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束の間

My holy grail bloody rose

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「ねえ王子、そうしましょう?」
「ありがとう」
「まあ嬉しい! じゃあさっそく契約のしるしにこれを――」
「でもごめん。僕、王子じゃないから」

 血まみれオフィーリアは懐からマイクロな何かを差し出そうとしたが、マヌーはすんでのところで彼女の腕をかいくぐると、扉の脇にあるはずのショーウィンドウのほうへ足を向けた。

「そんなの気にしないって言ったじゃない」

 背中越しに聞こえた縋るような声はいつになく感情がこもっているように思われた。マヌーはそっとガラス戸を引きながら、

「本当のことだよ」

 と目もくれずに呟くと、ショーウィンドウの中に頭ごと突っ込んで何やらごそごそと探し始めた。

「あれ確かここに」なんて呟いて、しまいにはガラス戸の向こうに片足を突っ込んで尚ガタガタやっている。

 いつかキャンバスの空に釣り下がっていた青い月がバサッと落ちて、弾んだ表紙に裏面の茶色い段ボールが丸見えになってしまった。

「二人なら奇跡を起こせるのに」

 遠目にも王子とは言い難い不審な人影を見つめながら、血まみれオフィーリアは扉前のホールから声を掛けた。

「そんなもんかな」
「あなた変わったわ」
「そう?」

 自覚こそしていなかったが、その変化こそマヌーの求める奇跡の一端であった。

「まえは優しく抱きしめてくれたのに」

 血まみれオフィーリアは小さな声でぽつりと呟いた。

「え?」

 モスリンの布地にでも引っ掛かったのだろうか、マヌーは緑の布地の合間から一瞬顔を見せたが、またすぐ格闘に戻ってしまった。
 拗ねたように呟いた彼女の言葉がマヌーの耳に届くことはなかった。

 静かになった扉前のホールが急に広く感じられたのか、あるいは外の寒さを思って心細く感じられたのか。

 血まみれはオフィーリアはいじけたようにしばらく一人で佇んでいたが、いくら待ってもなんの音沙汰もない。
 無関心な世界から彼女がいよいよ姿を消そうとした、その時――

「あったー!」

 捕ったどー! と雄叫びをあげんばかりの陽気な声がホールに響いた。
 不審な言動に彼女が見やれば、ガラス戸から勢いよく飛び出した人影はまとわりつく緑の布地をひっぺがし、天高く一本のバラを掲げている。

「僕の大事な宝物」

 マヌーは大事な宝物を触るときのように優しく、バラの花をそっと包んだ。



「いらないわよそんなの」
「君に似合うと思ったんだけど」
「どうせもういらなくなったんでしょう? 私みたいに」
「だからそんなんじゃないってば」
「所詮つくりものじゃない」
「そりゃあつくりものだけど。僕の命に代えても大切な、かけがえのないバラだよ」
「もともと誰かにあげるつもりだったんでしょ」
「うーん、そのつもりだったんだけど。どうやらこのバラは持ち主を選ぶらしいんだ」
「でた作り話」
「あながち本当の話みたいじゃない? 場所とタイミング的に」
「そうやって丸め込むつもりでしょう? はあ、これだから役者って」
「だから違うって」

 いったいどうすれば、この人に愛を伝えることができるのだろう? どうすれば、良かったのだろう?

 マヌーは元幼なじみの残像を振り払うようにかぶりを振ると、悩みに悩み、最後は荒療治に打って出ることにした。結局のところ、押してダメなら引くしかないのだ。Fare you well, my dove!

「それじゃ、元気で。バラはやっぱり持っていくことにするね」

 マヌーはさも何事もなかったかのように陽気な声でさよならを告げると、一度も振り返りもせず、扉の鍵に手をかけた。なんのことはない、内側からなら片手で外せるほどの小さなかんぬきであった。


「結局あなたも私を見捨てるのね」


 マヌーが鍵を開けようとしたその時、血まみれオフィーリアが未練たらしく呟いた。

「そんなんじゃないよ。ただ助けたい人がいるんだ」

 マヌーは陽気な調子を崩さずに淡々と答えた。

「また自己犠牲? 相変わらずね」
「そんなんじゃ……」

 と言いかけてマヌーは一瞬手を止めた。
 それからふっと小さく笑うと、他人事のように呟いた。

「そうかもしれない」

 自己犠牲を嗤うのも賛美するのも所詮舞台の上の他人に過ぎないけれど。マヌーは舞台に立ってみて初めて、自分にもある種の利己的で利他的な欲があることに気がついた。

「また誰かの幸せのために独りで苦しむつもり?」
「そんなんじゃないけど。ただ観客席から役者を眺めてるの案外好きだったなって」

 元来、彼は舞台の上で自由に動き回る役者を眺めているのが好きであった。喜びであった。その舞台を守る為なら命すら惜しくないと思っていた。
 
「そんなの屁理屈じゃない」
「そうだね。でも――」

 無論、マヌーとて命がなければ出来ることも出来ないので、よほどのことがない限り無闇に投げ出すようなことはもうしない。

 ただ己の人生を満足に生きていればいいのに、わざわざ他の人まで巻き込んで何かしたいと願うのは、よく言えば面倒見のいい、ありていに言えば少し押しつけがましい、マヌーをマヌーたらしめている根源的な欲求であった。

「誰かに幸せでいてほしいと願うのは、押しつけられた義務じゃない。僕のどうしようもなく個人的な、願望だよ」

 自己犠牲なんて言葉にときどき揺らぐこともあるけれど、気づけばマヌーは己の人生の浮き沈みなど、とっくにどうでもよくなっていた。

「だからこのバラ、やっぱり受け取って欲しいんだ。君に」

 マヌーはくるりと振り返り、血まみれオフィーリアに歩み寄るやいきなり抱きしめた。
 バサッと本を取り落とす程には彼女も驚いたらしい。

「王子じゃなくて申し訳ないんだけど」

 マヌーはいたずらっぽく微笑むと、バラを彼女の黒髪にそっと挿した。深淵の縁で、懐かしいシャボンの香りが二人を優しく包み込んだ。
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