6 / 115
第一章
ペーパー・ムーン・カフェ
しおりを挟む
店内を見まわすとその日は他にもお客さんが何人かいて、いつもより賑やかだった。入口近くの一枚板のカウンター席では常連さんたちがチェスに興じていた。オレンジ色の照明に照らされてチェスの駒が動くたびにつやつや艶めいて、駒の放つ微かなオレンジ色の光が漆喰の淡い白壁に反射していた。
カウンター席の真ん中にはスーツ姿にツバと天井の平らな帽子を被った男性が座っていた。スーツは背中の端に少しシワが寄っていた。どこかの商人のようだった。
その商人の隣にカウンター席の奥に隠れるようにして、小さな女の子が手持ち無沙汰に椅子をくるくる回しながら立っていた。女の子はどうやらその商人の連れみたいだった。親子なのかな?
商人は粋な声で馴染みの唄でも歌うように喋っていた。でも決して耳障りなわけではなくて。どこか活気のある、愉快で、力強い声だった。
「私たちのつくる翼はそよ風なんです! ぜひ一度、お試しください。纏っていることを感じさせませんよ」
旅商人はこの街でもたびたび見かけるけれど、そよ風の翼といえば東の果てにしかないという滅多にお目にかかれないものだった。まさかこんなところで見られるとは――。
この粋な商人の声に誘われて、このところ僕の心を独り占めしていた不安は知らず知らず、僕の中から消え去っていた。そして入れ替わるように今度は明るい未来が、時折僕の心に顔を覗かせた。またマヌーに会えるはず。自然と、そんな気がした。
僕はなぜか、あの商人に心惹かれた。どうしてなのかははっきりとはわからないけれど。声を聞いているだけで、なんというか、細々した不安も哀しみも、それがどうしたの? って微笑みかけられてるような、そよ風が吹いたときみたいにふっと心の風通しが良くなるような、そんな気がした。
あの商人はただひたすらに今を生きていたのかもしれない。その逞しいほどの命のきらめきに、僕は束の間、過去からも未来からも解放されていたんだ。たぶん。そのときの僕の瞳にあったのは後悔の過去でも憂うつの未来でもなかった。あるのはただ僕の手の平をあたりまえに照らし続ける鮮やかな五彩の光だった。
それにしても、あの親子は東の果てからいったいどれくらいの長い旅路を辿って来たんだろう。長かっただろうな。きっと僕には想像もつかないほど、遠くて長い旅。あの商人はいま溌剌として見えるけれど、やっぱり落ち込んだりすることもあるんだろうか。それとも、そんな暇もないほどにひたすらに生き抜いてきたんだろうか。そして旅路の果てに、いったい誰に会いたくなるんだろう。そんなとりとめもないことを、考えていた。
店の奥にはまだ火の入ったばかりの赤レンガの暖炉があった。暖炉を囲むように背の低いクルミの一枚板のテーブルやカウチソファ、年季の入った安楽椅子や赤や生成りの不揃いなクッション、天鵞絨のスツールなどがいくつも置いてあった。
この暖炉のそばの席はくつろげるのか、わりと夏でも冬でもいつも人気があるみたいだった。この日も例にもれず早くからお客さんで埋まっていた。――
この街のことをまだ何も言ってなかったよね。この街は学問の街として千年以上も栄えてきた歴史ある街なんだ。朝日をうけて黄金色に染まった朝靄の中に浮かぶ石造りの家々や尖塔の姿は本当に美しくて、夢見る尖塔都市とも呼ばれてる。
だから午後になると、その日の講義を終えた学生さんたちが石造りの街のあちこちで議論を交わす姿がよく見られるんだ。なかでも特にこのカフェは学生さんたちのお気に入りらしくて、この日も火の入った暖炉のそばにはそんな学生さんたちが三人、ソファー席に腰かけて最近なにかと話題の魔法談議を交わしていたっけ。
「知識は世界を別けるためのものじゃない。愛すべきものだよ」
「でも、だからってそんな簡単に魔法を使ってはダメよ」
「彼の言っていることも一理ある。そもそも本来の魔法は人間が使いこなせるようなもんじゃない。いつもすぐとなりにあって、必要なときに少しだけ借りるような……もっと神聖で美しくて、畏怖すべきものだよ。それをいつからだろう、偉い人たちは夢や魔法を勝手に閉じ込めて、管理した気になって。自分だって魔法の一部なのに。あんなのは夢でも魔法でもなんでもない。魔法とは名ばかりの、魔力を秘めた危険な池さ。まあ、ある意味では夢とも呼ぶでしょう。夢はいつか覚めるもの」
僕はホットココアを飲みながら、相変わらず五彩の影をもてあそんでいた。気づけば右側の視界の隅に、半透明の歯車のようなものが浮かんでいた。僕はこの歯車だけは好きになれなかった。そしてなぜかいつも、決まって右側の視界の端に現れた。まもなく平穏が消え去ってしまう。そんな漠然とした不安を感じて、僕は思わず目を細めた。先ほどまではあんなに心惹かれた光景も、いまはただ、神経を逆撫でる眩しいだけの光に過ぎなかった。
僕のわずかな抵抗もむなしく、いまや右側の視界を一杯に覆い始めたチカチカと勢いを増す得体の知れない歯車は、容赦なく僕の平穏な世界を脅かした。ふたたび訪れる不安を遮るように、僕はまた、眩しすぎるこの世界に目を閉じた。
いつしか僕は夢うつつの境に迷い込んでいた。――
カウンター席の真ん中にはスーツ姿にツバと天井の平らな帽子を被った男性が座っていた。スーツは背中の端に少しシワが寄っていた。どこかの商人のようだった。
その商人の隣にカウンター席の奥に隠れるようにして、小さな女の子が手持ち無沙汰に椅子をくるくる回しながら立っていた。女の子はどうやらその商人の連れみたいだった。親子なのかな?
商人は粋な声で馴染みの唄でも歌うように喋っていた。でも決して耳障りなわけではなくて。どこか活気のある、愉快で、力強い声だった。
「私たちのつくる翼はそよ風なんです! ぜひ一度、お試しください。纏っていることを感じさせませんよ」
旅商人はこの街でもたびたび見かけるけれど、そよ風の翼といえば東の果てにしかないという滅多にお目にかかれないものだった。まさかこんなところで見られるとは――。
この粋な商人の声に誘われて、このところ僕の心を独り占めしていた不安は知らず知らず、僕の中から消え去っていた。そして入れ替わるように今度は明るい未来が、時折僕の心に顔を覗かせた。またマヌーに会えるはず。自然と、そんな気がした。
僕はなぜか、あの商人に心惹かれた。どうしてなのかははっきりとはわからないけれど。声を聞いているだけで、なんというか、細々した不安も哀しみも、それがどうしたの? って微笑みかけられてるような、そよ風が吹いたときみたいにふっと心の風通しが良くなるような、そんな気がした。
あの商人はただひたすらに今を生きていたのかもしれない。その逞しいほどの命のきらめきに、僕は束の間、過去からも未来からも解放されていたんだ。たぶん。そのときの僕の瞳にあったのは後悔の過去でも憂うつの未来でもなかった。あるのはただ僕の手の平をあたりまえに照らし続ける鮮やかな五彩の光だった。
それにしても、あの親子は東の果てからいったいどれくらいの長い旅路を辿って来たんだろう。長かっただろうな。きっと僕には想像もつかないほど、遠くて長い旅。あの商人はいま溌剌として見えるけれど、やっぱり落ち込んだりすることもあるんだろうか。それとも、そんな暇もないほどにひたすらに生き抜いてきたんだろうか。そして旅路の果てに、いったい誰に会いたくなるんだろう。そんなとりとめもないことを、考えていた。
店の奥にはまだ火の入ったばかりの赤レンガの暖炉があった。暖炉を囲むように背の低いクルミの一枚板のテーブルやカウチソファ、年季の入った安楽椅子や赤や生成りの不揃いなクッション、天鵞絨のスツールなどがいくつも置いてあった。
この暖炉のそばの席はくつろげるのか、わりと夏でも冬でもいつも人気があるみたいだった。この日も例にもれず早くからお客さんで埋まっていた。――
この街のことをまだ何も言ってなかったよね。この街は学問の街として千年以上も栄えてきた歴史ある街なんだ。朝日をうけて黄金色に染まった朝靄の中に浮かぶ石造りの家々や尖塔の姿は本当に美しくて、夢見る尖塔都市とも呼ばれてる。
だから午後になると、その日の講義を終えた学生さんたちが石造りの街のあちこちで議論を交わす姿がよく見られるんだ。なかでも特にこのカフェは学生さんたちのお気に入りらしくて、この日も火の入った暖炉のそばにはそんな学生さんたちが三人、ソファー席に腰かけて最近なにかと話題の魔法談議を交わしていたっけ。
「知識は世界を別けるためのものじゃない。愛すべきものだよ」
「でも、だからってそんな簡単に魔法を使ってはダメよ」
「彼の言っていることも一理ある。そもそも本来の魔法は人間が使いこなせるようなもんじゃない。いつもすぐとなりにあって、必要なときに少しだけ借りるような……もっと神聖で美しくて、畏怖すべきものだよ。それをいつからだろう、偉い人たちは夢や魔法を勝手に閉じ込めて、管理した気になって。自分だって魔法の一部なのに。あんなのは夢でも魔法でもなんでもない。魔法とは名ばかりの、魔力を秘めた危険な池さ。まあ、ある意味では夢とも呼ぶでしょう。夢はいつか覚めるもの」
僕はホットココアを飲みながら、相変わらず五彩の影をもてあそんでいた。気づけば右側の視界の隅に、半透明の歯車のようなものが浮かんでいた。僕はこの歯車だけは好きになれなかった。そしてなぜかいつも、決まって右側の視界の端に現れた。まもなく平穏が消え去ってしまう。そんな漠然とした不安を感じて、僕は思わず目を細めた。先ほどまではあんなに心惹かれた光景も、いまはただ、神経を逆撫でる眩しいだけの光に過ぎなかった。
僕のわずかな抵抗もむなしく、いまや右側の視界を一杯に覆い始めたチカチカと勢いを増す得体の知れない歯車は、容赦なく僕の平穏な世界を脅かした。ふたたび訪れる不安を遮るように、僕はまた、眩しすぎるこの世界に目を閉じた。
いつしか僕は夢うつつの境に迷い込んでいた。――
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
【完】あの、……どなたでしょうか?
桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー
爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」
見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は………
「あの、……どなたのことでしょうか?」
まさかの意味不明発言!!
今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!!
結末やいかに!!
*******************
執筆終了済みです。
愚かな父にサヨナラと《完結》
アーエル
ファンタジー
「フラン。お前の方が年上なのだから、妹のために我慢しなさい」
父の言葉は最後の一線を越えてしまった。
その言葉が、続く悲劇を招く結果となったけど・・・
悲劇の本当の始まりはもっと昔から。
言えることはただひとつ
私の幸せに貴方はいりません
✈他社にも同時公開
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と叫んだら長年の婚約者だった新妻に「気持ち悪い」と言われた上に父にも予想外の事を言われた男とその浮気女の話
ラララキヲ
恋愛
長年の婚約者を欺いて平民女と浮気していた侯爵家長男。3年後の白い結婚での離婚を浮気女に約束して、新妻の寝室へと向かう。
初夜に「俺がお前を抱く事は無い!」と愛する夫から宣言された無様な女を嘲笑う為だけに。
しかし寝室に居た妻は……
希望通りの白い結婚と愛人との未来輝く生活の筈が……全てを周りに知られていた上に自分の父親である侯爵家当主から言われた言葉は──
一人の女性を蹴落として掴んだ彼らの未来は……──
<【ざまぁ編】【イリーナ編】【コザック第二の人生編(ザマァ有)】となりました>
◇テンプレ浮気クソ男女。
◇軽い触れ合い表現があるのでR15に
◇ふんわり世界観。ゆるふわ設定。
◇ご都合展開。矛盾は察して下さい…
◇なろうにも上げてます。
※HOTランキング入り(1位)!?[恋愛::3位]ありがとうございます!恐縮です!期待に添えればよいのですがッ!!(;><)
異世界帰りの俺、現代日本にダンジョンが出現したので異世界経験を売ったり配信してみます
内田ヨシキ
ファンタジー
「あの魔物の倒し方なら、30万円で売るよ!」
――これは、現代日本にダンジョンが出現して間もない頃の物語。
カクヨムにて先行連載中です!
(https://kakuyomu.jp/works/16818023211703153243)
異世界で名を馳せた英雄「一条 拓斗(いちじょう たくと)」は、現代日本に帰還したはいいが、異世界で鍛えた魔力も身体能力も失われていた。
残ったのは魔物退治の経験や、魔法に関する知識、異世界言語能力など現代日本で役に立たないものばかり。
一般人として生活するようになった拓斗だったが、持てる能力を一切活かせない日々は苦痛だった。
そんな折、現代日本に迷宮と魔物が出現。それらは拓斗が異世界で散々見てきたものだった。
そして3年後、ついに迷宮で活動する国家資格を手にした拓斗は、安定も平穏も捨てて、自分のすべてを活かせるはずの迷宮へ赴く。
異世界人「フィリア」との出会いをきっかけに、拓斗は自分の異世界経験が、他の初心者同然の冒険者にとって非常に有益なものであると気づく。
やがて拓斗はフィリアと共に、魔物の倒し方や、迷宮探索のコツ、魔法の使い方などを、時に直接売り、時に動画配信してお金に変えていく。
さらには迷宮探索に有用なアイテムや、冒険者の能力を可視化する「ステータスカード」を発明する。
そんな彼らの活動は、ダンジョン黎明期の日本において重要なものとなっていき、公的機関に発展していく――。
悪役貴族の四男に転生した俺は、怠惰で自由な生活がしたいので、自由気ままな冒険者生活(スローライフ)を始めたかった。
SOU 5月17日10作同時連載開始❗❗
ファンタジー
俺は何もしてないのに兄達のせいで悪役貴族扱いされているんだが……
アーノルドは名門貴族クローリー家の四男に転生した。家の掲げる独立独行の家訓のため、剣技に魔術果ては鍛冶師の技術を身に着けた。
そして15歳となった現在。アーノルドは、魔剣士を育成する教育機関に入学するのだが、親戚や上の兄達のせいで悪役扱いをされ、付いた渾名は【悪役公子】。
実家ではやりたくもない【付与魔術】をやらされ、学園に通っていても心の無い言葉を投げかけられる日々に嫌気がさした俺は、自由を求めて冒険者になる事にした。
剣術ではなく刀を打ち刀を使う彼は、憧れの自由と、美味いメシとスローライフを求めて、時に戦い。時にメシを食らい、時に剣を打つ。
アーノルドの第二の人生が幕を開ける。しかし、同級生で仲の悪いメイザース家の娘ミナに学園での態度が演技だと知られてしまい。アーノルドの理想の生活は、ハチャメチャなものになって行く。
異世界ツアーしませんか?
ゑゐる
ファンタジー
これは2020年、ウイルス疾患が流行していた時期のお話です。
旅行ができない日本人を異世界に召喚して、ツアーのガイドをする女子高生アンナの物語です。
*
日本の女子高生アンナは、召喚されて異世界で暮らしていました。
女神から授かった能力を使う、気楽な冒険者生活です。
しかし異世界に不満がありました。食事、娯楽、情報、買い物など。
日本のものが欲しい。魔法でどうにか出来ないか。
アンナは召喚魔法で、お取り寄せが出来ることを知りました。
しかし対価がなければ窃盗になってしまいます。
お取り寄せするには日本円を稼ぐ必要があります。
*
アンナは、日本人を召喚し、異世界ツアーガイドの代金で日本円を稼ぐことを思いつきます。
そして事前調査やツアー中、異世界の魅力に気付きます。
アンナはツアー客と共に、異世界の旅を楽しむようになります。
*
その一方で、
元々アンナは異世界の街を発展させるつもりはありませんでした。
ですが、ツアー客が快適に過ごすために様々なものを考案します。
その結果、街が少しずつ発展していきます。
やがて商業ギルドや貴族が、アンナに注目するようになります。
転移した異世界が無茶苦茶なのは、オレのせいではない!
どら焼き
ファンタジー
ありがとうございます。
おかげさまで、第一部無事終了しました。
これも、皆様が読んでくれたおかげです。
第二部は、ゆっくりな投稿頻度になると思われます。
不遇の生活を送っていた主人公が、ある日学校のクラスごと、異世界に強制召喚されてしまった。
しかもチートスキル無し!
生命維持用・基本・言語スキル無し!
そして、転移場所が地元の住民すら立ち入らないスーパーハードなモンスター地帯!
いきなり吐血から始まる、異世界生活!
何故か物理攻撃が効かない主人公は、生きるためなら何でも投げつけます!
たとえ、それがバナナでも!
ざまぁ要素はありますが、少し複雑です。
作者の初投稿作品です。拙い文章ですが、暖かく見守ってほしいいただけるとうれしいです。よろしくおねがいします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる