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束の間

クローズアップしすぎる深淵*

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『いつだったか、帯状疱疹こじらせて一年くらい熱が下がらなかったことがあるんだ。そんなこと役者人生で初めてだったから、本当にどうしようかと思った。おかげでろくに映画館にも行けなくてね』

「そのまま喋るの?」

 スクリーン一杯に映し出された琥珀の瞳に突っ込むルキアッポス。
 琥珀の瞳は夜空の星を反射していたずらっぽく煌めいた。
 
『だって。面映おもはゆいじゃないですか。やっとこの姿でチアキに会えるというのに』

 スクリーンの映像が高速で左右にブレている。もしかしたら恥ずかしがってクネクネしているのかもしれない。

「ああもう、カメラの近くでモジモジしないでよ。ほんと酔いそう」

『失礼しちゃう』

 スクリーンの映像が高速で勢いよくブレた。きっとプイッとしたに違いない。

『でも不思議なのは、なぜか熱出てる期間だけは一切頭痛がなくてさ。おかげであの時だけは久々に読んだり書いたり、役者として定期的に何か出来ることの喜びを満喫したね』

「そうですか」

『もしかして水疱瘡ウイルスと片頭痛って何か関係があるのかな?』

「いや僕に聞かれても」

 ルキアッポスは面倒になってきたのか早々に匙を投げた。



  *



 いつだったか、銀幕の向こうの可憐な女性に心奪われたことがあるんだ。映画草創期の頃から映画とともに生きた女優リリアン・ギッシュ。
 クローズアップという手法は彼女の美しい瞳に魅せられた監督やカメラマンが確立したという話もあるほどだよ。
 もちろん実際のところはどうだか知らない。映像を拡大する技法自体はそれ以前にもあったようだし。それでも彼女の可憐で凛とした美しさときたら――。僕はもう何度心奪われたかわからない。

 もしかしたら、彼女の美しさを観客の心に届けたという点で、映画という芸術にとっては大きな一歩だったのかもしれない。D・W・グリフィスが映画の父と呼ばれる所以ゆえん
 それはさながら、王羲之おうぎしが書道の神様と呼ばれるようなもので――。
 それまで情報の羅列や記号にしかすぎなかった道具ツールを、人々の心に寄り添うエンターテインメントや芸術にした。その遊び心を形にしたという点で、彼らの存在はとても大きかったのかもしれない、なんて。

 もちろん、正直に言ってしまえば、D・W・グリフィスの映画も王羲之の達筆な字も初めて見たときは〝ふつう〟だなと思った。
 もしここにルキアノスがいたら僕はきっと叱られているだろう。「無学なくせにやたらと本を買い込むこの蔵書家が」って。無論、僕が無学な積ん読家であることは否定しないよ。

 でも、ある時ふと思ったんだ。

 時代を経て見た僕が〝ふつう〟って感じるってスゴくない? だってそれって、長い時を経ても〝ふつう〟に感じるほど彼らの影響が色濃く残っていて、いまだに彼らの作品が基本になってるってことでしょう?

 ああ、もしここに野々村修准教授がいたら答えを教えてくれたかもしれないのに。僕の敬愛する人間行動学の専門家。最後にはちゃんと教授にまでなられて。感慨深かったな。どうして終わっちゃったんだろうヨルタモリ。
 それにしても、ルキアノスと野々村教授が同じ時代に生きていたら。きっと話も弾んだだろうなと思わずにいられないよ。

 話が長くなっちゃった。

 要するに、これはただの僕の願望。けしてチアキが長い階段のぼり終えるまで間を持たせてる枕でも前座でもない。


 ほんとだよ?


 好きなものに想いを寄せて、出会った偶然と偶然をなんとか理性で繋ぎ合わせて、なんとか形を整えてみたらこうなった。それだけのこと。べつに笑われたっていいんだ。

 だって何も大層なことは成し遂げてやいないけど、それでも苦しみ抜いて歩いてきた人生は、他の誰でもない自分だけの人生でしょう?

 かつてヴィクトール・E・フランクルはこう言ってた。というか、『夜と霧』って本に書いてあった。


「まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ」って。


 そりゃあ僕はきみの苦しみに触れることすら叶わない無学で無力でカオスな神様(仮)だけど。代われるものなら代わってあげたい。でもそれすら叶わないのなら。せめて冠を贈らせてほしいんだ。もちろん同情なんかじゃないよ。

 人知れず苦しみ抜いて生きてきたあなたへ五彩に煌めく花冠を。

 心からの敬意を込めて。
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