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束の間

真っ黒

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「あれ。誰だろこんな時に着信なんて」

 とある高層ビルの地下駐車場。カエルは車に乗り込むや、肩掛けのポーチからガラケーを取り出して呟いた。白黒に点滅する光がことさら目につく。

「……え、プロデューサー? なんでまた」

 ガラケーをパチンと閉じてシートベルトをぐいっと引っぱると、カエルはまったく思考回路の読めないプロデューサーの不審な着信に思いを巡らせた。

『地下駐車場向かうからしばらく電話出られませんって言ったのに。時間的には……ああ、ちょうど先輩と話してる頃か。気づかないわけだよ。というか地上出るまで電波届かないしどうしよ。急ぎかなぁ……』

 初対面で監督を送迎するよう段取りをつけた本人が、わざわざ送迎当日に遅刻させるような真似はしないだろうとは思ったが、なにせこの頃のカエルにプロデューサーの思考回路を読んで先回ることなどできるはずもなかった。

「まあいっか。地上に出てから折り返せば」

 ただこの不審な着信があったおかげで、カエルは後々プロデューサーの言動が人をいいように陰から操ろうとする計画的なものだったと確信を持てたのだから、あの時の先輩の最大限のアドバイスは消して無駄ではなかったと言える。
 そうでなければ、獲物にすらあの一見気さくな仮面をめったに外さないプロデューサーをたった独りで疑い続けることなど、人の良心を信じて疑わないカエルにはきっと出来なかっただろう。
 無論、この時のカエルは入社したばかりのころ先輩方から散々言われた「あのプロデューサー女たらしだから気をつけて」の類いだろうくらいにしか思っていなかったけれども。――


 地上へと続く出口の手前。カエルは一時停止してシャッターが上がるのを待っていた。

「……チョコふふふ……ディスコ! ふふレイト……ディスコ!」

 L字に指を突き上げて独りカープール・カラオケをするカエル。
 地下駐車場の天井でランプが白黒に点滅したのを見届けると、サイドブレーキを下げて発進の準備にかかった。
 ランプはシャッターがまもなく開きますよという警備員さんからのサインで言い換えればそれは、カエルが独り車内で小躍りしているのを監視カメラごしにバッチリ観てましたよということに違いないのだが、まあ誰もカエルにそこまで興味を持って見ていないだろうという楽観主義が根底にあったのは間違いない。

「ああ、これこれ。なんかTAXiの主人公になった気分でワクワクしちゃう。まあ、私は安全運転第一で行きますよっと」

 誰がぶつけたか知れないボコボコの社用車で、開いたシャッターを颯爽とくぐり抜けると、安全運転を自称したいカエルは急勾配のスロープをのろのろと進んだ。
 高層ビルには外資系の会社なども多く、みなスーツや高そうな腕時計をしてビシッと決めているオシャ系な人や巻き髪とパンプスでカツカツ歩くいい匂いのするお姉さんも多かったが、その中を徹夜明けのヨレヨレ私服姿でコンビニ食片手に闊歩する制作部のメンタルはある意味最強ではなかろうか。
 ただあのプロデューサーだけはいついかなるときもスーツで出社していたので、そこには何かしら彼の美学があるに違いない。


「あれ、何であんなとこに人が。なんか今日はやたら足止めを食らうなぁ」

 スロープをのぼりきった所で誰かが道を遮って手を振っている。
 こんな忙しいときに一体誰だと見やれば、走って駆けつけたのか額に汗を滲ませたスーツ姿のプロデューサー。
 カエルは一時停止して運転席の窓を開けるや顔を出した。

「え、どうしたんですかプロデューサー。ここで会ったが10年目。叩っ斬って――」

 カエルが身を乗りだそうとしたその時。まるで黒曜石の石版をメガホンで叩いたような音が天からカンカンと鳴り響き、カエルは我に返った。

「あ、失礼、私としたことがつい取り乱してしまって。コピー相手にちょっと調子に乗りすぎました……それでは仕切り直して」

 カエルはあらためて息を整えると、プロデューサーのコピーめがけて台詞を投げかけた。



「え、どうしたんですかプロデューサー。スミマセン着信気がつかなくて」

「あ、いや。見送りにと思ってね」

「え、上司が部下の見送りなんて。お気遣いありがとうございます」

「いやいや。どう? 緊張してる?」

 プロデューサーは後続車がいないのをチラと確認すると全開の運転席の窓に肘をついた。

「ふふ、そうですね、少しだけ。憧れの監督とまさか一緒に仕事することになるとは思ってもみませんでした」

「あーなるほどね。まあ運転中いろいろ聞かれると思うけど、正直に答えてくれればいいから」

「はい、了解です。また分室の下に着いたら連絡いれますね。携帯か分室の方にでも」

「ああ、そうね、よろしくですー」

「あ、それでは時間もありますし。そろそろ送迎に向かいますね」

「あ、そうね。ではでは、よろしく~」

 この時プロデューサーが一向に窓に乗せた肘を離そうとせず、気もそぞろにチラチラと車の後方を見ながら喋っていたのは、ただ周りに注意を払っていたからというわけではなかった。
 単にカエルが断る隙を与えないために後続車が来るまで待って急かすためだったということを、カエルはだいぶ後になってから気づいたのだった。

「それじゃあ、送迎よろしく。まあ、気をつけて。いつも通りで大丈夫だから」

 後続車がスロープをあがって来るのを確認すると、プロデューサーはようやく車体から離れて気さくにカエルを見送った。

「はい。承知しました。それでは――」

「あ、あとゴメン。言い忘れてたけど。演出志望で入社してきたってことにしてあるからそこだけ話合わせといてくれる?」

「え、演出志望…………? いや私は〝役者〟志望で――」

「合わせてくれるだけでいいから。あ、ちょっと電話きちゃった。それじゃ。はい、はい、あ、お疲れ様です~」

「いえちょっと待ってください、プロデューサー!」

 気さくに手を振るプロデューサーに向けたカエルの叫びはむなしく後続車のクラクションにかき消された。
 けれどもプロデューサーは気づいていなかった。歯車明けのカエルはいつもより視野が広がっているということに。特に微かな光には、人一倍過敏になっているということに。

「あれ、なんであの人いま携帯に向かって話し掛けたんだろ。画面暗いままじゃん」

 いつもより冷静に世界を見渡すカエルの目の端で、カーブミラーに映り込んだのは気さくに手を振るプロデューサー。
 鏡越しに見えたそのプロデューサーの携帯画面はまぎれもなく、真っ黒であった。
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