の一度きりであるなら……同じような事件が繰り返されていないなら、病の可能性は低いですよね……もしくは、もう病も絶滅しているかです。そうであれば、もう獣人さんが、怖がられる理由も無くなってるってことになるんですけど……」
ちょっと、勘ぐりすぎな気がしてきました……と、サヤは笑ったけれど、明らかに眉が下がり、笑顔に無理があって、俺は自分が相当険悪な表情で、サヤにあの言葉を吐いたのだと自覚した。そして、サヤを疑ってしまった自分を、恥じた。
手を握ると、ビクリと反応され、更に罪悪感が募る。
「ごめん……怖がらせたね」
「い、いいえ! 私が悪いんです。あの言い方じゃ、ハインさんを疑ってるように、聞こえましたよね!
でも私だって、ハインさんがどういった人かは、もう知ってるつもりです。
その……大災厄にも、きっと何か、原因があるのではないでしょうか。
それが分かれば、獣人さんが虐げられる関係は、変われるのじゃないかって、ちょっと思ってしまって……あっ」
腕を引いて抱き寄せたら、サヤは少し身を硬くした。
けれど、俺がサヤをこうするのは、下心からじゃないと察してくれた様子で、少しずつ、体の力を抜く。
サヤの言葉に、心を打たれ、ついこうしてしまった。ハインを疑ったのじゃなく、獣人が虐げられる原因を、探ろうとしてくれていたのか……と。
そうだよな。この優しい娘が、ただハインを恐れてあんなことを口にする筈、ないじゃないか。
「ごめん……自分ではあまり、気にしていないつもりでいたのだけど……やはりちょっと、張り詰めていたのかもしれない。
サヤがそんな風に考えるはず無かった……。サヤにあたってしまって、申し訳ない。
ハインが獣人だってことは、本当に気にしてないんだ。
けど……なんかさ、信頼してもらえてなかったってことが、ちょっと、辛かったんだよ……。だから、過剰になってしまってた……」
ハインは、咄嗟に死のうとする程に、俺を信じてはくれなかったのだと、心の隅で、ちょっとそう、思ったんだ。
そんな俺の考えを口に出したわけではない。けれど、サヤはそれをちゃんと拾ってくれた。
「……九年は、長いですよ。
ハインさんは、天邪鬼だから……本当は思ってないのに、わざと裏腹なことを、口にされたんだと思います。
だって……レイシール様のことに、あんなに一心不乱になる方ですよ?ただそれだけの感情で、あんな風には、なれないですよ。
それに、ちょっと分かる気が、するんですよね……。
近いからこそ、怖いって、あるんですよ。
今のこの関係を、壊したくなくて、手放せなくて、言おう、言わなきゃと思っていても、言えない……って、思っちゃう感覚」
腕の中のサヤが、少し、身体を俺に摺り寄せた。
なんとなくそれで、サヤのその言葉と感情が、誰によってもたらされたものかを知ってしまい、胸が締め付けられる様な心地を味わう。
「ハインさんは、レイシール様を万が一にも失いたくなくて、人であり続けたかったのじゃ、ないでしょうか。だから、知られてしまった瞬間、大切な記憶を、綺麗なままで残したくて、獣人の自分を、知られないままにしたくて……。
もう一つは、レイシール様を、ハインさんの関わるいざこざに、巻き込みたくなかったんでしょうね。
人が獣人を忌避する様に、獣人も人を、友好的には見ないのでしょうから」
人から生まれるのに、人ではない獣人。
捨てられたり、売られたりした者たちが、人を快く思うわけがない。
「ああ、ハインさんが、手段を選ばないのって……自分はもう穢れきっているからと、そう、思ってらっしゃるから……なのでしょうか……」
そんなわけ、ないのに……。ぽそりとサヤが、零した呟きが、かろうじて俺の耳に届く。
その呟きに、かつてサヤが、病の原因について話してくれた時ことを、ふと思い出した。
菌という小さな生物が、身体に侵入することで病は起こるという。
先程のキョウケンビョウというものも、同じ類である様だ。
サヤの世界では、病は、悪魔の仕業でも、前世や今世の悪行故、招いた結果でもなく、ただ偶然の産物なのだ。
この世界では、神の教えに反する、サヤの世界の理。
ハインは、その話を聞いた後、俺に少しだけ、過去の話をしてくれた。
その時俺は、サヤの話の何かが、ハインを救い上げたのだと感じたのだ。
魂が汚れきって、獣人へと堕ちたハイン。
だけどサヤの言うことが正しいのなら……ハインが獣人であることは、偶然なのだ。
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