シルクワーム

春山ひろ

文字の大きさ
上 下
46 / 47

45.突入

しおりを挟む
 国立自然史博物館内 ワシントンDC アメリカ合衆国

 アルトール・ハリは、疲れ切っていた。
 自然史博物館の1階トイレで何度も手を洗う。洗っても洗ってもきれいにならないのは、どうしてか。イライラが募る。
 ふと目の前の鏡を見た。
 そこに写っている自分の顔は、まるでこの世の終わりを迎えたかのように冴えなかった。

 人に銃を向けることが、こんなにも恐ろしいことだと、ハリは分っていなかった。今も手の震えが止まらない。銃を撃つという行為は、映画やドラマで見慣れた光景で、だから簡単なのだと思い込んでいたのだ、愚かにも。こんなにも銃が重く、緊張で手が震え、さらに手のひらから汗が吹き出すので、何度も拭かなければならなくなるとは…。

 ハリはペーパータオルで手を拭いて、ロビーに続く廊下に出た。
 今、この建物内で立っているのは、黒づくめの男だちだけだ。
 アジア系で黒髪の若い男性以外の人質は、誰もいなくなった。
撃ち殺したからだ、自分たちで…。

 また汗が出てきた。
日が落ちたから涼しくなりそうなものなのに暑い。
 破壊した博物館の心臓部ともいえるコントロールセンターには、数人が詰めていたはず。
空調はどうなっているのか。

 そんなことを思いながら、ハリは廊下からロビーに向かった。バカらしいほど大きな象の剥製に近づき、その位置から彼は、残った人質たちの様子をうかがう。
 全員、床に座らせられている。彼らの奥には博物館の2階へ続く階段があり、そこを上れば宝石展示ホールだ。

 ハリはソマリアのテロ組織で海賊でもある「アル・シャバーブ」に傾倒していた。自身のルーツがソマリアだからというのが大きかった。
 「アル・シャバーブ」の主な外貨獲得方法は誘拐だ。外国船籍を襲い、その船の船員たちを誘拐して、身代金を要求し、外貨を得る。その金は、世界最貧国であるソマリアの貴重な資金となっていた。
 しかし、欧州連合軍の最高司令官に英国のキートン大将が就任したことで、「アル・シャバーブ」は、資金調達が極めて困難な状況に追い込まれた。
 この状況を打破するには、もはや海に拘っていたのでは不可能だ。
 そこで、テロリストの論理からキートン大将の家族を拉致するという、短絡的で無謀で愚かな作戦を立て、それを実行した。戦闘のド素人が、だ。

 一昨日に初めて会ったメンバーたちのうち数名は、この博物館に展示されている宝石類を目にした途端、誘拐で得る資金だけでなく、この宝石も奪えばいいと言い出した。
 それは略奪だ。
 それだけは、ハリは許せなかった。自分の崇高な使命が汚されるように思ったのだ。略奪行為をさせないために、ハリはこの場所、2階に上がる階段前に人質たちを座らせた。
 エレベーターは止めたので、2階へ上るには、この階段を上るしか方法はない。つまり、ここは人質を監視するという名目で、堂々とハリが見張れて、略奪行為を阻止することが可能な場所だった。

  ハリから少し離れたところで見張っている男が言った。
「ほんとにこの中に、キートンの息子がいるんだろうな」
「いるはずだ」
「だったら、なぜリアクションがないんだ!ずっと映像を見せているんだ、分かるはずだろう!」
 確かにそうだと、ハリも思った。
  仲間内からは、残った人質たち全員に、キートンの息子かどうか尋問しようという声も上がったが、本当のことを答える可能性が低いと思い、それは実行しなかった。もし、万が一、嘘をつかれて誤って大事な人質を殺してしまったら、自分たちの切り札が無くなる。それが怖かったのだ。
  だから、今は全てはうまくいっていると思った方が楽だ。そうでもしないと、不安に押しつぶされそうだった。
 ハリはいった。
「大丈夫だ。きっともうすぐ英国政府から連絡があるさ」

 そう言って額の汗をぬぐったハリに、「トイレに行かせてくれ」と、人質の一人が声をかけた。振り向くと、青いNASAのパーカーを着た若者が立ち上がろうとしていた。
「おい、座っていろ!」
 もう一人の仲間が苛立って怒鳴る。
「いいじゃないか。俺が連れて行く。こっちだ」と、ハリは顎で方向を示し、若者を立たせ、さっきまで自分がいたトイレに向かった。

その時、1階ロビーの誰かが何か叫んだ。
目の前を歩く若者に銃を突きつけ、「ちょっと待て」といってハリが振り向くと、「ニュースだ、ニュースを見ろ!」という声だった。

 ハリは急いでロビーに戻り、タブレットを持っている仲間に向かう。反射的にハリは腕時計を見た。
時間は、アメリカ東部時間、午後10時。ここに立て籠もってから7時間が経過していた。
CNNの人気レポーター、ジェシー・バルモアの名前と「アンドルーズ空軍基地」というクレジットが画面に表示され、1機の戦闘機のタラップが、今、まさに開こうとしている様子が映っていた。

「私は、今、アンドルーズ空軍基地におります。アメリカ東部時間、午後3時にワシントンの国立自然史博物館で発生した爆破テロは、大きな局面を迎えようとしています。現在、館内には2,000人以上の人質がいると思われますが、その中に、ヴィクトリア・キートン首相のお孫さんがいるというのです!ご覧ください!キートン首相の御子息で、人質にとられたお孫さんの父親である、英国海軍のキートン大将がテロリストたちとの交渉のため、たった今、アンドルーズ空軍基地に到着しました!あ、戦闘機からキートン大将が下りてきました!」

 そこに映っていたのは、ハリたちがターゲットとして何度も確認したキートン大将、その人であった。
「やったな!」
 仲間の誰かが、喜色を含んだ声を上げた。これから「英国史上、最強・最高の軍人」と交渉するという困難なミッションを行わなければならないが、こっちはキートン大将の息子を人質に取っているんだ。有利に事を進められる。余裕があるとまでは言えないが、今ぐらい喜んでもいいだろう。
「これで英国政府と交渉できる」
「ああ」

「キートン大将は、ここからヘリに乗り換えて、一路、ホワイトハウスに向かうと思われます。アンドルーズ空軍基地から、ジェシー・バルモアが伝えました」

「やった!」、「よし!」という仲間たちの声が、館内のあちこちから響いていた。

 その時、誰かが人質たちに向かって叫んだ。
「中心によれ!早く!」

 ハリが声のする方向を見ると、トイレに行くといった、あのNASAのパーカーを着た若者だった。
「しまった」とハリが思ったのと同時に、人質のいる天井から防火壁が、一瞬で落ちてきた。まさに一瞬だ。
 人質たちが、ハリたちの唯一の切り札が、ビクともしない鉄壁の防火壁によって四方を囲まれ、究極の安全地帯の中に逃げ延びた瞬間だった。

 誰かが叫び声をあげた。NASAのパーカーを着た若者が、信じられない身のこなしで一人を倒すと、まるで疾風のようにロビー中央部に走り込んできた。

 ハリは、まったく動かなかった。
 いや、動けなかったというのが正しい。いつの間にか両太ももに被弾し、自分の血がクリーム色の床に流れ出していた。手にした銃は下に落ち、利き腕の肩にも激痛が走った。いつ撃たれたのか、それさえも分からなかった。
 ただ、その場にへたり込んだハリに出来るのは、目を開けていることだけだった。

 ハリの正面、落ちてきた防火壁に少し遮られているその先の廊下には、二台のエレベーターがあった。その動いていないはずのエレベーターの扉が開くと、5、6人の完全武装した特殊部隊がなだれ込んできた。それは2階からも同様だった。
 ロープを垂らし、それをつたって、大勢の男たちが下りてきた。

 呆然としているハリからみて、ロビーに続く左右の廊下にもエレベーターがあり、そこからも次々に特殊部隊が入ってきた。
 きっと地下も同じはずだと、朦朧としながらハリは思った。
 床に倒れているのは、自分の仲間たちだけだった。

 ひときわ大柄な隊員二人の持つ無線の声がハリにも聞こえた。
「地下、クリア!」、「2階、クリア!」、「1階、クリア!」

 ハリが目線を挙げれば、そのうちの一人が跪き、ハリの顔を覗き込んで「アルトール・ハリ、確保。生きている」といった。

 それが気絶する前にハリが聞いた最後の言葉だ。

22時01分作戦行動開始、22時02分30秒完全制圧。わずか1分30秒間の出来事だった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人

こじらせた処女
BL
 幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。 しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。 「風邪をひくことは悪いこと」 社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。 とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。 それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?

熱中症

こじらせた処女
BL
会社で熱中症になってしまった木野瀬 遼(きのせ りょう)(26)は、同居人で恋人でもある八瀬希一(やせ きいち)(29)に迎えに来てもらおうと電話するが…?

高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる

天災
BL
 高校生の僕は、大学生のお兄さんに捕まって責められる。

美人に告白されたがまたいつもの嫌がらせかと思ったので適当にOKした

亜桜黄身
BL
俺の学校では俺に付き合ってほしいと言う罰ゲームが流行ってる。 カースト底辺の卑屈くんがカースト頂点の強気ド美人敬語攻めと付き合う話。 (悪役モブ♀が出てきます) (他サイトに2021年〜掲載済)

騎士団長が民衆に見世物として公開プレイされてしまった

ミクリ21 (新)
BL
騎士団長が公開プレイされる話。

魔族に捕らえられた剣士、淫らに拘束され弄ばれる

たつしろ虎見
BL
魔族ブラッドに捕らえられた剣士エヴァンは、大罪人として拘束され様々な辱めを受ける。性器をリボンで戒められる、卑猥な動きや衣装を強制される……いくら辱められ、その身体を操られても、心を壊す事すら許されないまま魔法で快楽を押し付けられるエヴァン。更にブラッドにはある思惑があり……。 表紙:湯弐さん(https://www.pixiv.net/users/3989101)

上手に啼いて

紺色橙
BL
■聡は10歳の初めての発情期の際、大輝に噛まれ番となった。それ以来関係を継続しているが、愛ではなく都合と情で続いている現状はそろそろ終わりが見えていた。 ■注意*独自オメガバース設定。■『それは愛か本能か』と同じ世界設定です。関係は一切なし。

処女姫Ωと帝の初夜

切羽未依
BL
αの皇子を産むため、男なのに姫として後宮に入れられたΩのぼく。  七年も経っても、未だに帝に番われず、未通(おとめ=処女)のままだった。  幼なじみでもある帝と仲は良かったが、Ωとして求められないことに、ぼくは不安と悲しみを抱えていた・・・  『紫式部~実は、歴史上の人物がΩだった件』の紫式部の就職先・藤原彰子も実はΩで、男の子だった!?というオメガバースな歴史ファンタジー。  歴史や古文が苦手でも、だいじょうぶ。ふりがな満載・カッコ書きの説明大量。  フツーの日本語で書いています。

処理中です...