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束の間

“Frailty, thy name is woman” ← (゚Д゚)ハァ?

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「前に何かで読んだんです。自己犠牲なんて流行らないって」

 血まみれのスカーフを顔から外しながら、哀れな毒蛇は最後の独白を始めた。
 飛んできた黒い蝶を指にとまらせて少年はそっと囁く。

「でも僕にしてみればその台詞を言ってる本人が一番自己犠牲的でさ。奇跡を手にするのはもっとなんていうか……自分はそのままで愛されるに足る存在だと知っている人間。自己犠牲なんて言葉かすめもしないような」

 少年はおもむろにつくりもののバラを拾い上げると、もてあそぶようにくるくると回した。

「僕だってそう。本物か偽物か、いつもそんな役回り。このバラもすっかり渡すの忘れてたな。まあ、もう必要ないだろうけど。それにしても、見事な血糊」

 少年は何やらすべてどうでもよくなったと見え、掴んでいたものを無造作に放り投げると頭の下で手を組んだ。

「そんなことばかり考えてるからそういう役が回ってくるんだと言われればそれまでだけど。なんて残酷な世界だろ」

 血まみれのスカーフをかいくぐり、黒い蝶はとまり木を失った鳥のように均衡を崩しながら舞い続けた。
 
「はあ。もう独白することなんてないよいまさら。なんで僕はいつもこうなんだろ。いつも間違えてばっかりでさ。いつも気づくのが遅すぎで。こんなんじゃ人間役なんてとても務まらなかっただろうけど。でもまあ、最後に一目くらいあのひとに会いたかったかな」

 少年は名残惜しそうに五彩のバラ窓を見つめると、血まみれのスカーフをたぐりよせてふたたび顔の上に乗せた。

 黒い蝶がひらひらと、少年の上をくるくると舞った。

「あなたがもうひとりのハムレット王子? ふふ、会いたかった」

「ああ、ようやく会いに来てくれた。ずっと待ってたのに君ときたら全然」

「大好きよ王子。Remember me」

「もちろん僕だって。君のこと、忘れないよ……Remember th――」

 少年の首元に大鎌が振り下ろされようとしたまさにその時、閃光とともに鋭い短剣が五彩のバラ窓を貫いた。

「ちょっと待ちなさいよそこのなりすまし!」

 ドスの利いた女性の声が礼拝堂に木霊こだまして、パリンと砕け散った五彩の欠片が白黒の床一面に散らばった。

「…………。ん?」

 雷鳴の如く落下する短剣。真っ直ぐに大鎌を打ち砕き、少年の首元をわずかにそれて白黒の床を穿った。
 衝撃に血まみれのスカーフが少年の顔の上でふわりとそよぐ。

「あの……今なんか変な声が……」

 少年が不思議に思うのも無理はない。彼の筋書きには毒蛇はここで事切れるとしか書いていなかったのだから。

「というか……まだ?」

 不審に思って血まみれのスカーフを外そうとする少年に、神様は親身になって話し掛けた。

『そのスカーフは外さない方がいいよ』

「え? というかどうなってんのこれ、外れないんだけど。これじゃひと思いどころか」

 少年はやみくもに血まみれのスカーフを引っ張ったが一向に外れる気配がない。当然だ。さっきから神様が見えない力で押さえつけているのだから。

「は? なんでまた横暴な」

『なんでって。百年の恋も覚めるから。決まってるでしょ』

「いや、全然意味わかんないんだけど」

『悪いこと言わないから、そのまま顔隠しときな。終わったら教えるから』

「ちょっと――」

 有無を言わさず神様は少年のスカーフをそのままにした。これもひとえに少年の淡い夢を打ち砕かぬようにという神様の粋な計らいで――

「なりすましはどっちよ、いつも人の獲物を横取りして!」
「あら、いつもいつも人のものを横取りしてるのはそっちでしょう。その姿だって元はと言えば私がオフィーリアだった頃の格好じゃない。彼は私の大事な獲物。横取りしてるのはそっち」

「獲物……」
 
 少年は得体の知れぬ恐怖に身の危険を感じた。女の喧嘩は毒蛇も食わない。

「だいたい死の舞踏なんて今さら流行らないったら。何その大鎌、時代遅れ!」
「流行り病の時に現れるのが私の役目。こんなときばっかり都合よくしゃしゃり出てきてるのはそっちでしょ!」
「あら、死神が登場するなら女神がいたっていいじゃない。シェイクスピアの時代ならまだしも最近の流行り病は黒死病と違って目に見えないんですからね。せめて短剣ぐらいスマートにして欲しいもんだわ」
「あんたが女神? 人に短剣投げつけておいてよくそんなこと言えるわね。この刃物女!」
「あら、あの短剣カッコいいでしょ? でもあげない」
「これだから自信過剰って。たまには譲ることを覚えたら? 女神様なんでしょ。みんなのために生きてみたらどうなのよ」
「あら、みんなってのは一人残らず全員ってことでしょう? 肝心の自分を勘定に入れないでどうするのよ。ちゃんちゃらおかしいったら」

 その時、一陣の風が吹いた。

 スカーフが風に飛ばされて視界がひらけると、少年は愕然とした。
 
「そんな……」

 あの五彩のバラ窓は粉々に砕け散り、もはや跡形もなくなっていた。
 天井にぽっかり空いたもはやただの丸い穴を、青と黒の蝶が螺旋を描きながら夜空めがけて軽々と飛び越えた。
 どこまでもどこまでも、踊るように舞い上がる蝶たちを見上げる彼は、もはや盲目ねずみでも毒蛇でもなかった。

『まったく、毒蛇が毒を失ったらただの蛇だっての』

 神様はもはや毒蛇ですらなくなった少年を鼻先でふんと笑った。

「え……?」

『それ、あの刃物女ひとから贈り物だって』

「え、贈り物って……この短剣? なんでこんなとこにこれが」 

『ちがうちがう。切っ先になんか引っかかってるでしょ』

「切っ先? というかあの人って……」

 少年は短剣の先に引っかかっていた金の指輪を手に取ると、内側の刻印をしげしげと見つめた。

「刻印……」
 
 その指輪に刻まれていたのはすべて大文字のラテン語。ほどよくスペースを空けて3つほど並んでいた。

   ERRARE HUMANUM EST 

 神様はあの暴力女ひとからくれぐれも伝えるように言付かっていた。『文字はすべて大文字で。スペースを空けたのはあえてよ。だってその方が読みやすいでしょ』と。

 少年は金の指輪を天にかざしてしげしげと見つめた。

「あの女神ひとって……はは、とんだ負けず嫌い。ジュリアンなんていないって言うからてっきり……」

 少年は白黒の床に大の字に寝そべると左手の小指に指輪をはめた。

「間違えるのは人間らしいって。貴女あなたこそそんなに情に脆くてやっていけるんですか。神様なんて」

 少年は小指を夜空にかざして口付けた。

「なんだ僕はとっくに。人間だった」

 指輪に煌めいたのは五彩の欠片か夜空の星か。目元を頑なに隠し続ける少年の心の内は神様にもわからない。

「最後までカッコつかないなぁ……」

 カッコつけさせてたまるか。神様はクスクスと笑った。
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