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第二章
舞台裏
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閉店後のペーパー・ムーン・カフェはまるでどこかの舞台裏のようだった。
マスターと奥さんはせわしなく動き回り、照明の落ちたカフェには聞きなれない単語が飛び交っていた。エスプレッソマシン、ミルクジャグ、極細挽きのコーヒー豆を入れる何とかいうホルダー、サイフォン、ゴールドフィルター。
店じまいを手伝おうにも軽々しく触れてはいけない世界のような気がして、僕はやっとのことで勇気を振り絞り、せめて夕食の準備くらいはお手伝いしようと申し出てみた。
「今日はチアキくんは大事なお客さんなんだから。まぁ準備ができるまでゆっくりしててよ」
僕の申し出はあっけなく断られてしまった。何もすることがない。中庭を見ようにもまだ月が出ていないから薄暗くて見えないし、どうしたものか――。しょうがないから、月が出るまでのあいだポーンと遊ぶことにしよう。
マスターと奥さんは相変わらず忙しそうに動き回っていた。そろそろあの豆を補充しないと何とか、ちょっと最近このマシンの気圧が何とか、やっと最近あのラテアートができそうで何とか。コーヒードームはまわりばっかり湯をかけないでまんべんなく何とか。
昼間見ることのない現実的で細々したやりとりに、僕は二人が毎日丁寧に積み上げてきたであろう仕事に対する誇りと歴史を、垣間見たような気がした。
僕はさっそくポーンを探した。ところが、カフェのカウンター席にも暖炉のそばにもどこにもポーンらしき姿はなかった。確かにさっきまでその辺で寝てたはずなんだけど。もしかしたら暖炉のそばの暗がりに隠れているかもしれない……。
僕がソファー席の下を覗いたり、マガジンラックの中を探したり、しまいにはまだ火の弱い暖炉の中を覗いたりしていると、不意にマスターの声が聞こえた。
「満月が近くなると全然帰って来ないんだよ。きっと明るくてポーンもいろいろ散歩したくなっちゃうんじゃないかな。まったく、困ったもんだよ」
ほんとにねぇ、そう言って笑いあうマスターと奥さんの声が響いた。
僕が暖炉から顔を出すと、手際よく店じまいをしていたマスターと奥さんは僕の顔を見るなり一瞬手を止めた。
一瞬の沈黙に被さるように、今度は笑い声が弾けた。僕がキョトンとしていると、マスターが言った。
「二階にお客さん用の洗面所があるから使っていいよ。短い廊下を真っ直ぐ行って突き当たりを左ね。階段があるからすぐわかるよ。あと準備にもう少し時間がかかりそうだから、家の中をいろいろ見てていいよ」
何で急に洗面所? と思いながらポーンも見あたらず特にすることもないので、僕は言われるままカフェの奥へとつづく短い廊下へ向かった。――
階段はすぐに見つかった。二階の突き当たりには例の学生さんに間貸ししている子ども部屋と思われる部屋があった。主のいない部屋は扉が開いていた。一瞬ふわっと、ラベンダーの香りがした気がした。
洗面所は子ども部屋の手前にあった。これまたすぐに見つかった。見つかったはいいものの……。そもそも洗面所に向かう理由がわからない僕は、たいした感動もないまま、貝殻のような模様のドアノブをゆっくりとまわした。
バスルームの床には白と水色のタイルが敷き詰めてあった。点けたばかりの照明のオレンジの光が、艶めくタイルに反射していた。ところどころ埋め込まれた緑色のタイルが、バスルームの上半分を飾る深緑色の壁とよく合っていた。
入り口正面の洗面台には大きな楕円形の鏡がしつらえてあった。金色の縁取りには植物の葉のような細い曲線の飾りがあしらってあり、年月を経て鈍く光っていた。どうやらこのバスルームの空気を華やかに彩り、どこか歴史を感じさせている一番の主は、この鏡のようだった。
なぜここに来たのか自分でもよく分からないまま、僕はオレンジの照明に誘われるように目の前の洗面台に歩み寄った。まるで初めてどこかの舞台に立つ役者のように。
鏡の中を覗いてみて、ようやく僕がいまここにいる理由がわかった。僕の鼻の頭と左の頬には、黒い煤が付いていた。なんともしょうもない理由だった。自分でも冗談かと思った。まさかあの子ども向けラジオ番組じゃあるまいし。僕はいまさらながらちょっと照れくさい思いをしつつ、からかったりせずに洗面所を教えてくれたマスターの優しさに感謝した。
水でバシャバシャと洗った顔を鏡越しにタオルで拭きつつ、僕はふとルークと出会ったときのことを思い出していた。
『キミがあんまり僕の知り合いに似ていたものだから』
そうルークは言っていたっけ。あれって一体誰のことだったんだろう? いまさらながらふと疑問に思っていた。
一体なんの取り柄もない僕のどこがその人に似てるんだろう。もしかしたら、マヌーのことを言ってるんだろうか? それを言えばマヌーとルークほどに似ている人もそうそういないと思うんだけど……。せいぜい僕とマヌーの似ているとこと言えば――。
また急にラベンダーの香りがふわっと漂ってきた気がして、僕は現実に引き戻された。鏡のむこうから、琥珀色の瞳が僕を見つめ返していた。――
二階を去り際、照明の落ちたバスルームと子ども部屋をさっと見た。やはりとくに動くものは何もなかった。どこか懐かしさを感じさせる咲き始めのラベンダーの香りが、階段を踏みしめた僕の背中を優しく包んだ。
マスターと奥さんはせわしなく動き回り、照明の落ちたカフェには聞きなれない単語が飛び交っていた。エスプレッソマシン、ミルクジャグ、極細挽きのコーヒー豆を入れる何とかいうホルダー、サイフォン、ゴールドフィルター。
店じまいを手伝おうにも軽々しく触れてはいけない世界のような気がして、僕はやっとのことで勇気を振り絞り、せめて夕食の準備くらいはお手伝いしようと申し出てみた。
「今日はチアキくんは大事なお客さんなんだから。まぁ準備ができるまでゆっくりしててよ」
僕の申し出はあっけなく断られてしまった。何もすることがない。中庭を見ようにもまだ月が出ていないから薄暗くて見えないし、どうしたものか――。しょうがないから、月が出るまでのあいだポーンと遊ぶことにしよう。
マスターと奥さんは相変わらず忙しそうに動き回っていた。そろそろあの豆を補充しないと何とか、ちょっと最近このマシンの気圧が何とか、やっと最近あのラテアートができそうで何とか。コーヒードームはまわりばっかり湯をかけないでまんべんなく何とか。
昼間見ることのない現実的で細々したやりとりに、僕は二人が毎日丁寧に積み上げてきたであろう仕事に対する誇りと歴史を、垣間見たような気がした。
僕はさっそくポーンを探した。ところが、カフェのカウンター席にも暖炉のそばにもどこにもポーンらしき姿はなかった。確かにさっきまでその辺で寝てたはずなんだけど。もしかしたら暖炉のそばの暗がりに隠れているかもしれない……。
僕がソファー席の下を覗いたり、マガジンラックの中を探したり、しまいにはまだ火の弱い暖炉の中を覗いたりしていると、不意にマスターの声が聞こえた。
「満月が近くなると全然帰って来ないんだよ。きっと明るくてポーンもいろいろ散歩したくなっちゃうんじゃないかな。まったく、困ったもんだよ」
ほんとにねぇ、そう言って笑いあうマスターと奥さんの声が響いた。
僕が暖炉から顔を出すと、手際よく店じまいをしていたマスターと奥さんは僕の顔を見るなり一瞬手を止めた。
一瞬の沈黙に被さるように、今度は笑い声が弾けた。僕がキョトンとしていると、マスターが言った。
「二階にお客さん用の洗面所があるから使っていいよ。短い廊下を真っ直ぐ行って突き当たりを左ね。階段があるからすぐわかるよ。あと準備にもう少し時間がかかりそうだから、家の中をいろいろ見てていいよ」
何で急に洗面所? と思いながらポーンも見あたらず特にすることもないので、僕は言われるままカフェの奥へとつづく短い廊下へ向かった。――
階段はすぐに見つかった。二階の突き当たりには例の学生さんに間貸ししている子ども部屋と思われる部屋があった。主のいない部屋は扉が開いていた。一瞬ふわっと、ラベンダーの香りがした気がした。
洗面所は子ども部屋の手前にあった。これまたすぐに見つかった。見つかったはいいものの……。そもそも洗面所に向かう理由がわからない僕は、たいした感動もないまま、貝殻のような模様のドアノブをゆっくりとまわした。
バスルームの床には白と水色のタイルが敷き詰めてあった。点けたばかりの照明のオレンジの光が、艶めくタイルに反射していた。ところどころ埋め込まれた緑色のタイルが、バスルームの上半分を飾る深緑色の壁とよく合っていた。
入り口正面の洗面台には大きな楕円形の鏡がしつらえてあった。金色の縁取りには植物の葉のような細い曲線の飾りがあしらってあり、年月を経て鈍く光っていた。どうやらこのバスルームの空気を華やかに彩り、どこか歴史を感じさせている一番の主は、この鏡のようだった。
なぜここに来たのか自分でもよく分からないまま、僕はオレンジの照明に誘われるように目の前の洗面台に歩み寄った。まるで初めてどこかの舞台に立つ役者のように。
鏡の中を覗いてみて、ようやく僕がいまここにいる理由がわかった。僕の鼻の頭と左の頬には、黒い煤が付いていた。なんともしょうもない理由だった。自分でも冗談かと思った。まさかあの子ども向けラジオ番組じゃあるまいし。僕はいまさらながらちょっと照れくさい思いをしつつ、からかったりせずに洗面所を教えてくれたマスターの優しさに感謝した。
水でバシャバシャと洗った顔を鏡越しにタオルで拭きつつ、僕はふとルークと出会ったときのことを思い出していた。
『キミがあんまり僕の知り合いに似ていたものだから』
そうルークは言っていたっけ。あれって一体誰のことだったんだろう? いまさらながらふと疑問に思っていた。
一体なんの取り柄もない僕のどこがその人に似てるんだろう。もしかしたら、マヌーのことを言ってるんだろうか? それを言えばマヌーとルークほどに似ている人もそうそういないと思うんだけど……。せいぜい僕とマヌーの似ているとこと言えば――。
また急にラベンダーの香りがふわっと漂ってきた気がして、僕は現実に引き戻された。鏡のむこうから、琥珀色の瞳が僕を見つめ返していた。――
二階を去り際、照明の落ちたバスルームと子ども部屋をさっと見た。やはりとくに動くものは何もなかった。どこか懐かしさを感じさせる咲き始めのラベンダーの香りが、階段を踏みしめた僕の背中を優しく包んだ。
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