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束の間
行雲流水
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マヌーの役者人生最大の偶然は、図らずも足柄山の近くで生まれ育ったということだった。
「ぷゎ ぷゎぷゎ」
ものぐさすぎてろくに山に登ったこともないので、梁塵秘抄口伝集を読むまでは身近な山々に遊女や神々の物語があったことも秘曲『足柄』の存在も知らなかった。
そう言えば「遊女の滝」なるものが近くにあったなと、だいぶ後になって気づいたほどだ。
「とうとうたらり たらりら」
時知らぬ山にも一度は登ってみたいと思いながら結局踏ん切りがつかず、足柄山から眺めるばかり。そのものぐさぶりは一言では言い尽くせないが、たとえばネットの海で有名な呟き村に入村したときなどは、半年ともたずに退村してしまった。
一度目は二週間経たないほどだったことを思えば、マヌーの夢見る飛躍的変化であったことは間違いない。
「ぷわゎゎ~ ぷわゎゎ~」
ゆえにマヌーが足柄の峠道を歩いて登ることは滅多にない。否、皆無。それでもすれ違った車が山道の怖さをちゃんと知っているか一目でわかるくらいには車で通いつめた。
都落ちしたばかりの頃などは狂ったように山に通った。それはもう数えきれないほどだ。
「たらりあがりららりとう」
先が見えないほどの曲がり道を勢いよくセンターラインがっつり越えて来るような車がいることを思えば、ほとんど車も人も通らないど田舎の峠道を毎度毎度カーブ手前で律儀に減速するマヌーはむしろ、安全運転を心がけているものぐさのかがみと言えよう。
おかげで峠道の途中に立っているはずの芭蕉の句を記した手書きの看板が倒れているときなどは、わざわざ車を停めて直すこともしばしば。それはもう、数えきれないほどだ。
「ぷゎ ぷゎぷゎ ぷゎ ぷゎぷゎ」
周辺には黒澤映画のロケ地や別荘もあるそうだが、特に看板も何もないどころかどれも地元ではガチの心霊スポットとして有名なぐらいで、わざわざ映像を頼りにロケ地巡りするような物好きはマヌーの他に数えるほどだろう。
つまるところ、足柄山周辺は雅とは言い難い。
「滝は多かれど うれしやとぞ思ふ」
「ぷゎ ぷゎぷゎ ぷゎ ぷゎぷゎ」
時知らぬ山の雄大な裾野には滝や川など湧水も多く、伏流水の恩恵は計り知れない。まことに足柄という地は風光明媚な土地ではあるけれども、どう贔屓目にみても都会的な雰囲気とはかけ離れている。
古代から東西を結ぶ街道として賑わったこともあろうが、車もない当時の人々にとっては都など遥か遠方の地であったろう。マヌーはいにしえの古都に想いを馳せた。
「花や咲きたる やすらい花や」
「ぷゎ ぷゎぷゎ ぷゎ ぷ……」
初めて秘曲『足柄』の存在を知ったときは「なぜにそんな遠方の地に足柄の歌が?」とマヌーは不思議で仕方がなかったが、足柄三首のひとつに『瀧水』なるものがあると知った時には、「なるほどそんなこともあるかもしれない」と妙に納得したのだった。
つまるところ、文化の継承という点で都は少なからずタイムカプセル的な役割を果たしてきたのだろう。
「鳴る滝のみづ 日は照るとも たへでとうたへ」
「ぷゎ……ぷゎぷゎ……ぷ……」
「たへでとうたへ やれことつとう」
「あ、電池が……」
〝あ〟という文字でさえ、阿・安・悪・愛とその時々でかな文字を日常的に使い分ける文化があった。それが明治になり、平仮名が1音1字に統一されてから、一っっっっっ気に廃れてしまった。
使わない文字は変体仮名として人々の生活から遠い存在になったことを思えば、法で保護されなかったために次第に人々から忘れ去られたものもあるのだろうとマヌーは想像する。
「鳴るは滝の水 鳴るは滝の水」
「…………よしっ……かくなるうえは」
たとえば能の演目の中でも最古のものとされる『翁』には、秘曲『足柄』の『瀧水』が取り入れられているのだとか。
冒頭から呪文のような言葉で始まるその演目は古くは式三番と呼ばれ、その特殊性から能にして能にあらずと評される。
どこぞの毛越寺辺りで伝承されてきた延年の舞「老女」「若女禰宜」などと見比べてみても、マヌーはそこに秘曲『足柄』の面影を感じずにはいられなかった。
「おおさえ おおさえ よろこびありや」
「ぷわ ぷわぷわぁ ぷわ ぷわぷわぁ」
無論、ただの当てずっぽうではない。こと「若女」に関しては鎌倉の神子から伝えられたことから坂東舞とも呼ばれているそうな。
その坂東の地の端っこにある足柄山にも同じような舞――手に鈴や扇のようなものを持ち、若者や年老いた者の姿で未来を言祝ぎ演じる予祝の舞――がかつて存在していたのではないか。
そうマヌーが想像するのはむしろ自然な流れ、それなりに理にかなった当てずっぽうと言えよう。
「よろこびありや わがこのところよりほかへはやらじとぞおもふ」
「ぷわぁ ぷわぁぷわ ぷわ ぷわぁぷわ」
ときに、坂東舞が披露される曲水の宴は遡れば海の向こうの国にまでたどり着く。
その遠方の地で曲水の宴を催し、ほろ酔いになりながら王羲之が記したという蘭亭序の言葉を借りるなら、仰観宇宙之大 俯察品類之盛――仰ぎて宇宙の大なるを観 俯して万物の盛んなるを察す。
そんなあらゆる命を言祝ぐ未来への祈りを込めた舞だったのではないか。
「…………」
「ぷわわわぁ~ ぷわわわぁ~」
一心不乱に鈴を鳴らすほど、目に見えない世界を身近に感じていた人たちにとっては音の響きそのものがどこか存在感のある、現実的なものだったのかもしれないな――。
「ぷわ…………ん?」
突然の静かさが気になって、マヌーはついさっきまでオタマトーンの物真似をしていたことも忘れ、足柄山の端っこで静かに舞うなりすまし女神を見やった。
「あれ?」
さっきまでの勢いはどこへやら、女人の影は白い千早を翻し、消え入りそうに儚い声でなにやら昔の歌を口ずさんでいた。
「ぷゎ ぷゎぷゎ」
ものぐさすぎてろくに山に登ったこともないので、梁塵秘抄口伝集を読むまでは身近な山々に遊女や神々の物語があったことも秘曲『足柄』の存在も知らなかった。
そう言えば「遊女の滝」なるものが近くにあったなと、だいぶ後になって気づいたほどだ。
「とうとうたらり たらりら」
時知らぬ山にも一度は登ってみたいと思いながら結局踏ん切りがつかず、足柄山から眺めるばかり。そのものぐさぶりは一言では言い尽くせないが、たとえばネットの海で有名な呟き村に入村したときなどは、半年ともたずに退村してしまった。
一度目は二週間経たないほどだったことを思えば、マヌーの夢見る飛躍的変化であったことは間違いない。
「ぷわゎゎ~ ぷわゎゎ~」
ゆえにマヌーが足柄の峠道を歩いて登ることは滅多にない。否、皆無。それでもすれ違った車が山道の怖さをちゃんと知っているか一目でわかるくらいには車で通いつめた。
都落ちしたばかりの頃などは狂ったように山に通った。それはもう数えきれないほどだ。
「たらりあがりららりとう」
先が見えないほどの曲がり道を勢いよくセンターラインがっつり越えて来るような車がいることを思えば、ほとんど車も人も通らないど田舎の峠道を毎度毎度カーブ手前で律儀に減速するマヌーはむしろ、安全運転を心がけているものぐさのかがみと言えよう。
おかげで峠道の途中に立っているはずの芭蕉の句を記した手書きの看板が倒れているときなどは、わざわざ車を停めて直すこともしばしば。それはもう、数えきれないほどだ。
「ぷゎ ぷゎぷゎ ぷゎ ぷゎぷゎ」
周辺には黒澤映画のロケ地や別荘もあるそうだが、特に看板も何もないどころかどれも地元ではガチの心霊スポットとして有名なぐらいで、わざわざ映像を頼りにロケ地巡りするような物好きはマヌーの他に数えるほどだろう。
つまるところ、足柄山周辺は雅とは言い難い。
「滝は多かれど うれしやとぞ思ふ」
「ぷゎ ぷゎぷゎ ぷゎ ぷゎぷゎ」
時知らぬ山の雄大な裾野には滝や川など湧水も多く、伏流水の恩恵は計り知れない。まことに足柄という地は風光明媚な土地ではあるけれども、どう贔屓目にみても都会的な雰囲気とはかけ離れている。
古代から東西を結ぶ街道として賑わったこともあろうが、車もない当時の人々にとっては都など遥か遠方の地であったろう。マヌーはいにしえの古都に想いを馳せた。
「花や咲きたる やすらい花や」
「ぷゎ ぷゎぷゎ ぷゎ ぷ……」
初めて秘曲『足柄』の存在を知ったときは「なぜにそんな遠方の地に足柄の歌が?」とマヌーは不思議で仕方がなかったが、足柄三首のひとつに『瀧水』なるものがあると知った時には、「なるほどそんなこともあるかもしれない」と妙に納得したのだった。
つまるところ、文化の継承という点で都は少なからずタイムカプセル的な役割を果たしてきたのだろう。
「鳴る滝のみづ 日は照るとも たへでとうたへ」
「ぷゎ……ぷゎぷゎ……ぷ……」
「たへでとうたへ やれことつとう」
「あ、電池が……」
〝あ〟という文字でさえ、阿・安・悪・愛とその時々でかな文字を日常的に使い分ける文化があった。それが明治になり、平仮名が1音1字に統一されてから、一っっっっっ気に廃れてしまった。
使わない文字は変体仮名として人々の生活から遠い存在になったことを思えば、法で保護されなかったために次第に人々から忘れ去られたものもあるのだろうとマヌーは想像する。
「鳴るは滝の水 鳴るは滝の水」
「…………よしっ……かくなるうえは」
たとえば能の演目の中でも最古のものとされる『翁』には、秘曲『足柄』の『瀧水』が取り入れられているのだとか。
冒頭から呪文のような言葉で始まるその演目は古くは式三番と呼ばれ、その特殊性から能にして能にあらずと評される。
どこぞの毛越寺辺りで伝承されてきた延年の舞「老女」「若女禰宜」などと見比べてみても、マヌーはそこに秘曲『足柄』の面影を感じずにはいられなかった。
「おおさえ おおさえ よろこびありや」
「ぷわ ぷわぷわぁ ぷわ ぷわぷわぁ」
無論、ただの当てずっぽうではない。こと「若女」に関しては鎌倉の神子から伝えられたことから坂東舞とも呼ばれているそうな。
その坂東の地の端っこにある足柄山にも同じような舞――手に鈴や扇のようなものを持ち、若者や年老いた者の姿で未来を言祝ぎ演じる予祝の舞――がかつて存在していたのではないか。
そうマヌーが想像するのはむしろ自然な流れ、それなりに理にかなった当てずっぽうと言えよう。
「よろこびありや わがこのところよりほかへはやらじとぞおもふ」
「ぷわぁ ぷわぁぷわ ぷわ ぷわぁぷわ」
ときに、坂東舞が披露される曲水の宴は遡れば海の向こうの国にまでたどり着く。
その遠方の地で曲水の宴を催し、ほろ酔いになりながら王羲之が記したという蘭亭序の言葉を借りるなら、仰観宇宙之大 俯察品類之盛――仰ぎて宇宙の大なるを観 俯して万物の盛んなるを察す。
そんなあらゆる命を言祝ぐ未来への祈りを込めた舞だったのではないか。
「…………」
「ぷわわわぁ~ ぷわわわぁ~」
一心不乱に鈴を鳴らすほど、目に見えない世界を身近に感じていた人たちにとっては音の響きそのものがどこか存在感のある、現実的なものだったのかもしれないな――。
「ぷわ…………ん?」
突然の静かさが気になって、マヌーはついさっきまでオタマトーンの物真似をしていたことも忘れ、足柄山の端っこで静かに舞うなりすまし女神を見やった。
「あれ?」
さっきまでの勢いはどこへやら、女人の影は白い千早を翻し、消え入りそうに儚い声でなにやら昔の歌を口ずさんでいた。
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