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第三章
人の音せぬ暁に
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「チアキくん」
バシッっと肩を叩かれて我に返ると、マスターが僕を覗き込んでいた。
「大丈夫? なんだか顔が真っ青だよ」
「え、そうですか?」
「今夜はもう遅いし、このまま休んでいったら。そのまま椅子で寝るわけにもいかないでしょう」
「いや、でも――」
と言いかけてベッドの方を見やると、マヌーはこちらの心配をよそに寝息を立てて気持ちよさそうに眠っていた。
一方、僕の右側の視界はいまや白い歯車でいっぱいに埋め尽くされていた。
正直に言えば、この白いギザギザに気を取られて意識を保つのもやっとだったけれど、『いえ、白い歯車が邪魔して実は今マスターの顔すらよく見えてないんです』なんて口走ったところで何の解決にもならない。
「……。じゃあ、お言葉に甘えて」
いつしか冷たい夜の雨音は消えていた。
「チアキくんいざというときは頑固だよね」
階段下の応接間で暖炉の薪をくべながらマスターが少し恨みがましく言った。
簡易ベッドのある暖かいカフェ派のマスターと、少しぐらい寝心地わるくていいからマヌーの近くで寝られる応接間のソファー派の僕の、ちょっとした諍いであった。
「あぁ、はい、よく言われます」
なんて憎まれ口をたたきながらブランケットを受けとると、応接間を出るマスターに僕はもう一度会釈しながらお礼を言った。なんだかんだマスターは優しい。
それにしても悩まされるのは件の白い歯車。ここまで視界いっぱいに広がるとどうにも逃げようがない。
今度の嵐は大きそうだと内心呟いて、いつもの様にポケットから糸を取り出すと、左手の小指に軽く巻きつけた。
「今日は左手の小指に赤い糸、と」
暖炉前のソファーに横になりながら、回り出した白い歯車を瞼の裏で追いかけて、そろそろ思考の波が途切れるのを悟る。
薄れゆく意識の中で、暖炉の薪がぱちぱちとはぜた。
◇
「……ここは……」
どこだろう? と言いかけて慌てて左手をかざす。
どの指に何色の糸を巻きつけたのかまでは思い出せないけれど、とりあえず左手に何もないのだから夢の中であることは間違いない。
いつものようにあってるかどうかもわからない確認作業を一通り終えると、目の前の景色に目を奪われた。
幾重にも連なる山なみの向こうには、淡いヴェールの向こうに大きな雪山が隠れているだろうことを、わずかに見える裾野の稜線が物語っていた。
「いい天気じゃの」
夢だとわかっていてもいきなり話しかけられると人間驚くものなんだなとしょうもないことを考えながら、僕は突然現れた白いひげのおじいさんに軽く会釈をした。
「ここからの景色は最高じゃの。いつもは雲もなくてすっきりと見えるんじゃが……。あの山のてまえの雲なぞ虎が口を開けてるように見えんかの」
おじいさんはイタズラを企む少年のようにお茶目に笑いながら雲の塊を指差すと、おもむろに空を見上げた。
「それにしても、あの雨上がりの澄んだ青空や流れるような雲のなんと美しい……」
そう呟いた白いひげのおじいさんの横顔は、どこか懐かしさのなかに哀しみを湛えていた。
「天朗らかに気清く、風はそよそよと吹いている。そのただ中で我は宇宙の大なるを観、万物の盛んなるを眺めては――。あぁ……古人云へり、死生亦大なりと。豈に痛ましからずや」
小高い丘の上には名前も知らないほんのり甘い花の香りが漂い、夢うつつに理知の働かぬ僕の心にも郷愁をかきたてた。
ふいにそよ風が吹いて見上げた空に光るのは、夕日に煌めく飛行機雲だった。
バシッっと肩を叩かれて我に返ると、マスターが僕を覗き込んでいた。
「大丈夫? なんだか顔が真っ青だよ」
「え、そうですか?」
「今夜はもう遅いし、このまま休んでいったら。そのまま椅子で寝るわけにもいかないでしょう」
「いや、でも――」
と言いかけてベッドの方を見やると、マヌーはこちらの心配をよそに寝息を立てて気持ちよさそうに眠っていた。
一方、僕の右側の視界はいまや白い歯車でいっぱいに埋め尽くされていた。
正直に言えば、この白いギザギザに気を取られて意識を保つのもやっとだったけれど、『いえ、白い歯車が邪魔して実は今マスターの顔すらよく見えてないんです』なんて口走ったところで何の解決にもならない。
「……。じゃあ、お言葉に甘えて」
いつしか冷たい夜の雨音は消えていた。
「チアキくんいざというときは頑固だよね」
階段下の応接間で暖炉の薪をくべながらマスターが少し恨みがましく言った。
簡易ベッドのある暖かいカフェ派のマスターと、少しぐらい寝心地わるくていいからマヌーの近くで寝られる応接間のソファー派の僕の、ちょっとした諍いであった。
「あぁ、はい、よく言われます」
なんて憎まれ口をたたきながらブランケットを受けとると、応接間を出るマスターに僕はもう一度会釈しながらお礼を言った。なんだかんだマスターは優しい。
それにしても悩まされるのは件の白い歯車。ここまで視界いっぱいに広がるとどうにも逃げようがない。
今度の嵐は大きそうだと内心呟いて、いつもの様にポケットから糸を取り出すと、左手の小指に軽く巻きつけた。
「今日は左手の小指に赤い糸、と」
暖炉前のソファーに横になりながら、回り出した白い歯車を瞼の裏で追いかけて、そろそろ思考の波が途切れるのを悟る。
薄れゆく意識の中で、暖炉の薪がぱちぱちとはぜた。
◇
「……ここは……」
どこだろう? と言いかけて慌てて左手をかざす。
どの指に何色の糸を巻きつけたのかまでは思い出せないけれど、とりあえず左手に何もないのだから夢の中であることは間違いない。
いつものようにあってるかどうかもわからない確認作業を一通り終えると、目の前の景色に目を奪われた。
幾重にも連なる山なみの向こうには、淡いヴェールの向こうに大きな雪山が隠れているだろうことを、わずかに見える裾野の稜線が物語っていた。
「いい天気じゃの」
夢だとわかっていてもいきなり話しかけられると人間驚くものなんだなとしょうもないことを考えながら、僕は突然現れた白いひげのおじいさんに軽く会釈をした。
「ここからの景色は最高じゃの。いつもは雲もなくてすっきりと見えるんじゃが……。あの山のてまえの雲なぞ虎が口を開けてるように見えんかの」
おじいさんはイタズラを企む少年のようにお茶目に笑いながら雲の塊を指差すと、おもむろに空を見上げた。
「それにしても、あの雨上がりの澄んだ青空や流れるような雲のなんと美しい……」
そう呟いた白いひげのおじいさんの横顔は、どこか懐かしさのなかに哀しみを湛えていた。
「天朗らかに気清く、風はそよそよと吹いている。そのただ中で我は宇宙の大なるを観、万物の盛んなるを眺めては――。あぁ……古人云へり、死生亦大なりと。豈に痛ましからずや」
小高い丘の上には名前も知らないほんのり甘い花の香りが漂い、夢うつつに理知の働かぬ僕の心にも郷愁をかきたてた。
ふいにそよ風が吹いて見上げた空に光るのは、夕日に煌めく飛行機雲だった。
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