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第三章

影のわずらい

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 あの晩、マヌーはふたたび現れた。いつか
僕らが出会ったときみたいに。気まぐれなんてもんじゃない。いつだって彼は 〝突然〟 なんだ。

「右足に軽いすり傷があるくらいで他は問題ありません。念のため軟膏を出しておきますが、一晩ぐっすり寝れば明日にはすっかりよくなるでしょう。なに、少し疲れが出たんでしょう。どこか長旅にでも出ていたんですか、彼は」

 慣れた手つきでマヌーの診察を終えると、お医者さんは息をこらして見守っていた僕たちに向きなおって言った。

「この時期に冷たい雨ですから、風邪でも引かんよう、お大事になさってくださいよ」
「本当に、なんとお礼を言ったらいいのかわかりませんわ」
「なに、礼には及びません」

 まだ濡れたままのレインコートを羽織りながら軽く会釈すると、お医者さんは颯爽と部屋を出た。きっと急いで駆けつけてくれたのだろう。カフェへと続く階段を降りる足元は、靴下がちぐはぐになっていた。

 ふと、右側の視界の隅に白い歯車のようなものが目に留まった。ああ、またか……。
 生きてる限り逃れられないだろうこの苦しみに、僕はあとどれだけ耐えられるだろう。次に目が覚めた時にも僕は僕のままでいられるだろうか。
 でも今はもう少しだけ待ってほしい何てことを祈りながら、ほどなく訪れるであろう苦しみを予感して、僕はそっと目を閉じた。


 ◇


 雨はいまや勢いを増して、音を立てて降り続けた。さっきまであんなに月が綺麗に見えていたのに、カフェの二階から中庭の緑はもう見えなかった。子ども部屋の窓ガラスに打ちつける雨粒は心なしか冷たさを増したようだった。

「マヌー……」

 試しに彼の名前を呟いてみたものの、相変わらず瞼は閉じられたままだった。
 あのお医者さんがそう言うのだから、確かにマヌーの怪我は命に関わるほどではないのだろう。あのお医者さんが言うのだから、きっと明日にはマヌーは良くなって普通に目を覚ますのだろう。そう頭ではわかっているはずなのに……。
 僕にはマヌーがなんだか酷い怪我を負っているように見えた。

 何とはなしに外に目をやると、窓ガラスに反射した古い壁掛け時計がくっきりと見えた。この部屋に時計なんかあったかなと思いながら眺めていると、どうやら振り子は止まったまま沈黙を保っているようだった。
 その時、懐かしい声が響いた。


「……ここは……?」


 まるで知らない人に伺うような調子で尋ねるその声は、なんだか妙に僕の不安を煽った。
 しばらく天井を見つめていた琥珀の瞳はまるで朧気な記憶を辿るかのように視線をしばらく泳がせた後、ふとベッドの傍らに座る僕の顔に目を留めた。
 しっかりと瞼が開けられたあの懐かしい琥珀の瞳には、まるで覚めたばかりの悲しい夢の名残が漂っていた。

「マヌー……」

 きみは、どこから来たの? 喉元まで出かかったその言葉をぐっと抑えると、僕はただ不安そうなマヌーの瞳を見つめて明るさを保ちながら微笑みかけた。

「ここはペーパー・ムーン・カフェの二階にある子ども部屋だよ。僕の行きつけの喫茶店の。覚えてる? 扉の外にいるのはマスターと奥さん。きみが中庭に倒れているのを見て駆けつけてくれて、この部屋に運んでいろいろ介抱してくれたんだ。だからもう、大丈夫だよ――マヌー」

 なんとなくそうした方が良い気がして、僕は彼の名前に力を込めて言った。


「マヌー……そう……僕の名前……。僕は……きみに会いたくて……それで――」


 マヌーの目はどこか虚ろだった。琥珀の瞳は確かに僕の姿を捉えてはいたけれど、その瞳の奥には僕の姿もいま彼の目の前に広がっている世界すらも映っていないようで、まるでこの世界からも時間からも抜け出ているようだった。

 すると、急に目を輝かせたマヌーがはっきりとした調子で、でもどこかせわしない様子で、一気にまくし立てるように喋りだした。

「そうだ僕――僕はきみに会うために来たんだ。あのステンドグラスの綺麗な教会からここまで飛行機に乗って。もう少しで乗り遅れるところだったんだよ、でもなんとか間に合って良かった。途中でくすんだ赤黒い小川が流れるようなところを通ったときはどうしようかと思った。あの川とは違うんだ。もっと薄暗くて淀んでいて。あのときは凄く息苦しくてもうこのままきみに会えないんじゃないかと思った。小高い丘の上から白いひげのおじいさんと若い男の人が見守っていたっけ。でもそんなときに花車が横切ってみんなが一斉に見送っていたんだ。そしたら淀んでいた赤い小川が流れ出して急に息が楽になってそれで――」

 喋りながら泳がせていた目をふと僕に留めると、何やらマヌーの目の色が変わった。するといま初めて僕の存在に気がついたかのように僕の名前を呼んだ。


「チアキ……本物のチアキだ! 僕はずっときみに会いたかったんだよ」


 まるで設定を思い出せずにいる舞台を降りた役者のような彼の姿を、もしかして人は狂気と呼ぶのかもしれないけれど、孤独の淵で必死に生きようともがくその姿を狂人として切り捨てることなど僕には到底できなかった。
 今ぼくの目の前にいるのは狂人でも物語に都合良く作られたキャラクターでもない、必死に生きようともがく一人の人間だった。

「もう、マヌーどこ行ってたの? 心配してたんだから」

 落ち着かない琥珀の瞳を少しでも安心させたくて、僕はおどけたように言った。
 そのまま『きみに会えて嬉しいよ』と言おうとして、喉の奥に熱い何かがつかえて僕は思わずその言葉を飲み込んでしまった。どうしようもない哀しみが、心の底で音を立てた。
 ふたたび言葉にしようとして、今度はその言葉を口にしてしまったら急にマヌーがいなくなってしまうような気がして、結局、僕は最後までその言葉を言えなかった。

 どことなく儚さの残る彼の姿を見つめては、この慈しむような気持ちをなんと呼べばいいんだろうなんてことを思いながら、僕はそっと彼の手を握った。

「おかえり、マヌー」
    
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