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O Tajimamori, Tajimamori!
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一雨降った後の深淵の夜空はどこまでも澄み渡っていた。
まるでさっきまでの雷雨など気にもかけず、星々はいつしかロマンチックに瞬いている。
「ああタジマモリ、タジマモリ、どうしてあなたはタジマモリなの」
星空の下で、バルコニーの手すりに頬杖をつきながら女性は物思いに耽っていた。
「いっそその名前のとおり、常世の国まで行って黄色いメガホンをとってきてくれないかしら」
はぁ、と小さくため息をついた彼女の手には件のアメリカンキャップ。
その弱々しさたるや。
力なく握られた帽子がいまにも指先から転げ落ちそうで、とてもさっきまで黄色いメガホンをガシガシやっていた人物とは思われない。
「ねえ田道間守さん」
「先輩、俺たじまもりじゃないっす」
バルコニーの下に佇んで、男性は半ば呆れて声を掛けた。チャンバラの続きなどとても出来そうにない。
「まあ、名前がなんだというの。私は貴方だからお願いしているの。そうだわ、きっとそうね? そうでなくって? ねえ田道間守さん」
「だから先輩、たじまもりじゃないっす」
早咲きの薔薇の香をふくんだ雨上がりの風はどうも人をロマンチックな気持ちにさせるらしい。
舞い上がった夜風に明るい毛先を可憐に揺らす彼女もまた例外ではなかった。
「ああでも、こんなにお願いしたら貴方に嫌われてしまうかしら、どうかしら。せめて時じくの香の木の実はまた今度お願いすることにしようかしら。そうね? それがいいわね?」
「あ、もしかして今の全部独り言でしたか。すみません途中で話し掛けたりして。聞かなかったことにしますね。失礼しました」
「あ、待って!」
ふいに手を滑らせたのか、わざと手を滑らせたのかは知らないが、女性がバルコニーから身を乗り出したその拍子、帽子は夜風にふわりと舞うこともなく、ふつうに男性の足元へストンと落ちた。
「もしあの黄色いメガホンが無理だというのなら、今あなたが手にしているそのバラの香りのするノンアルコールカクテル、それをわたしにくださらない? 一口だけなんて言わないわ。そっくりそのまま、全部ほしいの。そうしたらわたし、もう一度その帽子を被ってもよくてよ。誓うわ」
「なるほどドア・イン・ザ・フェイスですか。それとも親戚にジャイアンでもいるのかな。でもこれはダメです」
「そんな!」
「先輩だってついさっきケータリングの最後の一個かっさらってったばっかじゃないですか。ふつうそんなとこまで走って逃げます? 俺がその店のホットドッグに目がないの知ってますよね」
「そこをなんとか、ね、田道間守」
「はぁ、またそんな……」
ふいに夜風が通り抜けて、彼は自分でもよくわからぬまま出かかった言葉を飲み込んだ。
そんな顔が濡れたアンパンみたいになるならあの少年にメガホンあげなきゃ良かったじゃないですか先輩――。
「ねえ田道間守、一生に一度のお願いよ」
いい格好しい先輩――。
とも思ったが、やはり彼は言葉にはしなかった。夜風こそ吹かなかったが、なんとなく、台詞にはしない方がいい気がしたのだった。
彼はただ静かに足元の帽子を拾い上げると、そっと埃を払った。
「まぁ。あんなに見つめられたらメガホンあげたくなる気持ちもわからなくもないですけどね」
「え?」とバルコニーで小首を傾げながらホットドッグを頬張るパーカー姿の彼女を、彼はアメリカンキャップ片手に中庭から見上げていた。
「人って欲しいものがあるとじっと見つめますよねって話。ふふ、あれで本人気づいてないんだもんなー」
彼は琥珀色の瞳を思い出してくつくつと笑った。
「えっと、田道間守さん……?」
「あげるって言ってるんですよ、先輩」
「え、くれるの……? なんで」
「さて。なんででしょうね」
「えっと条件は……?」
「そんなものありません。あげたいからあげる。それだけです。あ、でもせっかく先輩がそう言うんなら」
彼は帽子を天高く掲げると、バルコニーの一点をじっと見つめながら、イタズラっぽく笑った。
「いますぐここまで走ってきてください。全力で」
「えっと田道間守さん、それで……?」
「それだけ。はやく撮影の続きしましょうよ。皆待ってますよ。まだカット残ってるんですから」
「おや、田道間守さんはいつからそんなに映画作りがお好きになられたの?」
「別にいまも好きってほどじゃないですよ、先輩」
「やや、するともしや田道間守さんは密かにわたしの仕事ぶりに憧れてこの世界に?」
「それはないです」
「わたし悲しい、悲しいわ、田道間守さん」
「ただなんとなく気になって。今時流行りもしない、日の目を見るかもわからない、何なら自分が生きてる間に誰かに届くことはないかもしれない。それでもこの人たちはどうして人知れず映画を作りつづけてるんだろうって」
「ひどいわひどいわ、田道間守さん。なにもそこまで言わなくたって」
「ほんとうのことでしょう」
彼は憎まれ口を叩きながら、けれども口元には本人もそれと気づかぬうちに自然と笑みがこぼれていた。
心には、今まさに彼女と出会ったばかりのシーンが、繰り返し映し出されていた。
『――そんなの決まってるじゃん、God bless you through your acting! だよ』
まるでさっきまでの雷雨など気にもかけず、星々はいつしかロマンチックに瞬いている。
「ああタジマモリ、タジマモリ、どうしてあなたはタジマモリなの」
星空の下で、バルコニーの手すりに頬杖をつきながら女性は物思いに耽っていた。
「いっそその名前のとおり、常世の国まで行って黄色いメガホンをとってきてくれないかしら」
はぁ、と小さくため息をついた彼女の手には件のアメリカンキャップ。
その弱々しさたるや。
力なく握られた帽子がいまにも指先から転げ落ちそうで、とてもさっきまで黄色いメガホンをガシガシやっていた人物とは思われない。
「ねえ田道間守さん」
「先輩、俺たじまもりじゃないっす」
バルコニーの下に佇んで、男性は半ば呆れて声を掛けた。チャンバラの続きなどとても出来そうにない。
「まあ、名前がなんだというの。私は貴方だからお願いしているの。そうだわ、きっとそうね? そうでなくって? ねえ田道間守さん」
「だから先輩、たじまもりじゃないっす」
早咲きの薔薇の香をふくんだ雨上がりの風はどうも人をロマンチックな気持ちにさせるらしい。
舞い上がった夜風に明るい毛先を可憐に揺らす彼女もまた例外ではなかった。
「ああでも、こんなにお願いしたら貴方に嫌われてしまうかしら、どうかしら。せめて時じくの香の木の実はまた今度お願いすることにしようかしら。そうね? それがいいわね?」
「あ、もしかして今の全部独り言でしたか。すみません途中で話し掛けたりして。聞かなかったことにしますね。失礼しました」
「あ、待って!」
ふいに手を滑らせたのか、わざと手を滑らせたのかは知らないが、女性がバルコニーから身を乗り出したその拍子、帽子は夜風にふわりと舞うこともなく、ふつうに男性の足元へストンと落ちた。
「もしあの黄色いメガホンが無理だというのなら、今あなたが手にしているそのバラの香りのするノンアルコールカクテル、それをわたしにくださらない? 一口だけなんて言わないわ。そっくりそのまま、全部ほしいの。そうしたらわたし、もう一度その帽子を被ってもよくてよ。誓うわ」
「なるほどドア・イン・ザ・フェイスですか。それとも親戚にジャイアンでもいるのかな。でもこれはダメです」
「そんな!」
「先輩だってついさっきケータリングの最後の一個かっさらってったばっかじゃないですか。ふつうそんなとこまで走って逃げます? 俺がその店のホットドッグに目がないの知ってますよね」
「そこをなんとか、ね、田道間守」
「はぁ、またそんな……」
ふいに夜風が通り抜けて、彼は自分でもよくわからぬまま出かかった言葉を飲み込んだ。
そんな顔が濡れたアンパンみたいになるならあの少年にメガホンあげなきゃ良かったじゃないですか先輩――。
「ねえ田道間守、一生に一度のお願いよ」
いい格好しい先輩――。
とも思ったが、やはり彼は言葉にはしなかった。夜風こそ吹かなかったが、なんとなく、台詞にはしない方がいい気がしたのだった。
彼はただ静かに足元の帽子を拾い上げると、そっと埃を払った。
「まぁ。あんなに見つめられたらメガホンあげたくなる気持ちもわからなくもないですけどね」
「え?」とバルコニーで小首を傾げながらホットドッグを頬張るパーカー姿の彼女を、彼はアメリカンキャップ片手に中庭から見上げていた。
「人って欲しいものがあるとじっと見つめますよねって話。ふふ、あれで本人気づいてないんだもんなー」
彼は琥珀色の瞳を思い出してくつくつと笑った。
「えっと、田道間守さん……?」
「あげるって言ってるんですよ、先輩」
「え、くれるの……? なんで」
「さて。なんででしょうね」
「えっと条件は……?」
「そんなものありません。あげたいからあげる。それだけです。あ、でもせっかく先輩がそう言うんなら」
彼は帽子を天高く掲げると、バルコニーの一点をじっと見つめながら、イタズラっぽく笑った。
「いますぐここまで走ってきてください。全力で」
「えっと田道間守さん、それで……?」
「それだけ。はやく撮影の続きしましょうよ。皆待ってますよ。まだカット残ってるんですから」
「おや、田道間守さんはいつからそんなに映画作りがお好きになられたの?」
「別にいまも好きってほどじゃないですよ、先輩」
「やや、するともしや田道間守さんは密かにわたしの仕事ぶりに憧れてこの世界に?」
「それはないです」
「わたし悲しい、悲しいわ、田道間守さん」
「ただなんとなく気になって。今時流行りもしない、日の目を見るかもわからない、何なら自分が生きてる間に誰かに届くことはないかもしれない。それでもこの人たちはどうして人知れず映画を作りつづけてるんだろうって」
「ひどいわひどいわ、田道間守さん。なにもそこまで言わなくたって」
「ほんとうのことでしょう」
彼は憎まれ口を叩きながら、けれども口元には本人もそれと気づかぬうちに自然と笑みがこぼれていた。
心には、今まさに彼女と出会ったばかりのシーンが、繰り返し映し出されていた。
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