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束の間

空をゆく月のひかりを雲間より

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「てっきり僕はあのまま闇夜に消えるのかと」
「いやいや、あの白黒の床大理石だよ? 床は冷たく感じるのに刺されたとこだけ痛くないなんておかしいじゃん。痛覚どうなってんのさ」
「確かに刺されたんだ」
「幻だったんじゃないの? どこにも傷なんて見当たらなかったけど」
「でも……う、目が回る」
「急に起き上がったりするからだよ」

 片手に本を抱いたまま、少年はベッド脇の椅子に腰かけると可笑しそうにフッと笑った。
 あれからすぐ気を失ったらしく、鏡の間で倒れていた僕をベッドのある小部屋まで運んでくれたらしかった。

「そういえばここって……?」
「鏡の間のほど近く。ステンドグラスの教会の一部ってところかな。あの天井近くのステンドグラス、うす紫色の薔薇の模様があるでしょ? あれ教会のシンボルだから」
 
 天井近くの窓にはどことなく教会をおもわせる五彩のステンドグラスがはめ込まれていた。うす紫色に煌めくバラはいつか見た青い月を思わせた。

「でもまぁ、無事でなによりだよ」

 少年は古い本を差し出して言った。

「そうだ、これ開けてみて。広間の外で拾ったんだ……ふっ」

 少年はよほど可笑しいのか顔を背けてまだ笑いを堪えている。

「いや笑いすぎだから。開かなくたって知ってるよ。『Hamlet』って書いてあったもの。君がずっと持ってた本でしょ」
「ちがうちがう、もっと後ろのページ」
「うしろ……?」
 
 促されるままひっくり返して裏表紙を開くと、赤く染まった短剣が転がり落ちた。

「危なっ」
「ははは」

 てっきり僕が本だとばかり思っていたものは、本に見せかけた秘密の小物入れだった。

「ちょっと、なんでこんなもの……」

 ベッドに落ちた血まみれの短剣を拾い上げながら、僕は思わず叫ばずにはいられなかった。

「やっぱり僕は刺されてたんだ!」
「刺されてそんなに嬉しそうな人初めて見るな」
「じゃあやっぱりあれは本当……あーもう、手が血まみれでベタベタ」

 と、そこまで口にして何かがおかしいことに気がついた。

「ん……? 血?」
「血に見えるね」
「さっき刺された傷なんてどこにもなかったって」
「うん、なかったよ」
「ふつう刺されたら血が出る……」
「ふつうはね」
「こんなに……血が出るものかな?」
「さあ、刺されたことないからわかんない」
「血ってこんなベタベタしてたっけ……」
「うーん、どうだろう」

 少年は「ちょっと見せて」と短剣を手に取った。

「あちゃー配分間違えたかな。ベタベタだ」
「ねえ」
「なに」
「血ってもっとこう」
「もっとこう?」
「時間が経つと黒ずむんじゃなかったっけ」
「そうらしいね」
「らしいねって。これ、真っ赤だけど」
「だってそれ、血糊だもん」
「血糊……?」
「そう、血糊。元々は本物の血を指して使っていた言葉。次第に演劇などでつくりものの血が使われるようになり、いまでは主に血糊と言えば偽物の方を指す」

 少年はニッコリ笑うと自分で自分を指差しながら「小道具担当」と呟いた。
 
「騙したね……」
「騙すなんて。こっちだって必死だったんだから。あの鏡の間うっかり足を踏み入れたら丸見えでしょ? 360度鏡なんだから。こっちは王子が俯くの見計らって抜き足差し足忍び足だよ。もう奈落やら小迫りやらねずみのように走り回って――」
「許せない……」
「え?」
「もう許せない。ここに来てから僕はもうずっと騙されてばっかり!」
「そう? じゃあ刺していいよ。はい」

 少年は血まみれの短剣を僕の手のひらに押しつけた。

「いや、そこまでは」
「遠慮すんなって。ほら」
「うわっ」

 少年は躊躇いもなく僕の手ごと短剣を引っ掴むと、自分の脇腹めがけて勢いよく突き刺した。
 
「……え……これ……」

 衝撃に誤魔化されて分かりにくかったけれど、よく見れば短剣の刃はカシャンと音を立てて柄の中に引っ込んだ。

「つくりもの……?」
「だからさっきその説明を。この短剣、本物と偽物をすり替えるの大変だったんだよって」
「偽物……」
「でもまぁあの様子じゃ、刺した本人も短剣が入れ替わったことすら気づいてないんじゃないかなあ」

 哀しげな琥珀の瞳が脳裏を過った。

「じゃあ本物はいまどこに……」
「ああ、それが。鏡の間の奈落を走り回ってたときに落としたみたいで。すぐ探したけど全然見つからず。何やってんだか」
「それはなんというか……焦るね」
「でしょ? 焦って走り回って頭思い切りぶつけた」
「それは……お気の毒さまです」
「Time and tide wait for no man」
「え?」
「歳月人を待たず。黒板に書くならTime waits for no one」
「ハァ。微妙に違うような」
「そう、微妙に違うんだ。この劇場にはなんかしっくりこない。焦ったところで流れる時間は変わらないのに……。あ、そうだ」

 少年はおもむろに内ポケットから血まみれになったうす紫色のバラを差し出した。

「これ返す。さすがにここまで血まみれだと直せなくて。申し訳ない」

 仮面をつけた琥珀の瞳が脳裏を過って、僕はなんだか哀しくなった。

「あれ……」
「どうしたの」
「君の瞳の色ってなんというかその」
「ああ、これ?」

 少年は血まみれの手で自分の瞳を指差しながらカラカラと笑った。

「光の加減で結構変わって見えるらしくて。ヘーゼルアイっていうの? 灰色っぽいときもあれば青っぽいときもあるし。さすがに緑って言われたときは困ったけど。一番多いのはアンバーとか鳶色とかかな」

 ステンドグラスを反射する彼の瞳は虹色に煌めいて、どことなく神秘的に見えた。

「さて、そろそろ準備しなきゃ」
「準備って、何の?」
「復讐劇」
「……え、復讐?」
「やられっぱなしじゃ悔しいじゃん。今宵の劇はちょうどハムレットだし」
「そんな危ないの僕見てらんないよ」
「何言ってんの。君もやるんだよ」
「え?」
「外題はハムレットの劇中劇にならって『ねずみとり』 裏テーマはそうだな。シェイクスピアの時代ならエリザベス1世の異母姉に掛けて血まみれメアリーでもいいけどここはやっぱり……」

 少年は不敵な笑みを浮かべると、血糊のついた手を天にかざしてグーパーした。

「ブラッディ・ローズ。かな」

 逆光気味の手のひらはまるで影絵のように、五彩に煌めくステンドグラスの中で踊っているように見えた。
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