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束の間

機械仕掛けの女神

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「それじゃ。今度こそ、元気で」

 マヌーはいとも簡単に鍵を開けると扉を押し開けた。

「もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」

 血まみれオフィーリアはバラをぷらぷらさせながら、去り行く背中に名残り惜しそうに声を掛けた。

「そういう訳にはいかないよ」
「助けたい人がいるから?」
「うん」
「待ってるかどうかもわからないのに?」
「うん」
「もしかして、もう間に合わないんじゃない?」
「うん」

 そうだね、と受け入れるマヌーは思いのほか淡々としている。

「間に合わないのに行く意味ってある?」
「意味は……ないかもしれないけど――」

 ふと、マヌーは思い出したように足元を見た。
 それから深淵に忘れ去られていた物語を拾い上げると、ボロボロの革表紙を袖口でそっと拭いた。

「いま生きてここにいるということは、まだ僕にもこの世界で出来ることが何かしらあるということでしょう?」

 直接的にしろ、間接的にしろ。
 
「そうかしら?」

 たとえどんなに些細なことであっても。
 たとえどんな姿形になっても。
 たとえどんなに不自由な世界であっても。

「そうあってほしいね」

 そこにまだ自由があるのなら、どう演じるかくらいは自分で決めたい――。

 マヌーは役者としての最後の自由を胸に秘め、彼女にそっと本を差し出した、ものの。

「いらないわよ、そんなの」

 彼女はバラを片手に古びた本を突っ返してしまった。

「え、だって」

 さっきまであんなに大事そうに抱えてたのに? とでも言いたげな瞳でマヌーが見やれば、どうやら何か他の意図があるらしい。
 彼女の瞳は思いのほかまっすぐ前を見つめていた。

「あげるって言ってるの。借りをつくるの、好きじゃないのよね」

 これじゃまるでツンデレじゃない、なんてぶつぶつ言いながら、照れを誤魔化す彼女はデレと呼べるのだろうか。むしろただのツンツンした人ではないのか?

 マヌーは喉元まで出かかった真実の言葉を呑み込むと、古びた本の表紙をそっと撫でた。夢覚ましとて何でもかんでも真実を告げればいい訳ではないことは、いまなら少しは知っているつもりだった。少しは。

「じゃあ最後に願いごとは?」
「願いごと……? だから契約は――」
「もう勘がわるいったら」

 はぁ、と彼女は嘘っぽい、けれども今度はどこかほんとうらしさを宿らせた、ぬくもりのあるため息をついた。

「最後にあんたの願いごと、ひとつだけ叶えてあげる」
「さっき二人なら奇跡を起こせるって言ってなかった?」
「別に? 二人でも起こせるし、一人でも起こせる。それだけのことよ」
「なるほど、新手の詐欺の類いでしたか」
「ほんとうの女神の力、なめないでほしいわね。で、願いごとは?」
「ほんとうの……? というかそんな急に言われても」
「じゃあ決まったらでいいわ。そのときはあの台詞を天に向かって叫ぶこと。いいわね」
「いやだからあの台詞って」
「決まってるじゃない。古代ギリシャ要素満載のこの劇場で役者が最後に頼るものといえば?」
「古代ギリシャ……」
「まぁあんたの片割れの真似事をするのはちょっと癪にさわるけど」

 あっと小さく息を呑むマヌーを見守る彼女の瞳には、いつかぬくもりが宿っていた。

「ようやく気づいたの? はぁ、これだから機械音痴って」

 やれやれ、と彼女はバラの花に顔を寄せた。まるで機械仕掛けの女神のように、その瞳に奇跡を宿らせて。
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