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束の間

カフェテアトロンSUBROSA――Philopseudes

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「あーもう痛そうで見てらんないよ」

 深淵のほど近く。ショーウィンドウに釘付けになっているチアキの後ろ姿を、通りを隔てた斜向かいの喫茶店から見つめるひとりの少年がいた。
 窓ガラスごしにチアキの様子を一通り見届けると、少年は〝ほうじ茶〟を一口飲んだ。ティーカップを持つ左手の小指にキラッと光るのは金の指輪。

「はあ、この何かよくわかんないお茶美味しい」

『だからほうじ茶。まったく。小物作るのお願いしたけど勝手に血まみれのバラまで飾らないでよ。あんまりやりすぎてチアキが混乱したらどうするの』

 神様はぷんぷんしながら熱々の〝おしぼり〟を投げつけた。

「うわっ。天からなんか降ってきた。熱っ」

『だからおしぼり。もうチアキを追っかけるだけで精一杯なんだから。君はあくまで次の舞台に立つまでの臨時のバイト。あんまり勝手に動かないでくれる? いまその姿で会ったりしたらチアキが余計混乱しちゃう』

「そんなこと言われても。新しい名前貰ったらなんだかもうじっとしてらんなくて。それにあんなに苦しんでる姿黙って見てるだけなんて僕にはムリ」

『呑気にほうじ茶飲んでたくせに何言ってるんだか』

「ちょっと人を血も涙もないヤツみたいに言わないでくれます? そりゃあ見た目は呑気に見えるでしょう真剣に演じてるんだから。でも心の中じゃはらわた煮えくり返ることだってあるし。神様こそよく黙って見てられるなあと思って。人にいきなり熱いの投げつけるなんてとんだサイコ――」

『ただの優しい神様ですけど、なにか? 僕の場合は認知的共感と情動的共感を使い分けてるだけ。まったく。どこでそんな言葉覚えたんだか』

「え、何? ちょっといま読書中なんだけど。次の舞台に立つまえに出来るだけ準備しておこうと思って」

『あーこれだから真面目って。僕は理性と情を使い分けてるだけって言ったの。いつもいつも役者の内側まで入り込んで感情移入してたら肝心なとき助けてあげられないじゃない。そっちこそそんな共感スイッチ入れっぱなしじゃ人混み行く度に疲れきっちゃうよ? なんだかんだ嘘つくのも苦手そうだし』

「失礼な。僕だってわりと自然に嘘をつけてたと思いますけど?」

『何言ってんの。チアキにまた会える? て聞かれて一瞬躊躇ってたくせに。あ、僕知らないことになってるんだった。まあいっか』

「だってあれは不意打ちだったから。咄嗟のことで」

『その咄嗟の躊躇いを、一瞬でも感じずに堂々と嘘をつける人をそう呼ぶんだよ。きっと戦国時代なら君その一瞬で斬られて死んでるね』

「いや戦国時代って……あ、また次の舞台の言葉? まだこれから舞台に立つんだからあんまりネタバレしないでくれます? というかそれじゃあ平然と嘘をつけるあなたはやっぱりサイ――」

『いや違うから。あんな人も嘘も使い捨てにする人たちと一緒にしないでくれる?』

「かぶせるねー。ますます怪しい。でもさすがにそんな人いないでしょ。映画じゃないんだから。元毒蛇役の僕だって嘘の痛みくらいは知ってるよ」

『はあ、これだから呑気って……。彼らはもっとなんというか、根本的に違うんだよ。あのとき君は神様云々のまえに自分の中に嘘をつくことへの葛藤があったでしょう? 良心の呵責ってやつが。中にはその良心の呵責を一切感じずに嘘をつける人もいるの』

「はは、仮にも神様がそんなこと言っていいの?」

『いるものはいるんだからしょうがないじゃない。そりゃあこれが夢と希望に溢れた子ども向けファンタジーならわざわざ言わないけどね。どちらかと言えば絶望したことのある人なら誰でもどうぞ的な物語でうっかり話題出しちゃったんだからいまさら誤魔化す訳にはいかないよ』

「そんな設定だったなんて初めて聞いたな」

『初めて言ったからね』

「というかなんでうっかり話題出しちゃったの? 黙ってればよかったのに」

『君がサイコサイコうるさいからでしょう? 元々誰にも話すつもりもなかったのに。それにチアキにあんな痛い思いさせておいて自分だけ高みの見物ってのもなんかね』

「おや神様にもちゃんと人の痛みに共感できる心があったとは」

『失礼な。チアキが彼を見つけるためにはある程度彼の痛みを知っておかなきゃならないでしょう? 見つけようにも同じ痛みを知らなきゃカイロス度の高い世界じゃ周波数も合わせられない。だから共感はせずとも知識として知っておく必要がある。彼の心はいまこういう状態にあるって』

「なんだちゃんと神様だった」

『Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein』

「え、壊れちゃった? 大丈夫? あ、もとから狂ってたんだっけ」

『いや普通にドイツ語だから。ある哲学者の言葉。酷い頭痛に苦しんでた。――怪物と戦う時は自らも怪物になることのないように心せよ。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだから』

「あー何かどこかで聞いたことある」

『うっかり覗き込めば気づいた時にはあっという間に深淵に呑まれてる。だから頭を悩ませてるんじゃない。描き方を間違えば自分ばかりかチアキたちや〝天国〟の人たちにだって心理的な負荷がかかる。それだけは避けたい。かといって深淵を覗かないことにはチアキは彼を見つけられない』

「客観的に表現すればいいんでしょう? 近づき過ぎて呑まれないように。じゃあステガノグラフィーを使えば?」

『だから一体どこでそんな言葉を――』

「だって痛みも孤独も苦しみもちゃんとそこにあるのに。無かったことになんてしたくない。目に見えないというそれだけのことが自分と他者とをどれだけ隔てているか。その哀しみを僕たちは誰よりも知っているでしょう?」

 喫茶店の片隅で、少年は小さな本をパタンと閉じた。表紙には小人が書いたような『侏儒の言葉』の文字。

「――私は不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを」

 少年は俳優気取りで小説の言葉を呟いた。

「どうせつくなら愛のある嘘をつきたいもんだね。使い捨てなんかじゃなくてさ」

 少年が左手を天にかざして愛おしそうに微笑むと、小指の指輪がどこか楽しげに煌めいた。

「真実に嘘を織りまぜた物語。あるいはその逆か。所詮はただのつくり話。でも観客にとってはどちらが真実の話に聞こえるだろう。別に何か言われたって問題ないでしょう? これはただの、ファンタジーなんだから」
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