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束の間
大詰め
しおりを挟む『え、忘れものですかプロデューサー』
『ああ、いや、お見送りをと思ってね』
『え? 社長がお見送りなんて。はは、よしてくださいよ。そんなただのカエルに――』
「正直、これはマズイなと思いました。だってあの時とまるでデジャ・ヴなんですから」
カエルは背の高い椅子に掛けなおすと、ガラケー片手に昔の夢に想いを馳せた。
「もちろん上京するにあたっては細心の注意を払っていたつもりでしたが、やはりカエルは迂闊でした。最後の最後、結局カエルはプロデューサーを完全に疑いきることができなかった。情のない人に情で接しても何の解決にもならないと痛いくらい知っていたのに。ほんとうに、いつも詰めが甘くって……。
ですが、不思議なことってあるものですね」
カエルの脳裏に、スタジオのガラス扉を押し開けてプロデューサーのあとをついてくる二人の人影が過った。
「偶然話し掛けた制作さんたちも、一緒にお見送りしてくださるというじゃないですか。忙しいでしょうに。わざわざ仕事の手を止めて。予想外のことにカエル自身が一番驚きました。むしろ情けに助けられたのはカエルのほうだったんですから。おかげでカエルはプロデューサーと二人きりにならずに済んだ。
そうでなければ、またプロデューサーに気さくを装って何かしら嘘を強要されていたかもしれません。『話合わせておいて』とか。ふふ」
カエルはガラケー片手に小さく笑った。
「そういえばプロデューサー、打ち合わせの後ベテラン〝役者〟さんとお喋りしてたときに不思議なこと聞かれたんです。カエルが当時一番お世話になっていた〝役者〟さんに。『あの時は全然気づいてあげられなくてゴメンね。そう言えば映画終わってすぐ会社辞めたんですか?』と。
体調崩して辞めたことは皆さんご存知のようでしたから、別に不思議なことでもなんでもなかった。むしろ気づかれないように隠していたんですから、あなたが気に病むことじゃないのにとカエルは思いました。
でも一つ引っ掛かったことがありまして」
下手を見やると、いつのまにやら背の高い椅子の隣には四角いサイドテーブルが置かれている。
チェス盤を思わすその白黒の天板を見つめながら、カエルは続けた。
「別に制作が突然消えるなんてよくある世界で、久々に再会した人にわざわざ聞くほど、新人が会社を辞めた正確な時期なんて気になることでしょうか?
根掘り葉掘り聞く人ならまだしも、あの優しい〝役者〟さんがハッキリと仰ったので少し驚きました。いまさら隠すことでもありませんから正直に答えましたが。『はい、映画が完成したのと同時に辞めました』と。それで思ったんですけど」
カエルはガラケー片手に改めてサイドテーブルに尋ねた。
「カエルが荷物を取りに久々に分室に顔を出した日、プロデューサーは確かに最後に約束してくださいましたよね。会社を辞めることを監督に直接伝えようにも取材等で忙しい時期でしたからお会いすることも叶わず、待ってられるほどの体力も残っていなかったカエルに代わって『監督には時機を見てちゃんと伝えておくから』と。
もう疑うほどの気力も体力もなかったカエルにとってはありがたい言葉でした。なんだかんだこの人もちゃんと上司だったんだなと。
それでその〝時機〟とは、一体いつだったんでしょう? そもそもカエルは〝いつ〟会社を辞めたことになってるんでしょう?」
カエルはガラケー片手にサイドテーブルを見据えると、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「そこでプロデューサーにご提案なのですが。やっぱりこのまま演じ続けてみたらどうでしょう? 新進気鋭で善人のプロデューサーを。別に永遠になんて言いません。もはやこれは願望ではなく提案。ちゃんと具体的な期限も提示させて――
え? しつこい? ふふ。そりゃそうです。歯車に鍛えられてますから。並みのしつこさじゃありません」
カエルはガラケー片手にサイドテーブルの天板を撫でた。そのまま白黒の升目を水かきでそっとなぞる。
「正直、チェスなんてやったことがないのでさすがに今回は苦心しました。具体的な期限は決めたい。けれどもどんなに待っても一向に他の映像は浮かんで来ない。なので少しだけ勉強しました。ときにプロデューサー、バックランク・メイトという言葉をご存知ですか?」
カエルの脳裏に、チェス盤の一番奥で身動きできないキングの映像が浮かんだ。
「チェス盤の縦の列をファイル、横の段をランクと呼ぶそうですね。たとえば手前から奥に向かって7段目にルークという駒があればそれはセブンスランク・ルーク。城のような形をした駒です。
そして、相手の陣の最奥をバックランクと呼ぶ」
カエルの脳裏に、最奥のキングの前に小さい丸い駒が立ちはだかるように並んでいる映像が浮かんだ。
「チェス盤の最奥で味方の駒に囲まれて身動きが取れないキングは、おそらく横に動くしかないでしょう。でもその最後の逃げ道を誰かに塞がれてしまったら? たとえば真っ直ぐにしか動けないルークか狂った女王あたりに」
カエルの脳裏に、城のような駒とティアラのような駒が浮かんだ。
「まあカエルは庶民派ですからどちらの駒でもありませんが。次の一手でキングが取れる状況をチェックと呼ぶそうですね。そしてそのチェックから逃れられない、打つ手なしの状況をチェックメイト。それがチェス盤の最奥なら、バックランク・メイト。なおかつそれができる駒はルークかクイーンであり、どちらも大駒と呼ばれている」
カエルの脳裏に、頭に冠をつけたスーツ姿のプロデューサーが横を向いて不意に立ち止まる姿が浮かんだ。
それからプロデューサーの行く手を遮るように置かれる巨大な駒の映像。その駒は城のようでもあり、ティアラのようでもあり。
「つまり、うっかり気を抜いてキングが不穏な動きを見せようものなら、ルークかクイーンがいきなり飛んできて逃げ道を塞がれるというあれ。チェスの詰みの一種です。バックランク・メイトとは」
すると突然、カエルの脳裏をスッと過ったのはある英語のフレーズ。
『……Thank you for having me. I'm very glad to be here today……』
「なるほど……。お招きくださりありがとうございますと。それから学生時代英語のプレゼンの授業で散々練習したあの言葉。本日ここに立てた事をうれしく思います……」
すると今度は、赤みを帯びた紫の絨毯がカエルの脳裏に鮮やかに浮かび上がった。
「紫? 赤じゃなくて? いい加減ヒントが難しすぎる」
すると再び赤みを帯びた紫の絨毯が、それから赤い絨毯が脳裏に浮かんだ。
「なるほど。どっちでもいいと。じゃあ推察するにおそらく具体的な期限は――」
カエルはどこか遠くを見ながらぶつぶつ呟くと、サイドテーブルに最後の交渉を持ちかけた。
「ではこういうのはどうでしょう。レッドカーペットの真ん中に立てるくらい監督とプロデューサーの顔が世界中に知れわたり、もううっかり善人の仮面を外せなくなるくらい有名になるまで――というのは?」
背の高い椅子に深く腰掛けて、カエルは未来に想いを馳せると嬉しそうに笑った。
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