シルクワーム

春山ひろ

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15、「冷血」(1)

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テロ発生直後 バンコク タイ
 
 空気は体にまとわりつき、ねっとりとした暑さが覆っていた。そんなバンコクの汚れた裏路地を、駆け抜ける一人の女がいた。
 日本人が女たちを買う店がひしめく小汚い町並みの、さらにその奥に向かって、彼女は走る。小さな背に、細い体。額から汗が滴るが、顔は上気して幸せそうだ。
 彼女の名前はナーニという。20歳だが、どうみても高校生ぐらいにしか見えない。よくそう言われる。でも、ナーニは高校に行ったことがない。だから「高校生」というのが、よく分からない。10歳から体を売っているのだ。

 今日の客は最低だった。本物のサディストだ。ナーニの首を締めながら、なんども突っ込んだ。金払いはいいが、あんな客はほんとに嫌い。
 でも、そんな辛さを忘れるほど、ナーニは、今、興奮していた。
 彼が来たからだ!ナーニの王子様!名前は、そう名前は「エリス」。本当はエリスなんとかというらしい。宿のおばさんは学がない。だからパスポートの下の名字が読めなかったのだ。
 初めて宿に彼が来た時、おばさんがナーニに、こっそり名前を教えてくれた。そして、思い切ってナーニが「エリス」と呼んだら、返事してくれたんだ。だから王子様の名前は「エリス」!
 肩につくくらいのきれいな黒髪で、見上げるほど長身の彼、エリス。顔が小さくて、手足が長くて、瞳はきれいなブルー。
 そして顔の、一つひとつのパーツの整い方といったら!もう、本物の美男子だ。テレビで見かけるタレントなんかより、ずっとかっこいい。ううん、ぴか一だ!
 ナーニは、ろくに文字が読めない。体も売ってる。だから客から蔑まれる。「バカにするなら、買わなきゃいいのに!」と、心の中で悪態をついても心は晴れない。蔑むやつらに、足を開くから。そうやってしか生きられないから。

 でも、ナーニの王子様は、一度もそんな目で彼女をみない。ナーニを買うこともない。ナーニの仕事を知っているのに、だ。
 その目が、とてもとてもきれいだった。エリスのきれいな顔の中でも、その目が特に好きなんだ。

 エリスは、ふらっとやってくる。アメリカ人だということは、おばさんが教えてくれた。でも、どこに住んでいるのかも、知らない。宿のおばさんは「今度きたら、ちゃんとパスポートを見といてあげるよ」というけど、いっつも忘れるんだ。

 1年に一度くるときもあれば、一度もこない年もある。来たときは、1週間ぐらい、ずっと「ホテル・バクダット」に泊まってる。
 バンコクなのに、バクダット。初めて会った時、その意味をエリスから聞かれたけど、ナーニには答えられなかった。ただナーニは、エリスが来るから、その宿が好き。
 宿の扉を開けて、中に飛び込む。いつもいるおばちゃんが、うれしそうに笑って「エリスはいつものとこだよ」と教えてくれた。

ホテル・バクダットの2階の一番奥。エリスはいつも、その部屋だ。
走って、部屋をノックする。
「これくらいのマナーは知ってるもんね、あたしでも」
 返事の前に、ナーニはドアを開けた。
 中をのぞくと、ナーニの王子様は、ベットの上で、本を顔に置き、寝そべっていた。長い足はベットからはみ出している。きれいな顔は見えないけど「返事する前に開けたら、ノックの意味がないだろ」と、言われた。タイ語だ。
 そう、エリスは、いつもタイ語で話してくれる。
 ナーニは、二カッと笑って「ご飯、作ってくる!」と言って、ドアを閉めた。
 エリスは、トムヤンクンが好きなんだ。あたしの作ったトムヤンクンを、いつも「うまい」と言ってくれる。全部食べてくれる。

 そんなことをナーニは思いながら、1階の食堂に向かうのだ。スキップしそうな勢いで。いつまでいるのかな。ワクワクしながら、ナーニは包丁を持った。
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