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客人
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「お客さん、そろそろ起きてくださいよ」
バーのカウンター席に突っ伏してマスターに肩を揺すられているのは先ほどの妙な警官、一人きりであった。
「あれ。さっきの子は?」
気怠げに伸びをして、妙な警官は霞む視界で辺りを見渡した。閉店前のバーには自分とマスターの他には誰もいない。
「お連れさんならとっくに出て行きましたよ」
「なあんだ。つまらん」
ふーっと長いため息を吐くと、妙な警官は帽子を外すやカウンターの上に無造作に置いた。
白磁の肌にランプのオレンジがほのかに色づいて、かろうじて温もりを保っているような手を見つめながら、マスターはからかうように笑った。
「また黒蜥蜴ごっこですか?」
はたしてこの人の指先はこんなに華奢だったろうか? マスターは内心では壊れ物でも扱うような気遣いを見せながら、けれども傍目にはからかうようなそぶりを崩さなかった。
「まさか。僕は彼女とは違いますよ。殺しもしないし盗みもしない」
「どうだか」
意地になって否定するのはなにゆえか。マスターは小さく笑うとあらためて客人を見やった。
「まあ、たしかに」なんて言いながら大きな伸びをまた一つして、すらりと細い腕を首の後ろに回すと、束ねていた黒髪を指先で器用にほどいて、どこか遠くを見つめている。
妙な警官、もとい先ほどからカウンター席に腰掛けている一人の客人は、いまやどこから見ても普通の女性であった。
「たしかに、江戸川乱歩が演技派だったことには僕も驚きましたよ。あの黒蜥蜴の演技ときたら。この世界に来るまでミステリはちゃんと読んだことがなかった」
切り揃えた毛先が女性の肩甲骨の辺りで揺れるように波打った。
「ほらやっぱり」
「でも彼女が狙うのは天然ものでしょう。僕はむしろつくりものが好きなんです」
「私は本物がいいですけどねぇ」
「そうは言ってもマスター、本物ったっていろいろあるでしょう貴方」
「そうですか?」
「あのちゃんぽんな感じ、好きだなあ」
「あぁなるほど。すると貴女は彼女の心が本物だったとでも仰りたいんですか、お客さん。黒蜥蜴にも心は確かにあったと」
「それは……」
不意に沈黙が訪れて、白磁の肌に影が差した。マスターはここぞとばかりに彼女の瞳をカウンター越しに覗き込んだ。
「まあ、正直なところ、どっちでもいいんですけどね。私は」
「はあ?」
彼女が頓狂な声を上げるのを見るやマスターはからかうようにもう一度笑った。
「何を気にしてるのか知りませんけど。天然ものだろうがつくりものだろうが真心があれば本物、違います?」
「あ、そうだ」とマスターはカウンターの下からおもむろに手の平サイズのシールを取り出すと、客人のおでこに勢いよく貼り付けた。
「ちょっと何する」
「それ貴女に差し上げます。この前運送業者の人が置いてったんですけど、一枚多かったんで」
「運送業者?」
客人はぶつくさ言いながら額のシールを剥がした。
「天地無用……」
「まあ、普段は無でいてたまに遊びたくなった時だけ演じるくらいでもいいんじゃないですか。知りませんけど。さすがにずっと遊び続けてたら疲れるでしょう?」
「ところでそれどうしたんです」とマスターは客人の首の辺りを指差した。シールを叩きつけた際に目の端で彼女のネックレスが煌めいたのだった。
「まさか、本当に盗んだんじゃ」
「失礼な。僕がそんなことするはずないだろう。貰ったんだよ」
「誰に?」
「さて、誰だろうね」
彼女は胸元からネックレスを取り出して見せた。馬蹄形のシルバーにあしらったハート形の宝石が異様なほど鮮やかに煌めいた。
「ダイヤモンド……?」
「一見ね。でも実はキュービックジルコニア。僕はこの虹色の輝きが好きなんだ」
「へぇ、貴女も誰かから宝石を貰うようなことがあったんですねぇ」
「ハハハ、失礼なマスターだな。学生時代に貰ったんだよ、偶然ね」
「偶然?」
「そう偶然」
「へぇ、不思議な偶然があったもんですねぇ。で、誰から?」
「それは秘密」
「は? なんすかそれ」
彼女が偶然と言い張るのはただ誰に貰ったかを誤魔化す為で、なんのことはない、実際は大学の卒業式でろくにブランドも知らない冴えない女学生がビンゴ大会で一等を当ててしまった、それだけの話である。
こんなことマスターには言えないなと内心では小さく笑いながら、女性は手の内の七色の輝きを見つめた。この美しさに我を忘れる瞬間があればこそ、この舞台にも立っていられよう。
「ところでマスター、美しさに嘘もほんとうもありますか?」
「だから言ってるじゃないですか、真心があればそれでいいって。聞いてました人の話?」
「あ、聞いてた聞いてた」
「嘘だね」
「ほんとう、ほんとうよ。信じて貴方」
「はぁ、まったく。あ、そういえばあの子、鍵のようなもの持ってっちゃいましたけど、よかったんですか?」
「ああ、あれ。いいんだよ、最初からそのつもりだったから。ここまで酔うとは思わなかったけど」
「年ですねぇ」
「ハハハ、失礼なマスターだな」
「うん知ってる」
「ほんとうに」
バーのカウンター席に突っ伏してマスターに肩を揺すられているのは先ほどの妙な警官、一人きりであった。
「あれ。さっきの子は?」
気怠げに伸びをして、妙な警官は霞む視界で辺りを見渡した。閉店前のバーには自分とマスターの他には誰もいない。
「お連れさんならとっくに出て行きましたよ」
「なあんだ。つまらん」
ふーっと長いため息を吐くと、妙な警官は帽子を外すやカウンターの上に無造作に置いた。
白磁の肌にランプのオレンジがほのかに色づいて、かろうじて温もりを保っているような手を見つめながら、マスターはからかうように笑った。
「また黒蜥蜴ごっこですか?」
はたしてこの人の指先はこんなに華奢だったろうか? マスターは内心では壊れ物でも扱うような気遣いを見せながら、けれども傍目にはからかうようなそぶりを崩さなかった。
「まさか。僕は彼女とは違いますよ。殺しもしないし盗みもしない」
「どうだか」
意地になって否定するのはなにゆえか。マスターは小さく笑うとあらためて客人を見やった。
「まあ、たしかに」なんて言いながら大きな伸びをまた一つして、すらりと細い腕を首の後ろに回すと、束ねていた黒髪を指先で器用にほどいて、どこか遠くを見つめている。
妙な警官、もとい先ほどからカウンター席に腰掛けている一人の客人は、いまやどこから見ても普通の女性であった。
「たしかに、江戸川乱歩が演技派だったことには僕も驚きましたよ。あの黒蜥蜴の演技ときたら。この世界に来るまでミステリはちゃんと読んだことがなかった」
切り揃えた毛先が女性の肩甲骨の辺りで揺れるように波打った。
「ほらやっぱり」
「でも彼女が狙うのは天然ものでしょう。僕はむしろつくりものが好きなんです」
「私は本物がいいですけどねぇ」
「そうは言ってもマスター、本物ったっていろいろあるでしょう貴方」
「そうですか?」
「あのちゃんぽんな感じ、好きだなあ」
「あぁなるほど。すると貴女は彼女の心が本物だったとでも仰りたいんですか、お客さん。黒蜥蜴にも心は確かにあったと」
「それは……」
不意に沈黙が訪れて、白磁の肌に影が差した。マスターはここぞとばかりに彼女の瞳をカウンター越しに覗き込んだ。
「まあ、正直なところ、どっちでもいいんですけどね。私は」
「はあ?」
彼女が頓狂な声を上げるのを見るやマスターはからかうようにもう一度笑った。
「何を気にしてるのか知りませんけど。天然ものだろうがつくりものだろうが真心があれば本物、違います?」
「あ、そうだ」とマスターはカウンターの下からおもむろに手の平サイズのシールを取り出すと、客人のおでこに勢いよく貼り付けた。
「ちょっと何する」
「それ貴女に差し上げます。この前運送業者の人が置いてったんですけど、一枚多かったんで」
「運送業者?」
客人はぶつくさ言いながら額のシールを剥がした。
「天地無用……」
「まあ、普段は無でいてたまに遊びたくなった時だけ演じるくらいでもいいんじゃないですか。知りませんけど。さすがにずっと遊び続けてたら疲れるでしょう?」
「ところでそれどうしたんです」とマスターは客人の首の辺りを指差した。シールを叩きつけた際に目の端で彼女のネックレスが煌めいたのだった。
「まさか、本当に盗んだんじゃ」
「失礼な。僕がそんなことするはずないだろう。貰ったんだよ」
「誰に?」
「さて、誰だろうね」
彼女は胸元からネックレスを取り出して見せた。馬蹄形のシルバーにあしらったハート形の宝石が異様なほど鮮やかに煌めいた。
「ダイヤモンド……?」
「一見ね。でも実はキュービックジルコニア。僕はこの虹色の輝きが好きなんだ」
「へぇ、貴女も誰かから宝石を貰うようなことがあったんですねぇ」
「ハハハ、失礼なマスターだな。学生時代に貰ったんだよ、偶然ね」
「偶然?」
「そう偶然」
「へぇ、不思議な偶然があったもんですねぇ。で、誰から?」
「それは秘密」
「は? なんすかそれ」
彼女が偶然と言い張るのはただ誰に貰ったかを誤魔化す為で、なんのことはない、実際は大学の卒業式でろくにブランドも知らない冴えない女学生がビンゴ大会で一等を当ててしまった、それだけの話である。
こんなことマスターには言えないなと内心では小さく笑いながら、女性は手の内の七色の輝きを見つめた。この美しさに我を忘れる瞬間があればこそ、この舞台にも立っていられよう。
「ところでマスター、美しさに嘘もほんとうもありますか?」
「だから言ってるじゃないですか、真心があればそれでいいって。聞いてました人の話?」
「あ、聞いてた聞いてた」
「嘘だね」
「ほんとう、ほんとうよ。信じて貴方」
「はぁ、まったく。あ、そういえばあの子、鍵のようなもの持ってっちゃいましたけど、よかったんですか?」
「ああ、あれ。いいんだよ、最初からそのつもりだったから。ここまで酔うとは思わなかったけど」
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