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38、ララサラーマ(1)
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テロ発生 2時間後 ロンドン・英国
ロンドンのナイツブリッジ地区。高級デパート、ハロッズのすぐ近くに店を構える美容室ララサラーマ。
スワヒリ語で「おやすみ」という意味の名がついたこの美容室は、ビィクトリア・キートン首相御用達の高級美容室だ。
女性オーナーは、父親がケニア大使をしていた関係で、ナイロビで生まれた富裕層だ。そこで育った彼女は「ケニアの女性は、決して恵まれた経済環境にあるわけではないのに、おしゃれを欠かさない。その中でも、とりわけヘアスタイルが素晴らしかった。それを見てヘアデザイナーになりたいと思った」と、話していた。
ナオミは、この話を何度も聞いた。
薄いグレーの壁紙に、差し色としてパープルを配置したインテリア。シャワーブースは真鍮使いのセンスのいいこの店に、取りにくい予約を勝ち取ってやってくる初めての客には、必ずオーナーが語る話題だからだ。
しかし、とナオミは思う。
オーナーのいう「おしゃれを欠かさないケニア女性」など、ほんの一握りしかいない。
オーナーは大使の娘だったのだ。ナイロビでも恵まれた環境の地域しか目にしていない。
今のエリザベス女王が王女だった時、ケニアを公式訪問中のノーフォークホテル滞在時に、父王が逝去して女王となった。そのホテルは作家ヘミングウェイの定宿で、ナイロビの中でも、最も高級住宅地にある。オーナーは、ノーフォークホテルの広々とした庭園が遊び場だったという。
そのホテルを利用できるのは外国人宿泊客か、ケニア人の中でも富裕層だけだった。現にナイロビ生まれだが、母子家庭で使用人をしていた母に育てられた、貧しい生まれのナオミは、行ったことさえなかった。
それでも、と彼女は思う。
自分はまだマシな方だ。
母は、駐在員としてナイロビに赴任してきた日本人一家の使用人として働いていた。そこは、門番、コック、庭師にメイドがいる大きな家だ。そのうち、そこの主人と不倫関係になった母が妊娠した。それがナオミだった。だからナオミは、日本人とケニア人のハーフだ。
ナオミという名前は、母が付けた。かつてのスーパーモデルの名前から取ったのだという。皮肉としか思えないこの名前が、ナオミは大嫌いだ。造形の素晴らしさなど、自分の顔には見出せないからだ。
父は、母にアパートの部屋を用意し、そこでナオミは育った。「これまでの掘っ立て小屋のスラム街から比べれば、ここはお城よ」と、よく母は言っていた。
しかし、父の帰国が決まり、その生活が終わる。
父が、ケニア人にとっては相当な金を母に渡した時、母は初めてワガママを言った。
英国に行きたい。そこで生活したい。
父はツテを使って、ナオミ親子がロンドンで生活できるよう仕事を探して手筈を整え、日本に帰国した。それ以来、父には会っていない。
母は、ロンドンで掃除婦をしながら、ナオミを育てた。生活に追われていた。だから乳がんに蝕まれていたことに気づかなかった。最も気づいても、高額治療は受けられなかっただろうから、結局は同じだったと思う。
「腰が痛い」と、よくこぼしていた母が、仕事中に転んで足を骨折し病院に運ばれ、そこでガンだと分かった。すでに骨まで転移し、手の施しようがない状態だった。腰の痛みの原因はガンによるものだったのだ。
あっという間に母が亡くなり、ナオミは一人になった、文字通り、本当に一人だ。
16歳、セカンダリースクールを卒業したばかりの歳に、彼女はこの店にやってきた。
ここで仕事がしたい。
ララサラーマのような高級美容室に、こんな風に飛び込みで就職希望者がやってくるなどあり得ない。大抵は誰かの紹介だった。
しかし、オーナーは面白いと思ったようだ。それにナオミが、ケニア人と日本人のハーフということに興味を持った。
ボーっと立ち、過去を振り返っていたナオミは、店内を見渡す。
観葉植物がいくつも配置されたそこは、ナオミの職場だ。
働く人間の動線など無視して、ただ見栄えだけで配置した植物が、邪魔でしょうがなかった。
幽霊のようにフラフラと繁ったシダに近づいて、彼女は植木鉢を両手で押し倒した。ガチャンという派手な音と共に鉢が割れ、土が床に飛び出した。
私、もう壊れかけているのかもと、彼女は思う。
彼女は次に、顧客が髪をカットするために座る黒革の回転椅子に座った。その前にある大きな鏡の周囲は真鍮の飾りで縁取られている。
鏡の横の小さな画面では、二時間前にワシントンで起きた大規模テロ事件のことが、ずっと報道されている。
ナオミは肘かけに両腕をたらし、繰り返し報道されるニュースを、じっと聞いた。
このテロが起きたせいで、本来はまだ営業時間のこの店が閉店になったのだ。
キャンセルの連絡が次々に入り、「今日は閉店!こんな日は、みんな家族の元に帰りましょう」と、オーナーが言った。
ナオミには家族がいない。待っている人などいないのだ。だから、笑顔でみんなを送り出し、閉店準備を引き受けた。
回転椅子を少しユラユラと回しながら、ナオミは思う。
このテロと、自分が仕出かしたこととは、何か関係があるのかしら。その答えを既に彼女は知っていた。
入店して、2年後、ナオミはオーナーに事務所に呼ばれ、そこで誓約書を書かされた。何事かと思った。いつもは柔らかい雰囲気のオーナーが、この時ばかりは有無を言わせない強さがあった。そして一生縁がないと思った高級車に二人で乗って、降りたのは首相官邸だった。当時は、そこが巷で「ナンバー10」と呼ばれる首相官邸だとは知らず、ただ圧倒されただけだった。
しかし、さらに驚くことになる。その中のある部屋で待っていると、キートン首相が目の前に現れたのだ。
その瞬間、ナオミは事務所で書かされた誓約書の意味を知ることになる。ここでの出来事は他言無用。いつ、いかなる理由があっても絶対に漏らしてはいけない。
最初の約1時間半は、あっという間に過ぎた。
それから毎月1度、ナオミはオーナーと一緒に「ナンバー10」を訪れることになった。
口が堅い。ナオミが選ばれた最初の理由はそれだった。しかし、2回目以降は「日本人とのハーフだから」という理由が加わった。その理由は、当時は分からなかった。
テレビで見るキートン首相と、実際の彼女とでは、全く印象が違った。舌鋒するどい「アイアン・レディ」は、このうえなく上品な貴族で、お茶目なレディだった。
彼らとあったのは、最初に「ナンバー10」にきてから1年たった頃だ。
いつもの部屋で、オーナーにヘアをカットしてもらっていた首相の元に、足音がパタパタと聞こえた。そしてノックのあと、ひょっこりと男の子が二人、顔を出したのだ。
東洋系だった。東洋系の子供は幼く見える。彼らも10歳ぐらいにしか見えなかった。
オーナーは、「まあ、なんてかわいらしい!」と、手を止めて歓声を上げる。
首相は、これまでも優しい顔だったが、さらに優しい声色で「私の宝物よ」と言った。
「お孫さん?」
「ええ」
首相の元にきた二人に、「もう少し待っていて」といって、頬を撫でた。
ナオミは、誰かに親しみと愛情をこめて、こんな仕草をされたことがなかった。
二人の子供は、ナオミでも分かる上等な服をきていた。たぶん、ナオミが着たこともないような類(たぐい)の服だ。
黒皮の回転椅子をぐるっと回して、また元の位置に戻し、BBCニュースを見る彼女の目には、何も映っていない。
あの彼らを見なければ、私はあんなことを仕出かさなかったのかしら。
※2015年から英国のセカンダリースクールは18歳までになりました。しかしナオミはそれ以前に卒業しているという設定です。
ロンドンのナイツブリッジ地区。高級デパート、ハロッズのすぐ近くに店を構える美容室ララサラーマ。
スワヒリ語で「おやすみ」という意味の名がついたこの美容室は、ビィクトリア・キートン首相御用達の高級美容室だ。
女性オーナーは、父親がケニア大使をしていた関係で、ナイロビで生まれた富裕層だ。そこで育った彼女は「ケニアの女性は、決して恵まれた経済環境にあるわけではないのに、おしゃれを欠かさない。その中でも、とりわけヘアスタイルが素晴らしかった。それを見てヘアデザイナーになりたいと思った」と、話していた。
ナオミは、この話を何度も聞いた。
薄いグレーの壁紙に、差し色としてパープルを配置したインテリア。シャワーブースは真鍮使いのセンスのいいこの店に、取りにくい予約を勝ち取ってやってくる初めての客には、必ずオーナーが語る話題だからだ。
しかし、とナオミは思う。
オーナーのいう「おしゃれを欠かさないケニア女性」など、ほんの一握りしかいない。
オーナーは大使の娘だったのだ。ナイロビでも恵まれた環境の地域しか目にしていない。
今のエリザベス女王が王女だった時、ケニアを公式訪問中のノーフォークホテル滞在時に、父王が逝去して女王となった。そのホテルは作家ヘミングウェイの定宿で、ナイロビの中でも、最も高級住宅地にある。オーナーは、ノーフォークホテルの広々とした庭園が遊び場だったという。
そのホテルを利用できるのは外国人宿泊客か、ケニア人の中でも富裕層だけだった。現にナイロビ生まれだが、母子家庭で使用人をしていた母に育てられた、貧しい生まれのナオミは、行ったことさえなかった。
それでも、と彼女は思う。
自分はまだマシな方だ。
母は、駐在員としてナイロビに赴任してきた日本人一家の使用人として働いていた。そこは、門番、コック、庭師にメイドがいる大きな家だ。そのうち、そこの主人と不倫関係になった母が妊娠した。それがナオミだった。だからナオミは、日本人とケニア人のハーフだ。
ナオミという名前は、母が付けた。かつてのスーパーモデルの名前から取ったのだという。皮肉としか思えないこの名前が、ナオミは大嫌いだ。造形の素晴らしさなど、自分の顔には見出せないからだ。
父は、母にアパートの部屋を用意し、そこでナオミは育った。「これまでの掘っ立て小屋のスラム街から比べれば、ここはお城よ」と、よく母は言っていた。
しかし、父の帰国が決まり、その生活が終わる。
父が、ケニア人にとっては相当な金を母に渡した時、母は初めてワガママを言った。
英国に行きたい。そこで生活したい。
父はツテを使って、ナオミ親子がロンドンで生活できるよう仕事を探して手筈を整え、日本に帰国した。それ以来、父には会っていない。
母は、ロンドンで掃除婦をしながら、ナオミを育てた。生活に追われていた。だから乳がんに蝕まれていたことに気づかなかった。最も気づいても、高額治療は受けられなかっただろうから、結局は同じだったと思う。
「腰が痛い」と、よくこぼしていた母が、仕事中に転んで足を骨折し病院に運ばれ、そこでガンだと分かった。すでに骨まで転移し、手の施しようがない状態だった。腰の痛みの原因はガンによるものだったのだ。
あっという間に母が亡くなり、ナオミは一人になった、文字通り、本当に一人だ。
16歳、セカンダリースクールを卒業したばかりの歳に、彼女はこの店にやってきた。
ここで仕事がしたい。
ララサラーマのような高級美容室に、こんな風に飛び込みで就職希望者がやってくるなどあり得ない。大抵は誰かの紹介だった。
しかし、オーナーは面白いと思ったようだ。それにナオミが、ケニア人と日本人のハーフということに興味を持った。
ボーっと立ち、過去を振り返っていたナオミは、店内を見渡す。
観葉植物がいくつも配置されたそこは、ナオミの職場だ。
働く人間の動線など無視して、ただ見栄えだけで配置した植物が、邪魔でしょうがなかった。
幽霊のようにフラフラと繁ったシダに近づいて、彼女は植木鉢を両手で押し倒した。ガチャンという派手な音と共に鉢が割れ、土が床に飛び出した。
私、もう壊れかけているのかもと、彼女は思う。
彼女は次に、顧客が髪をカットするために座る黒革の回転椅子に座った。その前にある大きな鏡の周囲は真鍮の飾りで縁取られている。
鏡の横の小さな画面では、二時間前にワシントンで起きた大規模テロ事件のことが、ずっと報道されている。
ナオミは肘かけに両腕をたらし、繰り返し報道されるニュースを、じっと聞いた。
このテロが起きたせいで、本来はまだ営業時間のこの店が閉店になったのだ。
キャンセルの連絡が次々に入り、「今日は閉店!こんな日は、みんな家族の元に帰りましょう」と、オーナーが言った。
ナオミには家族がいない。待っている人などいないのだ。だから、笑顔でみんなを送り出し、閉店準備を引き受けた。
回転椅子を少しユラユラと回しながら、ナオミは思う。
このテロと、自分が仕出かしたこととは、何か関係があるのかしら。その答えを既に彼女は知っていた。
入店して、2年後、ナオミはオーナーに事務所に呼ばれ、そこで誓約書を書かされた。何事かと思った。いつもは柔らかい雰囲気のオーナーが、この時ばかりは有無を言わせない強さがあった。そして一生縁がないと思った高級車に二人で乗って、降りたのは首相官邸だった。当時は、そこが巷で「ナンバー10」と呼ばれる首相官邸だとは知らず、ただ圧倒されただけだった。
しかし、さらに驚くことになる。その中のある部屋で待っていると、キートン首相が目の前に現れたのだ。
その瞬間、ナオミは事務所で書かされた誓約書の意味を知ることになる。ここでの出来事は他言無用。いつ、いかなる理由があっても絶対に漏らしてはいけない。
最初の約1時間半は、あっという間に過ぎた。
それから毎月1度、ナオミはオーナーと一緒に「ナンバー10」を訪れることになった。
口が堅い。ナオミが選ばれた最初の理由はそれだった。しかし、2回目以降は「日本人とのハーフだから」という理由が加わった。その理由は、当時は分からなかった。
テレビで見るキートン首相と、実際の彼女とでは、全く印象が違った。舌鋒するどい「アイアン・レディ」は、このうえなく上品な貴族で、お茶目なレディだった。
彼らとあったのは、最初に「ナンバー10」にきてから1年たった頃だ。
いつもの部屋で、オーナーにヘアをカットしてもらっていた首相の元に、足音がパタパタと聞こえた。そしてノックのあと、ひょっこりと男の子が二人、顔を出したのだ。
東洋系だった。東洋系の子供は幼く見える。彼らも10歳ぐらいにしか見えなかった。
オーナーは、「まあ、なんてかわいらしい!」と、手を止めて歓声を上げる。
首相は、これまでも優しい顔だったが、さらに優しい声色で「私の宝物よ」と言った。
「お孫さん?」
「ええ」
首相の元にきた二人に、「もう少し待っていて」といって、頬を撫でた。
ナオミは、誰かに親しみと愛情をこめて、こんな仕草をされたことがなかった。
二人の子供は、ナオミでも分かる上等な服をきていた。たぶん、ナオミが着たこともないような類(たぐい)の服だ。
黒皮の回転椅子をぐるっと回して、また元の位置に戻し、BBCニュースを見る彼女の目には、何も映っていない。
あの彼らを見なければ、私はあんなことを仕出かさなかったのかしら。
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