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異話 錘 1 〜語り手 レイシール(五歳)〜
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心中未遂があってから、僕は人の表面と内面は違うのだということを、子供ながらも漠然と知った。
毎日微笑みを絶やさなかった母がその実、笑っていなかったこと。
僕を優しく愛しみ、守ってくれていた母が、僕を疎んじていたかもしれないこと。
確認するのが怖く、思い出すのも怖くて、僕も母も、あのことは無かったことにした。
ただ、母が笑っていないことを知ってしまったから、それまでの様に、ただ甘える事は出来なくなった。
僕にはもう、分かるんだ。母が、仮面を被っているのが。
僕の前では、本当の顔をしてくれないって、気付いてしまったんだ。
暫くすると、父上に呼ばれ、二人でセイバーンに戻って、貴族というものになった。
小さかったから、あの頃の記憶はもう殆どあやふやだけど、一つだけはっきりと残っているものがある。
異母様と、兄上にお会いした時の記憶だ。
詳細は覚えていない。ただ、床に膝をついて座る僕を、二人が見下ろしていた記憶が、杭で打ち込まれたようにしっかりと刻まれている。
小刀で、指の腹を刺され、それを紙にぐりぐりと押し付けられた。
「来るのは仕方がない……でも、お前から触れることは許さぬ。口を聞くことも許さぬ。近づくことも許さぬ。背いた時は分かっておろうな……」
雨だったと思う。雑音のような、ザーッという音が、記憶にある。
もう一人の母と、兄だと紹介された二人。美しい人と、父上に似た人。
親指にパックリと開いた傷口から、赤い雫がパタパタと、石の床を染めていた……。
その時から、僕の混乱は、更に拍車がかかった。
まるで仮面を被っているかのように、表面と、内面の違う人だらけ。
父上と母は、仕事が忙しく、館を離れていることが多かった。
けれど僕は、それに安心していたように思う……父上も、母も、仮面を被っていた……。
誓約の為、僕から父上に話しかけることも、近づくことも出来ず、そうなると当然一緒の母とも疎遠になる。
仮面を被った、表面を取り繕った人は怖かった……。だから、母も怖かった……。また要らないと言われたくなかった。だから、忘れたふりをして、寂しくないふりをして過ごした。
僕への躾に、父上も、母も気付いていなかった。服の内側にしか、それと分かるようなものは無かったから。
父上は、暇が出来れば僕に声を掛けてくれたけれど、自ら話すことを禁じられていた僕は、振られた話に答えることしか出来なかった。
◇
あの小鳥はどうしたのかと聞かれ、逃げてしまったと、父上に言った。
もう一度やろうと言われたけれど、断った。飛んでる方が良いと言った。
また、羽根を折る姿は見たくなかった。きっとまた、すぐにそうなるという確信があった。
庭の隅の猫は、内緒だった。
痩せ細った母猫が、それでも甲斐甲斐しく子猫を世話する姿を、遠くから眺めた。
近付くと、すごく怖い顔で、シー! と、威嚇されて、ああ、この猫は知ってるんだなと思ったのだ。
僕に近づくのが危ないって、知ってるんだな。
でも、ガリガリの身体が気になって、食事の時、腸詰めをこっそりと隠し、庭に捨てた。翌日確認して、無くなっていると満足だった。残っていれば、位置を変えた。
そんなことをいくらも繰り返さないうちに、見つかってしまった。
最後の一匹は、一番小さく、弱い……藍色の子猫だった。
兄弟に負けて、なかなか乳を飲めないような、そんな未熟な子猫で、親猫がいなくなってしまえば、もう生きていけないと分かっていたけれど、庇わずにはいられなかった。
勿論、許される筈がなかった。守ることなんて、はじめから無理だった。
怪我は、階段から落ちてしまったと言った。
眉を寄せた父上に、大丈夫ですと、そう伝えた。
◇
暫くは、何事もなく過ごした。
兄上から隠れて、麦畑の中にいると、ザワザワと風で揺れる麦穂の音が、心地良かった。
悪意の無い騒めきは、雑音ではないのだなと知った。
村人たちは小鳥や猫より上手くやった。回りに目がないときに、こっそりさり気なく、優しくしてくれた。
だから油断していた。人は、そう簡単に、いなくなったりしないと。壊れたりしないと。
そうじゃなく、皆、とても気を使ってそうしてくれていたのに、気付いていなかった。
だから僕は、過ちを犯すことになる。
裏山に向かう道すがら、街道沿いに居た旅人に、興味を引かれてしまった。
「どう、しました?」
灰色の外套で、街道沿いに座り込んでいた人。俯いていて、顔は見えなかった。
泥の汚れで長靴がまだらになっていて、疲れている様子だった。
手荷物らしい頭陀袋はぺたんこで、中にたいしたものは入っていそうになく、腰に下げた、立派な小剣だけが浮いていて、目を引いた。
「いや、ちょっと、休憩してるだけ。メバックっ て、この先だよな?」
「はい。でも……歩くなら、今日中は無理、です。明日朝出発すれば、ぎりぎり……」
「えええぇぇ、マジかああぁぁ」
「ごっ、ごめんなさ……」
「……いや、お前はなんも、悪くないって。教えてくれて助かった。
なあ、ついでにどこか、休める場所ってねぇ? 厩でも、物置でも、なんでもいい」
そう言われて、言葉に詰まった。
厩も、物置もある。けれど、館は危険だ。
「……村に……。村の人は、親切だから……きっと、大丈夫だから……」
二歩、後退りしながら、そう伝えると、その人は顔を上げて、頭を掻いた。
「ああ…悪いな、怖かったか。汚ねぇカッコだしな。すまん」
陽に焼けた、小麦色の肌をしていた。
外套の影になったままで、目は見えなかったけれど、鼻と、無精髭がまばらな口元は、優しそうだと思った。
「ち、違います。怖くない。僕が……危ないんです。だから、貴方は悪くない」
ごめんなさいと謝って、逃げた。
館の手前で、息を整えて、何事もなかったかの様に戻り、振る舞った。
だけど、あの人が気になっていてた。
少ない手荷物……疲れた様子……。ひょろりとした風体で、角ばっていた顎の線……。
目の前に出された、お茶と、甘く焼かれた麺麭。お腹は空いていなかった。いつも、空いていなかった。何を食べても、あまり美味しいとは思えなくて、たくさんの目に見られながら、一人で食べる食事は苦しかった。
軽食の時間は、見張るような視線が無い、数少ない時間だった。だから、もしもの為にと自分に言い聞かせて……。
お茶を飲み干して、麺麭は、手拭いで包んでおいた。
どこに隠すか迷って、寝台の、上掛けの下に入れた。
翌朝、麺麭の包みを懐に入れて、居ないだろうとは思いつつ、昨日の場所に向かった。
朝の早い時間なら、出発する時に、手渡せるかもしれない。
そう思って、走って向かった。
あの人は、何故か同じ場所で、同じように座り込んでいた。
「よぅ、お前の言った通り、村の人は良い人だった。
川縁の家の若夫婦が、暫く居て良いって。お陰で、久しぶりにゆっくり眠れた。
ここに居たら、お前に会えるかなと思って待ってたんだ。ありがとうな」
外套が無かった。ざんばらでボサボサの、砂色の髪で、結局目は見えなかった。
昨日よりこざっぱりとしていて、血色も良いように見えた。
「けどよ、俺、今金持ってねぇし、礼できるほどのもんがねぇんだよな。
そんなの良いって言ってくれたんだけど……やっぱ悪いしなぁ。
でな、お前さ、ここの領主様の子なんだって? この裏山、入って良いか?
木の実とか、薪とか、何かお礼にできるものを探したいんだけどな、勝手に取ると悪いだろ?」
そう言って、立ち上がる。
ひょこりと、足を引きずるようにして歩き出した姿に、僕は答えられなかった。
「ん? ああ……左足、ちょっとしくじってな。矢が刺さったから、暫くこんな感じ」
「え、矢⁉︎」
「俺傭兵だし。そういうのが仕事。
大丈夫、筋とかは痛めてねぇから、そのうち治る」
ひらひらと、手を振ってなんでもないことのように言う。
けれど、引きずる足は痛そうで……山を一人で歩かせるのは、いけない気がした。
「あ、あの……木の実……茱萸なら、ある場所知ってる」
ピタリと止まって、振り返る。右頬から顎にかけても、長い傷があった。
横を通り越して、先に進む。ある程度距離を置いてから、振り返って待った。
「あの……案内するから……けど、僕、危ないから、あまり、近付かないで……」
見えるか、見えないか、ギリギリなくらいに距離を開けて、山道を案内した。
山はよく知っていた。兄上から逃れて、逃げ込む場所の一つだったから。
「なーあ、茱萸って、まだ時期的に、早いだろー?」
遠いからか、大声でそう呼びかけられて、慌てて戻った。
「だ、駄目……。大声出したら、聞こえちゃったら……」
しー! と、指を口の前に立てて、その人を見上げると、思いの外優しい蜜色の瞳が、笑って僕を見下ろしていた。下からだから、長い前髪の中が、見えてしまった。
蜜色なのに、瞳の縁が淡く翡翠色で、とても不思議な色彩。
けれど左の額にも、大きな傷があった。
ひきつれたような、大きな傷跡。
「これ? 初仕事で……投石がぶち当たった。なんもしてねぇうちからぶっ倒れてやんの。んで、敗戦。死んでんだと思われてさ、鎧剥ぎ取られかけて、目が覚めたんだぜ。間抜けだよな」
ニシシと笑って、とんでもない内容を可笑しそうに語る。
そして、俺を優しい目で見下ろしてから、当たり前のように問うた。
「お前のは」
「……?」
「右腕。庇ってるだろ。どうしたんだ」
思いもよらない言葉に、頭が真っ白になった。そして、咄嗟に逃げようとした。
けれど、左腕を掴まれる。思った以上に強い力で、びくともしなかった。
「逃げなくていいから。
分かった。もう、聞かない。
悪かった……」
真剣な声音で、不思議な色彩の瞳で、僕をじっと見つめて、そう言うから……茱萸のある場所に、案内しなければと思い、踏み止まった。
「……不思議な、場所。なんです。違うものが、実ってる。
茱萸と、木通が、ほとんど一年中ある。季節が違うのに……」
そう言うと、左腕を、離してくれた。そして何故か、左手を握られる。
「俺、実は、山で狼に囲まれたことがあって……それ以来、山は怖いんだ」
眉間にしわを寄せて、怖い怖いと、唇を震わせる。
嘘だ。さっきまでは、そんな素振り、かけらもなかった。
けれど……カサついていて、ゴツゴツとした手は温かかった。前に誰かと手を繋いだのは、いつだろうか……と、そう考えてしまったら、なんだか離すのは、惜しい気がした。
何も言わず歩き出すと、その人も歩き出した。
大きな手なのに、力も強いのに、そっと優しく握られていて、温かくて、まるで父上の手のようだと思った。恥ずかしくなったから、俯いて、誰かに見つからないうちにと、急いで歩いた。
毎日微笑みを絶やさなかった母がその実、笑っていなかったこと。
僕を優しく愛しみ、守ってくれていた母が、僕を疎んじていたかもしれないこと。
確認するのが怖く、思い出すのも怖くて、僕も母も、あのことは無かったことにした。
ただ、母が笑っていないことを知ってしまったから、それまでの様に、ただ甘える事は出来なくなった。
僕にはもう、分かるんだ。母が、仮面を被っているのが。
僕の前では、本当の顔をしてくれないって、気付いてしまったんだ。
暫くすると、父上に呼ばれ、二人でセイバーンに戻って、貴族というものになった。
小さかったから、あの頃の記憶はもう殆どあやふやだけど、一つだけはっきりと残っているものがある。
異母様と、兄上にお会いした時の記憶だ。
詳細は覚えていない。ただ、床に膝をついて座る僕を、二人が見下ろしていた記憶が、杭で打ち込まれたようにしっかりと刻まれている。
小刀で、指の腹を刺され、それを紙にぐりぐりと押し付けられた。
「来るのは仕方がない……でも、お前から触れることは許さぬ。口を聞くことも許さぬ。近づくことも許さぬ。背いた時は分かっておろうな……」
雨だったと思う。雑音のような、ザーッという音が、記憶にある。
もう一人の母と、兄だと紹介された二人。美しい人と、父上に似た人。
親指にパックリと開いた傷口から、赤い雫がパタパタと、石の床を染めていた……。
その時から、僕の混乱は、更に拍車がかかった。
まるで仮面を被っているかのように、表面と、内面の違う人だらけ。
父上と母は、仕事が忙しく、館を離れていることが多かった。
けれど僕は、それに安心していたように思う……父上も、母も、仮面を被っていた……。
誓約の為、僕から父上に話しかけることも、近づくことも出来ず、そうなると当然一緒の母とも疎遠になる。
仮面を被った、表面を取り繕った人は怖かった……。だから、母も怖かった……。また要らないと言われたくなかった。だから、忘れたふりをして、寂しくないふりをして過ごした。
僕への躾に、父上も、母も気付いていなかった。服の内側にしか、それと分かるようなものは無かったから。
父上は、暇が出来れば僕に声を掛けてくれたけれど、自ら話すことを禁じられていた僕は、振られた話に答えることしか出来なかった。
◇
あの小鳥はどうしたのかと聞かれ、逃げてしまったと、父上に言った。
もう一度やろうと言われたけれど、断った。飛んでる方が良いと言った。
また、羽根を折る姿は見たくなかった。きっとまた、すぐにそうなるという確信があった。
庭の隅の猫は、内緒だった。
痩せ細った母猫が、それでも甲斐甲斐しく子猫を世話する姿を、遠くから眺めた。
近付くと、すごく怖い顔で、シー! と、威嚇されて、ああ、この猫は知ってるんだなと思ったのだ。
僕に近づくのが危ないって、知ってるんだな。
でも、ガリガリの身体が気になって、食事の時、腸詰めをこっそりと隠し、庭に捨てた。翌日確認して、無くなっていると満足だった。残っていれば、位置を変えた。
そんなことをいくらも繰り返さないうちに、見つかってしまった。
最後の一匹は、一番小さく、弱い……藍色の子猫だった。
兄弟に負けて、なかなか乳を飲めないような、そんな未熟な子猫で、親猫がいなくなってしまえば、もう生きていけないと分かっていたけれど、庇わずにはいられなかった。
勿論、許される筈がなかった。守ることなんて、はじめから無理だった。
怪我は、階段から落ちてしまったと言った。
眉を寄せた父上に、大丈夫ですと、そう伝えた。
◇
暫くは、何事もなく過ごした。
兄上から隠れて、麦畑の中にいると、ザワザワと風で揺れる麦穂の音が、心地良かった。
悪意の無い騒めきは、雑音ではないのだなと知った。
村人たちは小鳥や猫より上手くやった。回りに目がないときに、こっそりさり気なく、優しくしてくれた。
だから油断していた。人は、そう簡単に、いなくなったりしないと。壊れたりしないと。
そうじゃなく、皆、とても気を使ってそうしてくれていたのに、気付いていなかった。
だから僕は、過ちを犯すことになる。
裏山に向かう道すがら、街道沿いに居た旅人に、興味を引かれてしまった。
「どう、しました?」
灰色の外套で、街道沿いに座り込んでいた人。俯いていて、顔は見えなかった。
泥の汚れで長靴がまだらになっていて、疲れている様子だった。
手荷物らしい頭陀袋はぺたんこで、中にたいしたものは入っていそうになく、腰に下げた、立派な小剣だけが浮いていて、目を引いた。
「いや、ちょっと、休憩してるだけ。メバックっ て、この先だよな?」
「はい。でも……歩くなら、今日中は無理、です。明日朝出発すれば、ぎりぎり……」
「えええぇぇ、マジかああぁぁ」
「ごっ、ごめんなさ……」
「……いや、お前はなんも、悪くないって。教えてくれて助かった。
なあ、ついでにどこか、休める場所ってねぇ? 厩でも、物置でも、なんでもいい」
そう言われて、言葉に詰まった。
厩も、物置もある。けれど、館は危険だ。
「……村に……。村の人は、親切だから……きっと、大丈夫だから……」
二歩、後退りしながら、そう伝えると、その人は顔を上げて、頭を掻いた。
「ああ…悪いな、怖かったか。汚ねぇカッコだしな。すまん」
陽に焼けた、小麦色の肌をしていた。
外套の影になったままで、目は見えなかったけれど、鼻と、無精髭がまばらな口元は、優しそうだと思った。
「ち、違います。怖くない。僕が……危ないんです。だから、貴方は悪くない」
ごめんなさいと謝って、逃げた。
館の手前で、息を整えて、何事もなかったかの様に戻り、振る舞った。
だけど、あの人が気になっていてた。
少ない手荷物……疲れた様子……。ひょろりとした風体で、角ばっていた顎の線……。
目の前に出された、お茶と、甘く焼かれた麺麭。お腹は空いていなかった。いつも、空いていなかった。何を食べても、あまり美味しいとは思えなくて、たくさんの目に見られながら、一人で食べる食事は苦しかった。
軽食の時間は、見張るような視線が無い、数少ない時間だった。だから、もしもの為にと自分に言い聞かせて……。
お茶を飲み干して、麺麭は、手拭いで包んでおいた。
どこに隠すか迷って、寝台の、上掛けの下に入れた。
翌朝、麺麭の包みを懐に入れて、居ないだろうとは思いつつ、昨日の場所に向かった。
朝の早い時間なら、出発する時に、手渡せるかもしれない。
そう思って、走って向かった。
あの人は、何故か同じ場所で、同じように座り込んでいた。
「よぅ、お前の言った通り、村の人は良い人だった。
川縁の家の若夫婦が、暫く居て良いって。お陰で、久しぶりにゆっくり眠れた。
ここに居たら、お前に会えるかなと思って待ってたんだ。ありがとうな」
外套が無かった。ざんばらでボサボサの、砂色の髪で、結局目は見えなかった。
昨日よりこざっぱりとしていて、血色も良いように見えた。
「けどよ、俺、今金持ってねぇし、礼できるほどのもんがねぇんだよな。
そんなの良いって言ってくれたんだけど……やっぱ悪いしなぁ。
でな、お前さ、ここの領主様の子なんだって? この裏山、入って良いか?
木の実とか、薪とか、何かお礼にできるものを探したいんだけどな、勝手に取ると悪いだろ?」
そう言って、立ち上がる。
ひょこりと、足を引きずるようにして歩き出した姿に、僕は答えられなかった。
「ん? ああ……左足、ちょっとしくじってな。矢が刺さったから、暫くこんな感じ」
「え、矢⁉︎」
「俺傭兵だし。そういうのが仕事。
大丈夫、筋とかは痛めてねぇから、そのうち治る」
ひらひらと、手を振ってなんでもないことのように言う。
けれど、引きずる足は痛そうで……山を一人で歩かせるのは、いけない気がした。
「あ、あの……木の実……茱萸なら、ある場所知ってる」
ピタリと止まって、振り返る。右頬から顎にかけても、長い傷があった。
横を通り越して、先に進む。ある程度距離を置いてから、振り返って待った。
「あの……案内するから……けど、僕、危ないから、あまり、近付かないで……」
見えるか、見えないか、ギリギリなくらいに距離を開けて、山道を案内した。
山はよく知っていた。兄上から逃れて、逃げ込む場所の一つだったから。
「なーあ、茱萸って、まだ時期的に、早いだろー?」
遠いからか、大声でそう呼びかけられて、慌てて戻った。
「だ、駄目……。大声出したら、聞こえちゃったら……」
しー! と、指を口の前に立てて、その人を見上げると、思いの外優しい蜜色の瞳が、笑って僕を見下ろしていた。下からだから、長い前髪の中が、見えてしまった。
蜜色なのに、瞳の縁が淡く翡翠色で、とても不思議な色彩。
けれど左の額にも、大きな傷があった。
ひきつれたような、大きな傷跡。
「これ? 初仕事で……投石がぶち当たった。なんもしてねぇうちからぶっ倒れてやんの。んで、敗戦。死んでんだと思われてさ、鎧剥ぎ取られかけて、目が覚めたんだぜ。間抜けだよな」
ニシシと笑って、とんでもない内容を可笑しそうに語る。
そして、俺を優しい目で見下ろしてから、当たり前のように問うた。
「お前のは」
「……?」
「右腕。庇ってるだろ。どうしたんだ」
思いもよらない言葉に、頭が真っ白になった。そして、咄嗟に逃げようとした。
けれど、左腕を掴まれる。思った以上に強い力で、びくともしなかった。
「逃げなくていいから。
分かった。もう、聞かない。
悪かった……」
真剣な声音で、不思議な色彩の瞳で、僕をじっと見つめて、そう言うから……茱萸のある場所に、案内しなければと思い、踏み止まった。
「……不思議な、場所。なんです。違うものが、実ってる。
茱萸と、木通が、ほとんど一年中ある。季節が違うのに……」
そう言うと、左腕を、離してくれた。そして何故か、左手を握られる。
「俺、実は、山で狼に囲まれたことがあって……それ以来、山は怖いんだ」
眉間にしわを寄せて、怖い怖いと、唇を震わせる。
嘘だ。さっきまでは、そんな素振り、かけらもなかった。
けれど……カサついていて、ゴツゴツとした手は温かかった。前に誰かと手を繋いだのは、いつだろうか……と、そう考えてしまったら、なんだか離すのは、惜しい気がした。
何も言わず歩き出すと、その人も歩き出した。
大きな手なのに、力も強いのに、そっと優しく握られていて、温かくて、まるで父上の手のようだと思った。恥ずかしくなったから、俯いて、誰かに見つからないうちにと、急いで歩いた。
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