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ERRARE HUMANUM EST
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「貴女がジュリアンだったなんて」
深淵シアタールキアノスの最奥でルキアッポスは喜びを隠せずにいた。
いま自分が此処に立っていられる理由。
それはまぎれもなく彼女に命を分け与えられたからであった。ぶどう酒が好きで気まぐれな、情に脆い女神に――。
『ええ、お会いするのは初めてでしたね』
「まさか会えるなんて――……。あの時は誰かのおかげでレース越しに声を聞くことしか出来なかったから」
風に舞う血まみれのスカーフ。
美しかったバラ窓はいつの間にか砕け散り、天にぽっかりと開いた穴を青い蝶たちは軽々と飛び越えた。
螺旋を描きながら夜空へ踊るように舞い上がるその姿を、あの時の彼はただ呆然と眺めることしか出来なかった。
『ふふ、あの人も私の片割れですからね。少し強情なところがあるのかしら』
小さく笑う彼女の足元に波が打ち寄せるのを不思議そうに覗き込みながら、赤みがかった黒髪を一房掬って耳にかけると、彼女は繰り返し打ち寄せる波をいつまでも飽きずに眺めている。
いつか海のほとりで戯れる女性を『それは実際人間よりも蝶の美しさに近いものだった』と表現した作家がいたが、無邪気に世界と戯れる彼女はまさに蝶に近いそれだとルキアッポスは思った。
「会えて嬉しい」
『ええ、私もそう思うわ』
懐かしい声に感慨が込み上げて、ルキアッポスは思わず柱の向こうへ手を伸ばした。なんだかすべてを投げ出してしまってもいいような気がした。このまま向こうの世界へ行ってしまえば彼女と一緒にいられるだろうか。それこそ永遠に……?
微かに揺れる指先がまさに彼女に届こうとした、その時。
左手の小指で何かが鋭く光って、ルキアッポスは一瞬間、我に返った。
「…………」
いつか彼女に貰った金の指輪。不意に脳裏を過った言葉の朧気な輪郭は次第に確信へと変わっていった。すべて大文字で刻まれたこの読みにくいラテン語をルキアッポスは知っていた。
『あらどうしたの、ぼうっとして?』
「いえ、どうも……」
『ほんとうに?』
「……」
この得体の知れない警戒心は一体何処からくるのだろう? 不思議に思うルキアッポスの脳裏に、ふたたび青い蝶が鮮やかに舞った。
『あ、そうそう。言い忘れるとこだった。その子の名前、ジュリアンよ』
『……その子?』
『ゼフィルスっていうと怒るから。気に入ってるんですって、ね、ジュリアン』
五彩に煌めく青い宝石のようなそれは、くるくると卍巴飛翔しながら小高い丘の上を自由に昇ったり降りたり、近くを飛んでいた蝶に喧嘩を吹っ掛けたかと思えば、疲れたのか気まぐれに葉っぱの上で羽を休めたりしている。そういえばこんな適当な感じだったっけ彼女は――?
ルキアッポスは途端にすべてが可笑しく感じられた。心に平穏が訪れて、迷いは自然と何処かへ消え去っていた。いつまでも夢を見ていたい気持ちはまだ僅かにあったが、彼にとって愛のない嘘はもはやただの幻想でしかなかった。
「ねえジュリア――僕たちはきっと上手くやっていけるよね」
ルキアッポスは意を決した。もしほんとうに彼女ならば、あの名前を聞いた途端に怒り出すかもしれない。だって彼女はいつかその名前で呼ばれただけで尋常でなくぷんぷんしていたではないか――?
『ええそうね。でも、ふふ、貴方ほんとうに言い間違いが多いんだから。私の名前はジュリアンよ。ジュリアじゃないわ』
「あ、ゴメン度々……。悪気はなかったんです。貴女もご存知でしょう? 僕がそんなことする人間じゃないって。ねえ、ジュリー……?」
『ふふ、また間違えてる。私はジュリアン。ジュリーじゃないわ。でもそうね、私たちきっとすぐに仲良くなれると思うわ』
「ほんとうに? うわ嬉しい。ありがとう……」
ルキアッポスは金の指輪をそっと握りしめると、柱の向こうの彼女をまっすぐに見据えた。
「ありがとう――ゼフィルス」
するとその人は、まるで人の言葉に怒りを感じたことなど一度もないような涼しい顔をして、平然と答えた。
『ふふ、いいえ、私はゼフィルスではありません。ジュリアンよ。もう、貴方の愛する女神でしょ?』
「……ああ、そうだった。スミマセン何度も間違えちゃって」
『あら気にしなくていいの。ほんとうよ? 誰だって間違えることはあるんですからね』
「ああ、優しいんですね貴女は。ほんとうに」
『ふふ、ありがとう。あ、ねえ。せっかくだからあの人も呼ばない? 貴方のお友だち。きっとみんな一緒だと此処ももっと楽しくなるわ』
「あー……そうしたいのは山々なんですが――。残念ながら僕はあの人の友達なんかじゃありませんよ」
『まあ、そんなことないでしょう? さっきお友だちって言ってたじゃない』
「そりゃあ僕は一方的にそう思っていますが――。考えてみればあの人は公の場で僕を友だちと呼んでくれたことなど一度もなかった」
『まあひどい』
「でしょう? ただの使い勝手がいい臨時のバイトくらいに思ってるんじゃないですか。そんな酷いやつ関わらない方が身のためですよ」
『でも残念だわ。一度あの人に会ってみたかったのに』
「貴女がそこまで仰るなら……そうですね、では一度戻ってあの人に話してみます。上手く行けば彼を連れて再びここに戻って来られるでしょう。ああでも、失敗したらそれこそ僕はプライドがズタズタになってしまう。嘘については一家言あるんです。だから――」
ルキアッポスは最後に一目その人を見た。まるでこれが最後の別れとばかりに虹色の瞳に焼き付けた。
「もしここに戻って来られなかったらその時は、上手く行かなかったんだなと思ってそっとしておいてくれませんか。だからその……ここでのやり取りは僕と貴女だけの……えっと――」
『二人だけの秘密、ね』
「ええ、二人だけの秘密。ということに」
ルキアッポスは彼女に別れを告げると、振り返りもせずに果てしない階段を下った。
不意に琥珀の瞳が脳裏を過ったが、クローズアップし過ぎていてよく見えなかったので、ルキアッポスは足を止めることもなく石段を駆け下りた。
「念のために観ておいてよかった」
そうポツリと呟いた彼の安堵はいかほどか。いつか待ちぼうけをくらっていた時分に偶然スクリーンで観た物語がこんなところで役に立つとは、ルキアッポス本人も思ってもみなかった。
深淵シアタールキアノスの最奥でルキアッポスは喜びを隠せずにいた。
いま自分が此処に立っていられる理由。
それはまぎれもなく彼女に命を分け与えられたからであった。ぶどう酒が好きで気まぐれな、情に脆い女神に――。
『ええ、お会いするのは初めてでしたね』
「まさか会えるなんて――……。あの時は誰かのおかげでレース越しに声を聞くことしか出来なかったから」
風に舞う血まみれのスカーフ。
美しかったバラ窓はいつの間にか砕け散り、天にぽっかりと開いた穴を青い蝶たちは軽々と飛び越えた。
螺旋を描きながら夜空へ踊るように舞い上がるその姿を、あの時の彼はただ呆然と眺めることしか出来なかった。
『ふふ、あの人も私の片割れですからね。少し強情なところがあるのかしら』
小さく笑う彼女の足元に波が打ち寄せるのを不思議そうに覗き込みながら、赤みがかった黒髪を一房掬って耳にかけると、彼女は繰り返し打ち寄せる波をいつまでも飽きずに眺めている。
いつか海のほとりで戯れる女性を『それは実際人間よりも蝶の美しさに近いものだった』と表現した作家がいたが、無邪気に世界と戯れる彼女はまさに蝶に近いそれだとルキアッポスは思った。
「会えて嬉しい」
『ええ、私もそう思うわ』
懐かしい声に感慨が込み上げて、ルキアッポスは思わず柱の向こうへ手を伸ばした。なんだかすべてを投げ出してしまってもいいような気がした。このまま向こうの世界へ行ってしまえば彼女と一緒にいられるだろうか。それこそ永遠に……?
微かに揺れる指先がまさに彼女に届こうとした、その時。
左手の小指で何かが鋭く光って、ルキアッポスは一瞬間、我に返った。
「…………」
いつか彼女に貰った金の指輪。不意に脳裏を過った言葉の朧気な輪郭は次第に確信へと変わっていった。すべて大文字で刻まれたこの読みにくいラテン語をルキアッポスは知っていた。
『あらどうしたの、ぼうっとして?』
「いえ、どうも……」
『ほんとうに?』
「……」
この得体の知れない警戒心は一体何処からくるのだろう? 不思議に思うルキアッポスの脳裏に、ふたたび青い蝶が鮮やかに舞った。
『あ、そうそう。言い忘れるとこだった。その子の名前、ジュリアンよ』
『……その子?』
『ゼフィルスっていうと怒るから。気に入ってるんですって、ね、ジュリアン』
五彩に煌めく青い宝石のようなそれは、くるくると卍巴飛翔しながら小高い丘の上を自由に昇ったり降りたり、近くを飛んでいた蝶に喧嘩を吹っ掛けたかと思えば、疲れたのか気まぐれに葉っぱの上で羽を休めたりしている。そういえばこんな適当な感じだったっけ彼女は――?
ルキアッポスは途端にすべてが可笑しく感じられた。心に平穏が訪れて、迷いは自然と何処かへ消え去っていた。いつまでも夢を見ていたい気持ちはまだ僅かにあったが、彼にとって愛のない嘘はもはやただの幻想でしかなかった。
「ねえジュリア――僕たちはきっと上手くやっていけるよね」
ルキアッポスは意を決した。もしほんとうに彼女ならば、あの名前を聞いた途端に怒り出すかもしれない。だって彼女はいつかその名前で呼ばれただけで尋常でなくぷんぷんしていたではないか――?
『ええそうね。でも、ふふ、貴方ほんとうに言い間違いが多いんだから。私の名前はジュリアンよ。ジュリアじゃないわ』
「あ、ゴメン度々……。悪気はなかったんです。貴女もご存知でしょう? 僕がそんなことする人間じゃないって。ねえ、ジュリー……?」
『ふふ、また間違えてる。私はジュリアン。ジュリーじゃないわ。でもそうね、私たちきっとすぐに仲良くなれると思うわ』
「ほんとうに? うわ嬉しい。ありがとう……」
ルキアッポスは金の指輪をそっと握りしめると、柱の向こうの彼女をまっすぐに見据えた。
「ありがとう――ゼフィルス」
するとその人は、まるで人の言葉に怒りを感じたことなど一度もないような涼しい顔をして、平然と答えた。
『ふふ、いいえ、私はゼフィルスではありません。ジュリアンよ。もう、貴方の愛する女神でしょ?』
「……ああ、そうだった。スミマセン何度も間違えちゃって」
『あら気にしなくていいの。ほんとうよ? 誰だって間違えることはあるんですからね』
「ああ、優しいんですね貴女は。ほんとうに」
『ふふ、ありがとう。あ、ねえ。せっかくだからあの人も呼ばない? 貴方のお友だち。きっとみんな一緒だと此処ももっと楽しくなるわ』
「あー……そうしたいのは山々なんですが――。残念ながら僕はあの人の友達なんかじゃありませんよ」
『まあ、そんなことないでしょう? さっきお友だちって言ってたじゃない』
「そりゃあ僕は一方的にそう思っていますが――。考えてみればあの人は公の場で僕を友だちと呼んでくれたことなど一度もなかった」
『まあひどい』
「でしょう? ただの使い勝手がいい臨時のバイトくらいに思ってるんじゃないですか。そんな酷いやつ関わらない方が身のためですよ」
『でも残念だわ。一度あの人に会ってみたかったのに』
「貴女がそこまで仰るなら……そうですね、では一度戻ってあの人に話してみます。上手く行けば彼を連れて再びここに戻って来られるでしょう。ああでも、失敗したらそれこそ僕はプライドがズタズタになってしまう。嘘については一家言あるんです。だから――」
ルキアッポスは最後に一目その人を見た。まるでこれが最後の別れとばかりに虹色の瞳に焼き付けた。
「もしここに戻って来られなかったらその時は、上手く行かなかったんだなと思ってそっとしておいてくれませんか。だからその……ここでのやり取りは僕と貴女だけの……えっと――」
『二人だけの秘密、ね』
「ええ、二人だけの秘密。ということに」
ルキアッポスは彼女に別れを告げると、振り返りもせずに果てしない階段を下った。
不意に琥珀の瞳が脳裏を過ったが、クローズアップし過ぎていてよく見えなかったので、ルキアッポスは足を止めることもなく石段を駆け下りた。
「念のために観ておいてよかった」
そうポツリと呟いた彼の安堵はいかほどか。いつか待ちぼうけをくらっていた時分に偶然スクリーンで観た物語がこんなところで役に立つとは、ルキアッポス本人も思ってもみなかった。
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